第14話 AV監督権田の話
「あっ、帰ってきた」
私は玄関の音を聞きつけ、立ち上がった。
「お帰り・・」
雅男は玄関に体を預けるように、ふらふらと立っていた。最近、酔って帰ってくることは多かったが、今日はまた、しこたま酔っていた。
「大丈夫?」
私は、脇から雅男を支えるように、寄り添った。
「酒」
雅男がろれつの回らない舌で叫んだ。
「もうやめた方がいいよ」
私は雅男をリビングのソファに座らせると、コップに水を満たして持って行った。
「はい」
雅男にそれを手渡す。
「ブーッ」
しかし、雅男はそれに口をつけると、すぐに思いっきり吹き出した。
「酒って言っただろ」
「もうやめた方がいいよ。さっ、お水飲んで」
私は、コップの水を促した。
「なんだオメェー」
「えっ」
雅男の表情が豹変した。見ると、雅男はものすごい形相で私を睨んでいる。
「俺には酒も飲ませねぇのか」
「えっ、そうじゃなくて、ものすごく酔ってるし、もうやめた方がいいよ」
「偉くなったな」
「えっ」
「偉くなったな」
強い口調で雅男が立ち上がった。
「えっ」
なんだかいつもと違う雅男のオーラに私はたじろいだ。私を見つめる雅男の目の奥には、いつも輝く理性の光が消え、凶暴な野獣の目があった。
バチ~ン
私は一瞬何が起こったのか分からなかった。私は頬を抑え、その場にへたり込んだ。
「・・・」
自分が頬をはたかれた事に気付いたのは、顔を上げ、雅男の顔を見た時だった。雅男は、自分で自分に驚いているみたいに、目をカッと見開いて自分の震える右手を見つめていた。
「雅男・・」
私はそんな雅男を見つめた。その時、私の中に、怒りも悲しみもまったく湧いてこなかった。私のことよりも雅男のことが心配だった。それほどに、雅男自身が動揺していた。
雅男は、そんな私の視線から逃げるように、足早に自分の部屋へと行ってしまった。
「・・・」
私はしばらく自分の身に起こったことをうまく理解できないでいた。そんな私の周囲を、時間だけが虚しく、決められた物理法則したがって淡々と流れていた。
両親でさえ私をぶったことは一度もなかった。叩かれたことといえば、小学校の時、学校の先生に、忘れ物で拳骨をもらったくらいのものだった。
「・・・」
私は、自分の左頬の感触を確かめるように両手を添えた。まだそこには、じんじんとした痛みが熱を持って、小さな羽虫のように蠢いていた。それだけはまごうことなき現実だった。
次の日、何事もなかったみたいに、いつもの私と雅男に戻っていた。昨日のことは、お互い一切触れることはなかった。何かの合意書を交わしたみたいにそれは厳格に守られた。
「よりちゃんがいないとなんか寂しいね」
「うん」
でも、何気ない日常会話はどこかぎこちなかった。
「監督は童貞って本当ですか」
「本当だよ」
一人、現場の掃除をする権田監督はなんてことないみたいに、明るく言った。制作会社はお金がなく、監督自らも片づけ等の雑用をしなければならなかった。
「なんで?」
「僕はね。童貞くんたちの気持ちを忘れたくないんだよ。彼らの視点で、彼らの気持ちで、AVを作りたいんだ」
権田監督は目をキラキラと少女漫画の主人公みたいにして言った。
「はあ」
変わった人だとは思ったが、やはり変わっていた。
「僕はね。九州の端の離島の生まれなんだ」
「そうだったんですか」
「ほんとに電気もないような所でね。いまだにランプだよランプ。この近代化の進んだこの国で灯油ランプだよ。テレビなんかもちろん無い」
「すごいですね」
現代っ子の私には想像すらできなかった。
「親父はもちろん漁師。俺もいずれは漁師。長男だしな」
「それが何で、AV監督なんですか」
「ああ、そんな僕がだ。出会ってしまったんだよ」
「はあ」
そこで監督は少し嬉しそうにニヤリと笑った。
「中学の修学旅行だった。東京に行ったんだ。そこのホテルでだ、見てしまったんだよ」
「何を見たんですか」
「有料チャンネルだよ」
権田監督はその無精ひげで毛むくじゃらの顔からのぞく、大きな目を更に大きくして私を見た。
「その時の衝撃ったらなかった。こんなきれいな人が世の中にいるのかって、もう信じられなくて目の前が一瞬くらくらしたよ。別の次元の、本当に美しい神さまの世界を見てしまったような衝撃だった」
「濡れる白い肌、吐息を漏らす妖艶な唇、乱れる黒い髪、そしてなんといっても、あの目だった。あの目。全ての男心を射貫いてしまうようなあの潤んだ、挑発的でいて悩まし気な何とも言えない目。僕はその女優さんの姿態に、蠢きに・・、一発でやられてしまった」
権田監督は、遠い目をして一人何度もうなずいている。
「僕は中学を卒業すると、家出するようにしてすぐに上京した。そしてこの世界に飛び込んだ。親には勘当された。もう二度と帰れない」
権田監督は腕を組み、険しい表情をした。
「その女優さんて誰なんですか」
「分からない。今となっては全く分からない」
権田監督は、悲し気に首を横に振った。
「僕はね、あの時の気持ちでAVを撮りたいんだ。あの純真で真っすぐな感動を抱いたままの心でね。だから、僕は童貞を守り通しているんだ」
権田監督は自分の言葉に感動しているのか、少し目を潤ませ天井を見つめ言った。
「なんかすごい話ですね・・」
この業界は変わり者が多かったが、権田監督はその中でもかなりぶっ飛んでいた。
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