第15話 凪咲の話

 あれから、雅男はお酒を飲むことをやめた。雅男の中で何かがあったのだろう。気分も少し落ち着いているようだった。私はとりあえずホッとした。あれは一時的なことだったんだ。私はそう納得した。


 凪咲(なぎさ)のことはいつも気になっていた。どこか危うい不安定さを彼女は持っていた。

 まだ十八歳。そこにはありありと幼さが滲んでいた。彼女を見る度、私はちょっと前の私の影を見ているような、そんな既視感にも似た一瞬の時間の揺れのような感覚が頭の中心を通り過ぎた。

 男優に抱かれながら。凪咲はいつも挑むようにカメラを見つめていた。何かを訴えるように、何かに怒りをぶつけるように、何かに憎しみを向けるように、何かに抗うように・・。

 それはたった一人の聖なる戦いのようでもあったし、滑稽なピエロのパントマイムのようでもあった。

「いつもここにいますよね」

 振り返ると、凪咲だった。

「うん、なんか居心地いいんだ」

 私はあの詩織さんのいつも座ってる施設裏のコンクリートの階段に座っていた。今日も空は素晴らしく晴れ渡り、郊外の自然あふれる環境のためか、空高くに一羽、大きなトンビが悠々と舞っていた。

「私もいいですか」

「うん」

 私は快くうなずいた。凪咲は嬉しそうに私の右隣りに座った。その横顔は、やはりまだ子どもだった。

「あっ、ミルミル」

 私の持つ飲みかけのミルミルを凪咲は嬉しそうに見つめた。凪咲の手元を見ると、やはりミルミルが握られてた。でもそれはピンク色をしていた。

「これイチゴ味ですよ」

「へぇ~、そんなのあるんだ。気付かなかった」

「新発売です。ミルミルSイチゴ味」

 自分で作ったわけでもないのに、凪咲は得意気に言った。

「ふふふっ」 

 それが何だか、おかしくて私は笑った。

「おねえさんも好きなんですね。なんか好感もっちゃうなぁ」

「メグだよ」

「メグさん?」

「うん」

「あっ、私凪咲です」

「うん、知ってる」

「あっ、そうだったんですか」

「うん、なんか気になってたんだ。あなたのこと」

 凪咲はそこで少し照れたように笑った。

「メグさんはなんでこんな仕事してるんですか。こんなって言ったらあれですけど・・」

 子どもらしく、率直に凪咲は訊いて来た。

「借金があるんだ」

「そうだったんですか・・。私、メグさん最初に見た時、なんでこんな普通の人がここにいるんだろうって不思議だったんです。この業界って変わった人たち多いじゃないですか」

「うん」

 私がうなずくと、二人で顔を見合わせ笑った。

「多いよね。確かに」

 凪咲は話をしてみると、スレたところもなく、むしろ礼儀正しい普通の子に見えた。

「私も訊いていい?」

「はい、なんでしょう」

「凪咲は、なんでいつもカメラを睨んでいるの」

「・・・」

 凪咲は、今までの明るい感じから急に顔を曇らせ、少しうつむき黙った。私は訊いてはいけないことを訊いてしまったかと少し焦った。

「本当に辛い時、人は笑うんです」

「えっ」

 しばらく黙った後、一人呟くように凪咲は言った。

「人は笑うんです」

 凪咲は、陰りの中にどこか清々しささえ滲ませた何と言えない表情でまっすぐ前を向いていた。私はそんな横顔を黙って見つめた。

「ある日、厚子ちゃんが教室に入ってきたんです」

「厚子ちゃん?」

「はい、中学の時、ずっと保健室登校してた子」

「クラス中が静まり返った。帰りのホームルームの時で、授業も全部終わって、後は帰るだけだったからみんな嬉しくて騒いでたの。そこに厚子ちゃんが突然入って来た。教室の扉がガラガラって開いて。クラス中全員が厚子ちゃんを見た。そして、教室は凍りついたみたいに静まり返った」

「・・・」

「その時、彼女は笑ってた。ものすごく軽い感じで。ヘラヘラ笑ってた。「あれっ?」って感じで。へらへらして。そして、担任と何か話してすぐ出て行った。なんだ。平気そうじゃん。その時、私は思った。なんでみんなと一緒に授業受けないんだろうって、その時思った」

 そう語りながら、よく晴れた空を凪咲は見つめていた。

「でも、私も高校で不登校になっちゃった・・」

 凪咲はそこで笑いながら私を見た。

「今まで仲の良かったクラスメートから嫌われたの。教室にいても自分の居場所がなかった・・。みんなが楽しくしている時、私はぽつんと独りぼっちだった・・。一人机に座って、何もできなかった・・。みんな大きな豪華客船に乗って楽しそうにしているのに、私だけ海の上で漂流してるみたいだった」

「・・・」

「それで、私は高校に行けなくなった・・」

「でも、親が行け行けって、担任も家に毎日のようにやって来るし、それに負けて、たまに行くの・・」

「でも、行くのが辛いからなんだかんだ寄り道して、道端の石とか意味もなく蹴りながら、ゆっくりゆっくり歩いて・・。そして、だから遅刻するの。どうしても時間に間に合わないの。いつも。そして、遅れて教室の扉開けるでしょ」

「うん」

「教室中がし~んてなるの。あの厚子ちゃんの時みたいに」

「・・・」

「堪らなかった・・。あの私を見る冷たい視線と空気。世界中が一瞬で凍ったみたいだった。あの一瞬で、今まで積み上げて来た私の大事な部分を全部ズタズタにされた気がした」

「・・・」

「でも・・、私も笑ってた。厚子ちゃんみたいに」

「・・・」

「ヘラヘラ、ヘラヘラ、自分は平気だよって。ヘラヘラヘラヘラ、道化師みたいに。自分の弱さを悟られないように。ヘラヘラ笑ってるんだ」

 凪咲は笑いながら、私を見た。でも、目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「・・・」

「惨めだった」

 そこで、凪咲は泣いた。顔を膝にうずめて泣いた。

「・・・」

 私はかける言葉もなく、そんな凪咲をただ見つめることしかできなかった。

「だから私は、自分のビデオを私の高校の同級生たちに送っているんだ。私を見ろって、私を見てって」

 凪咲は一しきり泣き、顔を上げると言った。

「・・・」

「私を。本当の私を見ろって」

「・・・」

「私は本当は笑ってなんかいない。これが私なんだって」

「・・・」

「私は傷ついているんだって」

「・・・」

「私は・・」

 凪咲は、言葉にならない言葉を必死でひねり出そうと苦しみ、もがき、そして、その中で彷徨い迷っていた。

「私は・・、私を傷つけた全ての人間を許せない。でも、一番許せないのは自分なんだ。自分が許せない。なんかよく分からないけど、自分が許せない」

「・・・」

「あの時笑ってた自分が許せないの・・」

 そう語る凪咲の横顔に、やるせない深い怒りと憎しみを感じた。でも、それは同時に私だった。凪咲の中に私は私を見ていた。

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