第13話 兄の話
「ただいま。あっ」
入れ違いに、雅男がちょうど出て行くところだった。
「今日も飲みに行くの?」
「悪いかよ」
「えっ、悪くはないけど・・」
なんか雅男はいつもと違っていた。
「悪いのかよ。俺が飲みに行っちゃ悪いのかよ」
「ベ、別に」
いつもと違う雅男の剣幕に私はたじろいだ。
「お前の方が稼いでるからっていばるんじゃねぇよ」
「別に、いばってなんか・・」
雅男はそのまま出て行ってしまった。
「・・・」
なんか機嫌が悪かったんだ。私はそう思おうと思った。
「へぇ~、そうなんだ。やさしいお兄さんだったんだね」
「はい」
私は詩織さんに、兄が初めてのバイトのお給料でマフラーを買ってくれた話をした。
「でも、死んじゃった・・」
「あんたも苦労したんだね」
「はい・・」
私と詩織さんはいつもの撮影所の裏の階段に並んで座っていた。
「私の兄貴なんて、ほんと最低な奴だったわ」
「そうだったんですか」
「ほんと最低だった。親の前だけ良い顔して陰では私をいじめるの。本当最低な奴だったわ」
詩織さんは膝に右肘をつき、その右手に頬を乗せた。
「私がまだ小さい時に手に魚の目ができたの。うちは両親が共働きだったから、兄に医者に連れてってあげてってお母さんが言ったの。そしたら、兄は「うん、分かった」って、ものすごい元気いっぱい答えるの。「うん、分かった」って、ほんと元気いっぱい。目を輝かせて答えるの。だけど、次の日、医者に行く時間なるでしょ」
「はい」
「そしたら、「お前ひとりで行け」って。全然態度違うの。「お前一人で行けって」。私が一人で行けないの知っててそういうこと言うのよ。いじわるで。それで、私が卑屈になって必死に頼むの。「お願い一緒に行ってって」。泣いてお願いするの。「お願いお願い」って。そうするとにやにや笑いながら、「しょうがねぇなぁ」って。「しょうがねぇなぁ」って。それで、本当に嫌そうに行くの。でも、バスの中でずっと、「ああ、本当は遊びたかったのになぁ」とか「あのテレビ見たかったのになぁ」って、隣りでぶちぶちずっと言ってるの」
「はははっ、ひどい」
詩織さんのおどけた物言いに私は笑ってしまった。
「そしてに医者に行くでしょ。帰ってくるでしょ」
「はい」
「お母さんが帰ってくるでしょ。お母さんが「詩織をちゃんと病院連れてった?」って聞くでしょ。そしたら「うん、連れてったよ」って。「うん、連れてったよ」って。元気いっぱい。ほんと元気いっぱい。「連れてったよ」って。もう信じられなかったわ。そう言う奴だった。ほんと、最低」
「はははっ、ひどいお兄さんですね」
「ほんと、最低だわ。思い出したら、なんかまた腹立ってきた」
「はははっ」
「ある日、それも小さい頃だったけど、私が親の財布からお金を盗んでおもちゃを買ったの。ほんと、今考えるとどうでもいいような小さなぬいぐるみ」
「はい」
「そしたら、それが両親にばれてものすごく怒られた。でも、その事は別に良かった。悪いのは私なんだし。でも、許せなかったのは、それがなぜばれたかってことだった」
「なんでばれたんですか」
「兄がチクってたの。親に」
「えっ」」
「兄がチクってたのよ。私がお金盗んだって」
「・・・」
「でも、最初に親の財布からお金盗んだのは、兄なのよ。それを私がまねして、それで・・」
「・・・」
「そこまでして親に愛されたいかって思ったわ。私を売ってまで、そこまでして親に愛されたいかって、そこまでしてって思った」
「本当に要領のいい奴だった。要領だけは本当に良かった」
詩織さんは少し怒り口調で言った。
「・・・」
「ほんと最低な奴だった」
「ある時なんか、私が兄の後ろをついてったの。まだ小さかったから、兄を追いかけたくなるじゃない。そしたら、「ついてくんな」って。「ついてくんな」って、振り返って怒鳴るの。そしたら、その拍子に足滑らせて田んぼに落ちたの。そして全身泥だらけ」
「はははっ」
「そしたら、「お前のせいだ」って」
「ははははっ」
「自分で勝手に転んでんのに」
「はははっ」
「お前のせいだって」。もう無茶苦茶だったわ」
「はははっ」
詩織さんの話と、話し方はとても面白かった。
「火垂るの墓って映画あるじゃない」
「はい、高畑勲さんの」
「そう、あれ見て、「これの何が面白いのか分からない」って呟いてたわ。そういう奴なのよ」
詩織さんはため息交じりに言った。
「へぇ~、色んなお兄さんがいるんだな」
私は、初めてそのことに思い至った。自分はとても運のいい人間だったのかもしれない。お兄ちゃんは死んでしまったけど、あのお兄ちゃんと、兄妹として出会えたことは、奇跡的な幸せだったのかもしれない。
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