第23話 苦しみ

「・・・」

 今までになく壮絶に暴れた雅男は息を切らし私を見下ろしていた。

 部屋はまるで突発的サイクロンが吹き荒れたみたいに、凄まじく滅茶苦茶になっていた。

「これを明日どうやって片付けよう・・」

 妙にじんじんと痛む左頬を感じながら、床にうなだれるように座り込んだ私は、頭の片隅でぼんやりとそんなどうでもいいことを考えていた。

 疲れ果てた雅男は、壁を背にへたり込むようにその場に腰を下ろすと、そのままぐったりと力尽きたようにうなだれた。

 チッ、チッ、チッ、チッ・・・、そんな時間の止まった私たち二人の空間の中で、アナログ時計の秒針だけが間の抜けた音を律儀に規則正しく動かし続けていた。

「あいつは・・」

「えっ?」

 そんな静けさを破るように雅男が口を開いた。

「あいつは、よく母さんを殴っていたよ。機嫌が悪い時はいつもだった・・」

「・・・」

 私は顔を上げ雅男を見た。そこにいたのは、力ない無力な子どもの雅男だった。

「そんな光景を物心ついた頃から見ていた」

 雅男は、力なく語った。

「俺たちはまだ小さかったんだ。・・だから、どうしようもなかった・・」

「・・・」

「狭い部屋でさ、団地の2DK。逃げ場はなかった。だから、部屋の片隅で、壁を背にして震えながら弟とくっつき合ってさ。それを見てるんだ」

「・・・」

「本当にどうしようもなかった。俺にはどうすることもできなかった・・」

 雅男は呻いた。そして泣いた。

「嫌だった。母さんを殴らないでほしかった」

 長いよだれが口元から糸を引いた。

「・・・」

 私はかける言葉もなく、そんな雅男を見つめていた。

「うううっ」

 雅男は呻きながら、膝の間に顔をうずめ、心の震えに全身が壊れるほど歯を食いしばった。

「母さん・・」

 こらえきれない苦しみを、全身で必死にこらえるように雅男は呻いた。

「母さん・・」

 地獄の底から助けを求めるような呻き声だった。

「雅男・・」

 私は這うようにして雅男の傍らに行くと、その震える体を包み込むように雅男の肩を抱いた。

「うううっ」

 雅男は母親に体を預ける子供のように私に身を預け、肩を震わせ泣いた。

「雅男・・」

 雅男の苦しみがその震える体から伝わって来るようだった。

「俺は見た」

 突然、雅男は呟くように言った。

「えっ?」

「見たんだ・・・」

 ふいに顔を上げた雅男の目はただならぬ何かを宿していた。

「家に帰ったら、なんか変なんだ」

「・・・」

 この先を聞きたくない。私はとっさに思った。この先には、とても何か・・、とても耐え難い何かがある気がした。

「なんかこういつもと違う何かが・・、嫌な空気が流れているんだ。言葉ではうまく説明できないけど・・、ものすごく嫌な予感がした・・」

「・・・」

「でも逃げられなかった。あの時、俺はもう行くしかなかったんだ・・」

 雅男の呼吸が荒くなっていった。

「ゆっくりと、玄関からキッチンを抜けて、居間の扉の前まで歩いて行った。まるで夢の中を歩いているみたいだった。薄暗い、靄のかかったもやっとした空間を自分の足じゃない何かで歩いているみたいだった。ふわふわとした・・、何か・・」

 雅男はゆっくりと、何かをなぞるように話していった。

「そして、俺は居間の扉の前に立った」

 雅男の言葉に震えるような緊張が走り、目の色が恐怖に変わった。

「俺は・・、俺は扉を開けた」

 そこで雅男は頭を抱え震えた。

「うううっ」

 雅男は苦しそうに呻いた。

「もういいよ。雅男」

 私は力いっぱい雅男を抱きしめた。

「うううっ」

「雅男」

「母親がぶら下がってた」

「!」

 私の胸に一瞬、稲妻のようなショックが走った。

「天井から・・」

「もういい、もういいよ。雅男」

 それでも話を続けようとする雅男を私は止めた。

「天井から、母さんがぶら下がってるんだ」

 雅男は全身で震えていた。

「腰が抜けたよ」

 雅男は泣きながら笑った。

「腰が抜けて、何もできなくて、口は叫びたいんだけど、ただパクパクあわあわしていた。全身に力が入らなくて、頭が真っ白で・・、そして、俺はぶら下がっている母さんを見上げていた・・」

「・・・」

「母さんが・・、何か別の物みたいだった。母さんなんだけど母さんじゃなかった。本当に物みたいだった。でも、それは母さんだった。確かに母さんだった」

「・・・」

「見たくないけど、確認するために見ないわけにいかなかった・・」

 雅男は力いっぱい瞼を固く結んだ。

「それは確かに母さんだった。嫌だったけど、それは母さんだった」

「・・・」

「たくあんみたいだなって思った。何てこと考えてんだって思った。でも、首のところがしわしわでありえないくらい伸びてて、色が変で、それがたくあんみたいだって思った。それを今も覚えてる」

「近所のおばあさんの家の庭にたくさん、その季節になるとたくあん用の大根を干していたんだ。それがその時、重なったんだ。どうでもいいことなんだけど」

 雅男は小さく笑った。

「・・・」

「バカだよ。俺・・、もっと他に考えることあるだろうに・・」

「・・・」


「・・・」

「おうっ、どうした。うんこ踏んづけちまったみたいな面して」

 振り向くと、熊さんだった。私はまたいつものように撮影所裏の階段に座っていた。

「熊さんにも辛いことってあるの」

 私は隣りに座った熊さんのその屈託ない笑顔をたたえた大きな四角い顔を見つめた。

「何言ってんの。小さい時からそればっかだよ」

 熊さんは少し憤慨気味に言った。

「そうだったんだ。ごめんなさい」

「はははっ、いいって。俺こんなだからよく勘違いされんだ。一見すると悩みもなんもなさそうに見えるだろ」

「はい」

「そうはっきり、はいって言われるとちょっと傷つくけどな。でも俺なんかほんと大変だよ。このご面相だろ、小さい時から、仲間外れなんて当たり前。いじめ差別、なんでも来いだよ。女の子からはただ立ってるだけで怖いって逃げられるし。何にもしてないんだよ。ただ見た目が変ってだけでそれだよ。ほんと辛いよね」

「でも、それだけならまだしもさ。まだある話じゃない。ところがさ。遠くのさ。何年か振りに会いに行ったいとこにまで、無視されたりしてさ。親戚だよ。しかも、めっちゃ久しぶりに会ったってのに。無視だよ。ガン無視。そいつの親戚に二人の姉妹がいてさ。そいつらまで無視だよ。遠くまで行って滅茶苦茶久しぶりに会ったっていうのにさ。無視だよ。無視。普通子供だったら一緒に遊ぶじゃない。そういう時。それが無視だよ。全員で。ガン無視。俺、一人ポツ~ンだよ。この屈辱ったらないよ」

 熊さんは私をどうだと言わんばかりに見た。熊さんのどこかおどけた話し方がおかしくて、私は思わず笑った。

「普通さ。家族とか親戚とかはさ、世間が冷たくても助けてくれるじゃない。それが無視だよ」

「はははっ」 

「それでそのいとこの名前が良人(よしひと)だよ。どこが良い人なんだよ。まいっちゃうよ。まったく」

「はははっ」

「俺にはさ、兄貴が一人いるんだけど、その兄嫁がさ。気象の激しい人でさ。激しいっていうか荒いって感じかな。とにかくすごいんだよ。その兄嫁がさ。もう俺なんかゴキブリを見るような目で見るわけだよ。露骨にさ。本当に汚い嫌なものを見るような目でさ、眉間にこう、しわを寄せてさ」

 熊さんは兄嫁を真似て眉間にものすごい縦皺を入れた。

「はははっ」

「そんでさ、まだ小さい姪っ子と甥っ子がいるんだけどさ、その子たちがおじちゃ~んなんて言って来るんだよ。俺んとこにさ。俺はなんか知らんけど子供にだけは人気あってさ。子供に懐かれちゃんだよ。そしたらさ。こっち来なさいって。慌てて連れ去るように、俺から引き離すんだよ。ほんと。露骨にさ。近寄っちゃいけません。みたいにさ。いくら俺でもそれは傷つくよな」

「はははっ」

 困った顔をして首を傾げる熊さんの表情が面白かった。

「そうそう、こないだもさ。部屋借りなきゃいけないってなってさ。不動産屋いくじゃない。そこで、職業何されてるんですかって訊かれてさ。なんて答えていいか困っちゃってさ。正直に汁男優ですって答えるわけにもいかないだろ。でも、男優だから、俳優ですってのもなんか変じゃない」

「はははっ」

「それで、映像関係です。とか言ったらさ。もっと具体的にお願いしますってさ。いや、ちょっとは人の気も察してくれよって思うよね。分かるだろって」

「ははははっ」

「こう見えて、俺だっていろいろ苦労は絶えないんだよ」

「ごめんなさい」

「はははっ、まっ、いいけどさ。まあっ、何があったか知らねぇけど、俺よりダメな奴なんていねぇから。大丈夫。こんな俺でも生きてけんだからさ」

「はい」

 熊さんは落ち込んだ私を元気づけるためにわざとおどけた話をしたのだろう。なんだか熊さんのそのやさしさがうれしかった。

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