第17話 汁男優熊さんの話

 雅男はまたお酒を飲むことをやめた。とりあえず平穏な日々が訪れた。

 でも・・、これがいつまで続くのか、どこか黒いしこりのような不安な感覚が、私の心の片隅に沈殿していた。


「おうっ、またここにおったんか」

 振り返ると熊さんだった。私はまた詩織さんお気に入りのいつもの場所に座っていた。

「遅かったですね」

 撮影が終わってからもうだいぶ時間が経っていた。

「また説教だよ」

 熊さんは、参ったというような表情で私の隣りにどかりと座った。

「あの監督好きなんだ。お説教。えらっそうに。参るよ。全く。しかも長いんだよ。これが」

 熊さんの愛嬌のある言い方に私は思わず笑ってしまった。

「ほんとねちねちねちねち、堪んないよ。しかも、大学出のインテリだからさ、言い方がまたまどろっこしくってさぁ。何言ってっか分かんねぇしよ」

「はははっ」

「しかも、あいつ俺より二回り以上年下だよ。ほんと参るよ、まったく、自分のストレスをこっちに向けんなっつうのよ」

「大変ですね」

「俺たちみたいな下っ端は、現場のストレス丸抱え、集中砲火だからね。全部俺たちのとこ来るから。女優さんが遅れて来たとかさ、機材トラブルとかさ、現場が押してるとかさ、撮影がうまくいかないとかさ。歯が痛いとか、最近禿げて来たとかさ。昨日行った焼き鳥屋がなんか微妙だったとかさ。俺たち全然関係ないのに。「お前たちのせいだって」。ありとあらゆる不満、ストレス、全部俺たちのせいだからね。消費税が導入された時だって俺たちのせいにされたからな。なんで缶コーヒーが百円で買えねぇんだよって。頭はたかれてさ。知らねぇよ」

「はははっ」

 熊さんは、人懐っこい独特の笑顔で、いつも陽気に話した。

「あんたぐらいなもんだよ。俺たちにやさしく接してくれんの」

「はあ」

 熊さんは急にトーンダウンしてしみじみと言った。

「他の女優さんなんか酷いもんだよ。まず目がさ、ゴキブリを見る時以下の目だからね。人間として見てないもん。たまんないよあの目は。もう俺たちにプライドなんかないんだけどさ。でもあの目は、辛いよね。おんなじ空間にいるってだけで、眉間にものっすごい深い縦のしわが入るからね。そして、ギロッて睨むんだよ。パンにカビ生えてるの見つけたみたいに、嫌な顔してさ」

「ははははっ」

「笑い事じゃないよ。もう、男として見られないならまだしもさ、人間として見てもらえないからね」

「ははははっ、もう、笑わせないでくださいよ」

 そう困った顔をする熊さんがまた愛嬌があって面白かった。

「でも、ほんと汁男優なんて、惨めな職業さ。女優さんだけじゃない、男優やスタッフからも見下されてさ。まあ、当たり前なんだけど・・、ペコペコ頭下げて、見下され軽蔑されてさ、それでも卑屈にヘラヘラ笑って安い日当もらってさ、そんな風に生きていかなきゃならない。本番は無し。女優さんと口利いただけではっ倒されるんだから。ほんと、惨めだよね俺たち」

 そう言いながらもなんか明るい熊さんの語り口が面白かった。

「でもさ、俺はこんな仕事でも誇りなんてもんを持ってんだぜ」

 熊さんが急に真面目な顔になって私を見た。

「俺はこの汁男優の仕事で、立派に子ども二人を大学までやったしな」

「へぇ~、お子さんいたんですか。二人も」

「ああ、俺なんかにゃもったいないくらい優秀な息子と娘でな。誰に似たのか勉強も出来ちゃってね。しかもやさしいんだよ。これが」

 熊さんは本当に嬉しそうな表情で言う。

「ちっちゃい時にさ、「お父ちゃんいつもありがとう」って、でっかい画用紙にクレヨンで書いてさ、帰りが遅い俺のために食卓の俺の席に置いてあるんだよ」

「へぇ~、ほんと良い子ですね」

「うん」

 熊さんは自分で言いながら、もう涙ぐんでいる。

「でも苦労かけたよ。俺がこんな仕事してるからな」

 熊さんはため息交じりに言った。

「やっぱりね。いじめられるんだよ。学校で。当たり前っちゃ当たり前なんだけど・・。俺がこんな仕事してるからね。それでね、学校に呼ばれるんだよ。お父さん来てくださいって。それで行くじゃない」

「はい」

「するとさ、そこで担任の若い大学出たてみたいな若い担任がさ、偉そうにねちねちねちねちね。はっきりとは言わないんだけど、明らかに俺の事バカにするわけ」

「本当ならさ、いじめてる奴が悪い訳じゃない。なのにさ、なぜか俺が怒られるんだよ。あなたの職業がいけないんだみたいなさ。あなたがしっかりしなからだみたいなね。あなたがだらしないからだみたいなね。もちろんはっきりとは言わないんだよ。でもね、ねちねち回りくどくさ。少しずつ外堀埋めてくみたいに、真綿で首を締め上げてくみたいにじわじわ責めて来るんだよ。これが」

「俺だって、一応、お天とうさまに面と向かって顔向けできる職業じゃないことぐらいは分かってるし、頭悪くて、学もねぇしさ、それもそうだなとは思うからさ、その辺は、反論しないんだけどさ。でもさ、やっぱり、いじめってのはいじめる奴が悪いでしょ?」

「そうですよ」

「だよね。それなのになんで俺が怒られなきゃいけないんだって。でも、言えないんだよね。引け目って言うの?やっぱ、こんな職業じゃない。やっぱいじめられるよなって・・」

「・・・」

「そんな俺を、隣りに座ってる息子がさ、また情けない目で俺を見るわけだよ。もう死にたくなるよね。ほんと」

 熊さんは顔を皺皺にして、苦渋の表情を浮かべた。

「でもさ、その帰り道でさ、父ちゃん俺気にしないからって、俺、学校の先生になる。先生になって、いじめられている子たちをほんきで助けられる先生になるんだって、そう言うんだよ。ほんとは自分が 一番辛いくせにさ。もう、泣けてくるよね」

 熊さんは、本当に泣き始めた。

「熊さん・・」

 私は震える熊さんの大きな背中に手を回しさすった。

「しかし、なんでああ、大学でのインテリはねちねち回りくどくしゃべるかね。俺はあれが一番たまんないよ」

 熊さんは涙で濡れた顔を上げ、言った。

「まったく・・、世の中あんな連中が牛耳るからおかしくなるんだよ。なあ、メグちゃんもそう思わないか」

「はははっ、そうかもしれませんね」

 さっきまで泣いていた熊さんはもう、気持ちが切り替わっている様子だった。

「さてっ」 

 熊さんは大きく息を吐くように言うと、立ち上がった。

「まだ仕事あるんですか」

「うん、これからまた次の仕事。俺たち日当安いから掛け持ちしないとやってけねぇんだ」

「そうなんですか」

「まだまだ、息子たちに仕送りもしてやりてぇしな」

「奥さんにも、良い顔したいしね」

「はははっ、俺の奥さんは、こんな情けない俺を見限って、出てっちまったよ」

「そうなんですか!」

 私はびっくりした。でも、熊さんはあまり気にしている様子はない。

「俺の奥さんAV女優だったんだぜ」

「えっ」

「AV女優と汁男優の禁断の恋。聞くも涙。語るも涙。まあこの話は乞うご期待だな」

「ええっ、めっちゃ聞きたいな」

「はははっ、それは次回のお楽しみってことだ。それじゃ」

 熊さんはその大きな熊みたいな右手を挙げた。

「はい」

 私も手を振った。

「じゃあな」 

 そう言って、颯爽と熊さんは去って行った。熊さんはこの仕事で出会った人の中で一番好きな人だった。おもしろくてやさしくて、大らかで、いつも明るかった。世の中あんな人ばかりなら、世の中平和なのにな。私は思った。

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