第9話 刺繍入りのハンカチ

 メイクさんが無言のまま私の髪をセットしてくれている。まだ若い可愛らしい女の子だが、こういう事には慣れているのだろう、黙っているのは私への気遣いだと思った。

「・・・」

 私は鏡に映る自分の姿をただ見つめていた。そこには全く他人のような自分がいた。

 控室の扉が開いた。

「すみません。準備できました。スタンバイお願いします」

 いよいよだ。私は立ち上がり、廊下に出た。

 不思議と心は落ち着いてた。真っ白い廊下を、若いADの子の後をついて私は静かに歩いて行く。

「あっ」

 私は廊下の向こうから走ってくる、やたらとか体のデカイ、色黒の男を見て驚いた。

「あれ、和尚さん」

「おお、お前か」

「こんなとこで何してるんですか」

「俺は天職を見つけたよ」

「はっ?天職ですか。天職って・・」

「お~い、良純さ~ん、こっちで~す。女優さんが待ってますよ~」

 遠くで呼ぶ声がする。

「お坊さん背徳シリーズが大ヒットしていてな」

「背徳シリーズ?・・」

「じゃあな、おお忙しい、忙しい」

 和尚さんは、話もそこそこに、さっさとどこかへ走って行ってしまった。

「・・・」


 ビルの屋上で私は一人、タバコをふかしていた。見慣れた景色がいつもと変わらず蠢いている。この街はどうしてこう、いつも猥雑なのだろう。

 その時、ふいに涙が溢れてきた。

「・・・」

 体を売るなんて慣れているつもりだった。でも、涙が次から次に溢れてきて止まらなかった。なんだかよく分からない、何かとても大切な、絶対に侵してはならない何かを、私は失ったような気がした。

「ほらっ」

 かわいいウサギの刺繍の入ったハンカチが私の目の前に差し出された。見ると、いつの間にかマコ姐さんが私の隣りに立っていた。

「ありがとうございます」

 声にならない声でそう言うと、私はそれを受け取り、涙を拭った。マコ姐さんは、そんな私の隣りに、ただやさしくいてくれた。

「マコ姐さん。私たちが初めて会った時のこと覚えてます?」

 私は顔を上げ、まだ少し、拭いきれない涙が残った目で、マコ姐さんを見た。

「ああ?なんだよ。突然」

「初めて会った時ですよ」

「・・・、忘れたよ。そんなこと」

「私は覚えてますよ」

「いちいち、そんなこと覚えてんのかよ。マメだねぇ」

「突然入り口に現れて、あたしマコ。あんたは?って。妙に貫禄のある人だなって思ったんです」

「そうだったかな」

「私、メグですって言ったら、メグか良い名前だって」

「そうだったか。全然覚えてねぇぞ。酒の飲み過ぎかな」

 そう言って、とぼけているのかおどけているのか、マコ姐さんは首を傾げ上の方を見た。

「最初の日の仕事が終わって、部屋で一人で私が泣いていた時です。ほらって、あの時も桃色の端に可愛いウサギの刺繍のしてあるハンカチを目の前に差し出して」

「そんなことしたかな」

「私はそれを受け取って涙を拭ったんです。拭った目で改めて見上げると、髪をきれいにアップにしたきれいな女性が私を見降ろして、立っていたんです。それがマコ姐さんだった」

「う~ん、そのきれいなってとこは確かにその通りだな」

 マコ姐さんはまじめな顔で言った。

「ほんとにきれいだなって思ったんです。こんな人もいるんだなぁって。あの時の刺繍の模様も、今でもはっきり覚えてるんです」

「あれは、あたしが自分でしたんだ」

「えっ、あの刺繍。マコ姐さんがしたんですか!じゃあ、これも」

 私は改めてハンカチのかわいいうさぎの刺繍を見た。

「そんなに驚かなくてもいいだろ。あたしにだってそんな趣味もあるんだよ」

 マコ姐さんは少し顔を赤らめ、わざと遠くを見つめた。そんなマコ姐さんを見るのは初めてだった。

「ほんとですか」

「ほんとだよ」

「ふふふっ」

 ちょっとむきになって言うマコ姐さんがおかしくて私はつい笑ってしまった。

「はははっ」

「笑うなよ」 

 そう言って、マコ姐さんは、羽交い絞めにするように私に抱き着いてきた。

「ははははっ」

 私は抵抗しながら更に笑った。マコ姐さんは多分わざと、私を元気づけるために―――。

「こらっ、笑うな」

 マコ姐さんはそう言って、じゃれつくように私に抱き着いてくる。

「はははっ」

 私は更に笑った。

「はははっ、うっ、うっ」

 私はそこで今まで抑えていた何かが、切れてしまった。

「わあー」

 私はマコ姐さんに抱き着き号泣した。

「うううっ、うううっ」

「よしよし」

 マコ姐さんは、そんな私を懐深く、温かく抱きしめてくれた。

「お前は全部背負い過ぎなんだ。もっと、我がままでいいだぞ」

「ううっ、ううっ」

 私は更に泣いた。


「あたしもインド行ったことがあるんだぜ」

「えっ」

 初耳だった。

「もう何もかも嫌になっちまってさ」

「マコ姐さんにもそんな時があったんですね」

 ビルから見える街は完全に深夜モードになっていた。

「ああ、もうほんと嫌になっちまってな。職は失うし、家族からは縁切られるし、男には逃げられるし、借金はあるし、もう何にもなくなったよね。あの時。そん時、なんかインドだって思ったのよ」

「へぇ~、なんでインドだったんですか」

「それは分からん」

 そういえば私も、なんとなくインドだった。

「それで一人インド行って、一か月位ふらふらしてたの。そしたらさ、そん時に、滞在してた地域で突然暴動が起こってさ。もう大変。警察やらなにやら、遂に軍隊まで出てきちゃってさ。でも脱出することが出来ないわけ。道路とか橋とか全部ふさがれちゃって。それでどうするってなった時に、河を船で渡れるってなって、よしそれだって、河まで走ったよ。真夜中に」

「すごい話ですね」

「でもさ。着いてみたら、船って言っても、手漕ぎボートみたいな船でさ、やせた骨と皮だけみたいな爺さんが竹竿みたいな棒持って立ってるだけなんだよ。でも、行くしかないわけ。それしかないからさ。それで「よしっ」って、飛び乗ったよ。そんで、そのボートみたいな船に乗ってさ、湖みたいなでっかい河を渡っていくわけよ」

「へぇ~」

 私もインドで見た大きな湖みたいな河を思い出していた。それは本当に対岸が見えないほどの大きさだった。

「でもさ。じいさん一人だろ。ボートみたいな船だろ。全然対岸に着かないわけ。しかも、なんか進んでんのか止まってんのかも分かんないのよ。夜だし、あまりにのろくて。もうわけ分かんないの。そんなこんなで夜中中だよ。船に乗ってさ」

「それは大変ですね」

「大変なんてもんじゃないよ。全く。でもさ」

 そこでマコ姐さんは、大きく目を見開いて私を見た。

「そしたらさ。突然。遠くの方からこう、朝日がさ、水平線の向こうから出てくるわけ。いつの間にか朝になってたのよ。それがさ。すんげぇばかでかいの。それがゆっくりと上がってくるんだよ。その光がさ、ほんとに世界中を照らすんじゃないかっていうくらいの何とも言えない神々しいすごい光なんだよ。それがまた広大な河の水面全部に広がって、キラキラしてさ。それがあたしたちのボートの周囲を包み込むみたいに全部覆ってさ。それがもうすんげぇきれいなのよ。心の底から感動して、もう痺れて言葉が出てこなくて、ただアホみたいにそれを見続けてたよ」

「へぇ~」

「そん時にさ。もうなんだか全部どうでもよくなったんだ。人間の悩むことなんてもうどうでもいいなって。滅茶苦茶ちっぽけなことだなって」

「へぇ~」

「やっぱインド来て良かったなって思ったよ。二度と行きたいとは思わないけどな」

 そこでマコ姐さんは、一人笑った。

「でも、ほんとにあれはきれいだったよ」

 マコ姐さんはうっとりと頬に手をやり遠くを見つめた。

「へぇ~、私も見たかったなぁ」

「長く生きてりゃいろいろ経験するよ」

「今度、一緒に行きたいですね。インド」

「う~ん」

「嫌ですか」

「嫌じゃないけど、インドは一人で行くとこだな。それになんか勢いがないと行けないな。冷静には絶対行けないとこだよ」

「う~ん、確かに」

 確かになんかそんな気がした。私たちは、二人ビルの屋上から見慣れた街の明かりを見つめた。

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