第4話 波
数時間後、銀子と牧田の姿は捜査本部にあった。
「え、すみません。もう一度言っていただけますか?」
若き管理官・柿本は、銀子の報告があまりにも突拍子もなかったため、思わず彼女に聞き返してしまった。対して銀子は、小さく息を吸うと、落ち着いてもう一度報告を行った。
「映像に映っていた犯人と思われるこの人物は、私の、恋人である可能性があります」
「なんですって?」
「なに?!」
改めて報告をすると、柿本、横にいた係長の朱堂。そして、同じ部屋にいた他の刑事たちが驚き、そして集まってきた。
その中で、若手の男性刑事が割り込むように口をはさんだ。
「じゃあ、もう捕まえたも同然ですね! そいつのこと捕まえにって、おっとっと……」
彼が言い終わるよりも先に、大先輩にあたる湯本が、話の輪から彼を引っ張り出し、端の方へ連れてきて小声で忠告をした。
「そういう話じゃないんだよ」
しかし、当の彼は要領がつかめず、キョトンとした表情で湯本や周りの刑事の顔を見回した。
「しかしだなぁ……それは、あり得んだろう……」
朱堂が頭を擦りながら渋い顔を見せる。それを見つめながら、銀子は淡々と話し始めた。
「はい、自分でも今の状況が不可思議すぎて、正直、よく分かっていません。ここにいる多くの仲間は知っていることですが、半年前まで、私は一人の女性とお付き合いしていました。彼女の名前はショーコ。満水翔子(みつみしょうこ)――」
銀子の独白に、朱堂は小さくため息をつき、頭をかいた。
「――しかしその女性は、半年前に亡くなっています」
「え、“亡くなっている”!?」
先ほど湯本に端へ連れていかれた若い刑事が愕然とした。柿本は小さく唸りながら目を閉じて背もたれにもたれかかる。
「犯人と目された人物は、もう既に、半年前に亡くなっている女性」
「何が起きているんだ……」
朱堂もうめくように、独り言のように言葉を発したが、銀子含め、周りの刑事はただ俯くことしかできなかった。
同時に銀子は、この状況と裏腹だと感じつつも、過去の彼女との思い出がふいに思い起こされた。銀子はその音もなく押し寄せる波を、ただただ抗わず受け入れた。
――半年前――
「ごめん、また急な仕事入っちゃって……」
「うーん、そっか。まぁ、わかってはいたけど、やっぱり大変な仕事だね。愛乃の仕事」
「ほんっとうに、ごめん。でも、明日は休み取ったから、そこで穴埋めさせて。ショーコ」
警察署の廊下で申し訳なさそうにペコペコと一人の女性が頭を下げている。銀子愛乃だ。対して電話口の向こうにいる「ショーコ」と呼ばれた女性はあっけらかんとしている。
「そこまで気にしなくたっていいのに。だって、こうなるだろうってことも理解した上で付き合ったんだから」
「ショーコ……」
彼女の言葉に、一層背筋が曲がる銀子だったが、千里眼かのようにショーコに見通される。
ショーコは声色を明るくして、おどけた感じで話し始めた。
「あー、今また影背負ったでしょー」
「せ、背負ってないよ!」
「そうやって言い返すときは、大抵図星って相場が決まってるのよ」
「そんなことないよ。ってか、それどんな相場よ」
「はははははっ」
「笑わないで」
ちょっと拗ねる銀子に、ショーコが一拍おいて、改めて落ち着いた調子で話しかけた。
「まぁ、あたしのことは気にしないでさ、仕事頑張って」
「……うん」
「そろそろ、行かなきゃじゃない?」
「うん、もう行く」
「りょうかい。いってらっしゃい」
「うん、行ってくる」
二人は名残惜しそうに通話を終了する。電話を切った後、ショーコは幸せそうにスマホを見つめた。一方銀子は、大好きな恋人から「いってらっしゃい」と送り出され、少し浮かれた気持ちで仕事に戻った。
ショーコこと満水翔子は、銀子とは高校生時代からの仲だ。そしてその時分からの恋人同士だ。
高校に入学してからショーコは楽器を弾くことに目覚め、それから軽音楽部に入りそのまま卒業後もその道に進んだ。一方銀子は、文武両道を極めようとしていたが、どうにも、楽器や絵といった方面には才がなかったのか、芸術の分野には苦手意識があった。だが、ショーコのことを否定することはなかった。むしろ尊敬のような目で銀子はショーコを見ていた。
ある日、ショーコがライブの帰り道で通り魔に遭遇したのをきっかけに、銀子は警察官を目指すこととなる。
夜になり、ようやく銀子はひと段落付け帰路についた。
「……うん、さっき仕事終わったとこ」
「夜遅くまでお疲れ様」
「ありがと。待たせちゃったね」
銀子は苦笑いを浮かべると、電話口でショーコが「ふふっ」と笑うのが聞こえた。
「うん、待ってたよ」
二人の間に、幸せを噛みしめるような、静かな時間が幾ばくか流れた。そのあと、銀子からやおら話し始めた。
「ねぇ、ショーコ。明日どこに行こっか」
「そうだなぁ。あ、あそこはどう? ほら、前にあたしん家遊びに来てさ、テレビ見てた時に番組で紹介されてた……」
「え、どこ? 城崎?」
「そこもなんだけど……ほら、赤レンガ倉庫」
銀子はマンションのエレベーターに乗り込みながら、思わず「あっ」と声をあげた。
「愛乃も行きたいって言ってたでしょ? 折角だし、明日行こうよ」
「え、うん、行く!」
エレベーターが目的の階に到着し、アナウンスが流れた。
「あ、家についた感じ?」
「うん、ついた感じ」
銀子はカバンからカギを取りだしながら、ふとあることを口からこぼす。
「ねぇ、やっぱり一緒に――」
「え?」
しかし、途中でハッとして口をつぐんだ。一緒に住もうよ、と言いかけたのだが、それは銀子が警察官になってすぐの頃に一度同じ内容の話を彼女としたことがある。
しかもその時に、付き合って以来の、最初で最後とも思える大喧嘩になりかけたのだった。ショーコが言うには、「迷惑をかけたくない」「自力で、音楽で生活ができるようになってから、それから胸を張って一緒に暮らしたい」ということだった。
そんな話を私はもう一度彼女とするのか、と銀子は自責の念や恥ずかしさを覚えた。ただ、ショーコには聞こえなかったようだ。
「ううん、なんでも。現地集合でいい?」
「いいよ。時間は?」
「じゃあ、明日の朝10時に集合で」
「うん、りょーかい」
電話を切る直前、なぜか急に不安に駆られて銀子はショーコを呼んだ。離しかけた電話口から急に慌てた様子で呼び止められ、当の彼女も焦った。
「ん、なに?」
「ねぇ、明日来てね。遅れちゃダメよ」
「大丈夫。必ず会いに行くから。遅れずに行くから」
ショーコはそう言って電話を切ったが、その彼女の約束は果たされることはなかった。
翌朝。
ショーコは約束の時間よりも早めにつけるよう、予定よりも早く家を出た。
普段とは違う服装で行こうと、いつもは少し明るい色味の多い、派手な服装でいるが、この日はそれとは逆に落ち着いた色合いの服装に身を包んだ。
期待と不安に包まれながら電車を乗り継ぎ、とうとう彼女は赤レンガ倉庫の近くまでやってきた。
(あれ、思ってたよりも早く着いたな……30分も早いや)
スマホに映し出された時刻は9時30分だった。基本手ぶらでいたい彼女は、荷物が極端に少ない。スマホをズボンのお尻ポケットにつっこむと、財布しか入っていないポシェットの位置を直した。
「ま、いっか」
横断歩道に差し掛かったところで、歩行者用の信号がちょうど青に変わった。
「ラッキー」
小さくはねるように彼女は横断歩道を渡り始めた。早く会いたい。愛乃に会いたい。心が跳ねるほどに、同じように体が跳ねた。
この世には本当に悪魔でもいるのだろうか、それとも本当に神様なるものがいるのか、その上、「いたずら心」なんてものを有しているのだろうか。
ショーコが横断歩道を半分ほど渡ったとき、微かに遠くの方から、騒めきと激しいエンジン音が聞こえてきた。
その音が彼女の方へものすごい速さで向かってくる。
「逃げてぇっ!!」
誰かの声が響いた。彼女には誰の声だったのかわからなかったし、それを確かめる時間も術も、もはやなかった。
その声はもしかしたら、或いは誰かの口を借りた、愛乃の声だったのかもしれない。
音の近づいてくる右手の方向を振り向いた。自分の動き、呼吸、見えるもののすべてがスローモーションに見えた。
彼女がその時最後に見たものは、目前に迫った大型トラックの前面、顔を大きく引き攣らせた、トラックの男性ドライバー。
「嘘っ――!」
(トゥルルルル……ツーツー)
「あれ? おかしいなぁ、なんで電話繋がらないんだろう……」
待ち合わせの時間はすでに10分ほど過ぎている。銀子は待ち合わせ時間になっても現れないショーコが心配になって、何度も彼女に連絡を入れている。
しかし、何度電話をしても、聞こえてくるのは同じアナウンスだ。
(お掛けになった電話番号は、現在使われていないか、電波の届かないところに……)
「嘘でしょ?」
不安に駆られて辺りを見回し、本来ショーコが来るであろう道を見に行こうとしたその時、銀子のスマホに着信があった。
「もしかして!?」
ショーコから折り返しの電話が来たと思い、期待を持ってスマホの画面を見たが、その着信はショーコからのものではなかった。
期待を裏切られ、不満げに、そして少し落ち込んだ気持ちのまま電話に出る。
「なんですか、先輩」
「せっかくの休日に悪い。ところで、今お前どこにいる」
「突然かけてきてなんなんですか……」
「いいから答えろ、どこだ」
電話の主は先輩刑事の牧田だった。牧田はどこか慌てているような、苛立ているような様子だった。その電話口での様子に気おされえ、銀子はしぶしぶ答える
「……横浜の赤レンガ倉庫です」
しかし、電話の向こうの様子が一変した。まず、牧田の息をのむ感じが電話越しでもわかったのだ。
疑問に思っていると、先ほどまでとは打って変わって、とても沈んだ、牧田の重たい声が聞こえてきた。
「そうか、なら、近いな……落ち着いて聞いてくれるか。実は……」
電話を切るよりも、牧田の説明を聞き終わるよりも先に、彼女の体は動いていた。
彼女は今にも心臓が飛び出そうだった。その前に締め付けられながら裂けて破れてしまうかもしれない。
思いのほか彼女の目から涙は出なかった。本当の衝撃とは、本当の悲しみとは、実際にその身に受けると、その時には涙とは出ないものなのだろう。
もとより、突如として心を鈍器で殴られたような、重い痛みにそれどころではなかっただけかもしれない。彼女の目に映るすべてが唐突に色を失い、彼女の体のすべての感覚、すべての感情、そのどれもが散り散りになって消えてしまった。
牧田から言われた場所に行くと、そこにはすでにブルーシートが張られ、規制線も敷かれていた。
銀子がフラフラと近づいていくと、牧田が彼女に気付き近寄ってきた。
「おい、お銀。しっかりしろ!」
肩に手を置いてゆすりながら声をかけられ、ようやく銀子は牧田と焦点があった。
「まだ泣くな。身元を確認してからだ」
銀子は牧田に促されるまま、彼の背後に横たわるそのブルーシートを、頭側を恐る恐るめくった。
「あ、……あぁ、、、」
彼女の記憶は、そこから何日間かがすっぽりと抜け落ちている。ただ、時々その記憶の断片が、彼女の脳裏や夢の中に現れる。
そう、あの日見たあの遺体は、紛れもなく、最愛の恋人、満水翔子だ。
――現在――
銀子は唐突に現実へと戻された。数秒の沈黙ののち、牧田が口を開いたのだ。
記憶の波はいつも勝手だ。都合のいい時だけ押し寄せて、あまり見たくないところまで見せては、終わったらさっさと去っていく。あの日からずっと。憧れて目指した刑事人生が、まさかこんなだとは、と銀子は思った。
そう、彼女は今も刑事を続けている。あの一件の後、とても早い段階から周囲の心配もよそに仕事に復帰をした。そして、彼女からか上司からか、今まで通りの接し方で接しようという話になった。だが、その接し方だけは未だあまり上手くはいっていない。
だからだろう、いつ頃からか、「鉄の女」をもじって「銀の女」と陰で呼ばれるようになったのは。
「とにかく、ここで悩んでいても仕方ありません。集められる証拠はすべて集めましょう。それから、一つ一つ疑問を潰していきませんか」
牧田の提案に、柿本が頷いた。
「そうですね。できることは全部やりましょう。次の被害者を出さないために」
「よし、じゃあかかるぞ!」
朱堂の掛け声に、その場にいた全刑事が「おう!」と声を上げた。銀子も、朱堂や牧田の顔を真っ直ぐ見据え、遅れて答えた。
「——ハイ」
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