17

 俺と千佳の向かいに、一人の男が座っている。名前は樋野という。

 体型はやせ型。身長は170センチくらい。髪型はのっぺりとしていて、太い黒ぶちの眼鏡をかけていた。全体的に覇気がなく、声も小さい。誰がどう見ても自分に自信がないのだとすぐにわかる。負のオーラのようなものを纏っていて、近づいたら自分までその影響を受けそうで、誰も近づかない。そんな男だった。

 ほんの、五か月前までは。

「それでね。結局振られちゃったんですよ。なにせこっちは初めてですからね。女の子と二人きりで遊園地に行くなんて。彼女は絶叫系が好きで、僕は苦手。気持ち悪くなっちゃって。その時は心配してくれてたんですが、もの足りなかったんでしょうね。でも、本当に楽しかったんです。ジェットコースターにも、また乗ってみたいと思ってます」

 樋野は楽しそうに笑いながら話した。俺と千佳は最初の挨拶以降口を開いていない。ずっと彼が喋っていたからだ。

「そうだったんですか。良かったですね、振られちゃったのは残念ですが、初デート、おめでとうございます!」俺は少し大げさに言う。実際、彼の変化には感動すら覚えていた。デートの前日、つまり一昨日までは、まだ不安によって身も心も圧縮されているように見えた。それが今や、二回り程大きくなったようにすら感じる。

「樋野さん、本当に素敵な男性になりましたね」千佳はハンカチを目に当てている。

「ありがとうございます!」

 自分を変えたい、という漠然とした想いを持って、彼はこの会社の扉を叩いた。何をしてもうまくいかない。仕事もできず、女性にもモテず、この先生きていても仕方がないように思う。もしこの現状を変えることができるなら、どんな努力をも厭わない。だが、どうしていいかわからない、と涙ながらに話した。

 俺と千佳は、そんな彼に全力で寄り添った。彼と共に悩み、どうしたら良いかを調べ、考えた。彼に努力の道筋を与え、それをバックアップした。客観的に評価し、改善を重ねていった。ファッションに無頓着だった彼のために似合う服を探した。話し方や笑顔も訓練した。失敗ばかりしていた仕事も原因を探し、上手くいく仕組みを考えた。

 彼は徐々に変わり始めた。小さな成功体験を積み重ね、少しずつ自信がついてきた。同僚の女性とあまり緊張せずに話せるようになったことや、馬鹿にされていた部下の口調がタメ口から敬語に戻ったことなどを、興奮しながら話してくれた。

 先週突然電話が入り、駆け込んで来た時には何事かと思った。顔面は蒼白で、呼吸も平常ではなかった。少し落ち着いた彼から、近くの喫茶店でバイトをしている女の子とデートの約束をしたと聞いた俺と千佳は、あまりのことに声が出せなかった。

「本当に、なんてお礼を言っていいかわかりません……」樋野は徐に立ち上がった。「谷原さん、藤川さん、ありがとうございました!」

 俺と千佳も立ち上がる。

「樋野さんが変われたのは、樋野さん自身が努力したからです。俺たちはちょっと手を貸しただけですよ」

「私たちのほうこそ、樋野さんにお礼を言いたいです。貴方の頑張りには、私たちも本当に力を、勇気をもらいました。ありがとうございます」

 千佳の言葉に合わせて、俺も頭を下げる。

「それで、これからどうしますか? 樋野さんはもう一人でも大丈夫だと思いますが」

 俺が言うと、樋野は少しの躊躇いもなく、真っ直ぐな視線を返した。

「はい……。お二人にはもっと教えていただきたいこともありますが、それではいつまでも頼ってしまうことになりそうです。だから、これからは僕の力でやってみようと思います」

「そうですか。頑張ってください」俺は彼に右手を差し出す。彼の握手はとても力強かった。

「いつでもお茶飲みに来てくださいね」千佳も握手をして、微笑む。

「いいんですか?」樋野はあからさまに嬉しそうな顔をした。

「もちろん。素敵な土産話、期待してますよ。あと、ついでに新しいお客も連れてきてもらえると助かります」

「うわっ、いきなりビジネスモードになった! 谷原さんが社長の顔を出したぞ」

「冗談ですよ」

 樋野は声を上げて笑う。こんなに楽しそうに笑えるようになった。

 彼を見送った後、俺はデスクに戻った。千佳はカップを片付けるために、再び応接室に入っていく。

 電話が鳴った。素早く受話器を手に取り、耳に当てる。

「はい、サウスプリンカンパニー」

「あの……俺、国府田っていいます」受話器から野太い男性の声が聞こえた。「夢を叶えてくれる会社ってのは、本当ですか?」

「いえ、ちょっと違いますね。夢に挑戦するのを全力でサポートする会社です」

「全力で……」

「ええ、全力で。貴方の夢は何ですか?」

 ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。

「あの、俺、歌うことが大好きで、その……か、歌手になりたいんです! もう三十五歳なんですが、今からでもなれますかね!」

「なれるかどうかはわかりませんが、何歳からでも挑戦はできます。どうしたらいいのかを、一緒になって悩んで、探して、考える。それがうちの仕事です」

「え、それだけ……なんですか……?」電話の向こうで、国府田が消沈したことが分かる。だがそれは通常のこと。うちの会社の場合、初めはほとんどの者が同じ反応をする。

「うーん、例えばですが、あなたが歌に専念できるように、他の段取りや手続きを我々が進めるということもできますよ」

「はあ……」

「もし良ければ、一節歌ってみてくれませんか?」

「わかりました」国府田は一つ咳払いをした。「では、いきます」

 直後、俺は思わず受話器を遠ざけた。かなりの大声だ。しかも酷い濁声だった。知らない歌だったので正確な音程はわからないが、合っている箇所の方が少ないのではないかと思う。だが、内面を吐きだすような力強い歌い方である。なんとか再び耳に当て、必死になって聴いた。

「どうでしょうか!」

「ご自身では、どう思ってますか?」俺がすかさず切り返すと、国府田は黙ってしまった。

「正直に言いますと、上手とは言えませんね。むしろ酷いと言っていい」嘘はつくべきではない。これまでの会話と、先ほどの全身全霊とも言える歌声で、相手が本気だと分かった。「でも……歌に込められた魂のようなものは感じました。歌手と言っても色々なタイプの人がいますよね。正統派の歌手は難しくても、国府田さんに合うジャンルがきっとあるはずです。いや、無ければ作っちまえばいい。挑戦は誰にでも可能なんです。どうやったら歌が上手くなるのか、どうやったら歌手になれるか、一緒に考えてみましょうか?」

 話しながら、俺は少なからず興奮していた。

 受話器の向こう側で、彼は泣いていた。

「……お願いします」絞り出すような声に、胸が熱くなった。

「では、一度こちらに来ていただきたいのですが」

「はい、大丈夫です」

「では明後日の、七月八日の十時頃はいかがですか?」

「はい、大丈夫です!」

「では、お待ちしています」

「よろしくお願いします!」

 力強く回線が切られた。その音は普段なら耳障りなのだろうが、今は心地良かった。静かに受話器を置く。

 そして気が付いた。

 七月八日。

 あの日からもうすぐ一年が経つのだ。

 今年も猛暑が続いている。

「エアコン、少し弱めていいですか?」千佳が壁のリモコンの前で言う。彼女は長袖のシャツを羽織っていた。

「ああ、いいよ」

 千佳がデスクに戻った。すぐにパソコンの操作を始める。

「ねえ、藤川君。さっき新しい仕事の電話があったんだけど」

「はい」

「歌が下手でも、歌手になれると思う?」

 彼女の目が斜め上を向く。考えている時の癖だった。

「昔のアイドルは歌が下手だったって、誰か言ってましたよ」

「なるほど」

「今度のお客さんも楽しそうですね」

「明後日の十時に来るから」

「了解です」

 扉がノックされた。ココンコンコン、コンコンコン。とリズミカルな音。こんなことをするのはあの人しかいない。

「へーい、やってるかーい?」愛美が勢いよく扉を開けた。

「お疲れさまー、あー暑かった」後から続いた森田社長は、扇子を持った手をだらりと下げている。二人ともゴルフ焼けで真っ黒だった。

 俺と千佳が半年前に立ち上げたこの会社は、森田のバックアップを受けている。法務関係や経営ノウハウ、各種手続きに関することなどを伝授してもらっているのだ。また、他社との関係構築のため、機会があれば食事会などにも連れて行ってくれる。だが、資金面の援助は受けていない。それでは面白くない。その点は俺たちも森田も同じ考えだった。

 愛美は、今は正式に森田に雇われ、秘書として働いている。すっかり気にいられたようである。立ち上げの前後は出向という形で俺たちを手伝ってくれていた。意外なことに、起業に関する手続きなどにとても詳しく、色々教えてもらった。経理や法律関係も専門家並みの知識を持っていた。彼女の能力は底が知れない。あっけらかんとしているが、私生活も含めて、謎が多い女だ。

「さっき、樋野君とすれ違ったわよ。彼、ずいぶん変わったわね」

 エアコンの風が直接当たる場所に立った森田は、扇子を開いてさらに効果を高める。

「そうでしょう。一応今日で終了です」

「あれ、じゃあ今動いてるお客さんは二人だけ?」愛美が俺を見た。「ちょっとキツくない?」

「今さっき新規の電話が入ったから、うまくいけばまた三人になるよ」

「へえ、今度はどんな?」愛美は手近な椅子に腰を下ろした。

 その時千佳がお茶を運んできたので、話は一時中断した。薄緑色の液体に浮いた氷が、カラカラと涼し気な音を立てた。

「今度の夢は歌手になること」

「へえ! もし叶ったら凄いじゃん! お客が殺到するね」愛美は言うと、お茶を一気に飲み干した。「っていうか、叶ったらあたしも歌手になる!」

「でも三十五歳の男性で、しかも音痴だ。正直かなり厳しいと思う」

「あら、弱気になってるの?」森田がにやりと笑みを浮かべる。

「いえ、だからこそ、思い切り挑戦させてあげられたらと思ってます」

「そうこなくちゃね」

「若穂根さんと水友さんも、これから楽しみですね」千佳はお盆を胸の前で持ち、微笑んでいる。

「ああ、そうだね」

 若穂根さんは七十歳の男性。会社を息子に譲って悠々自適の生活をしていたが、それにも飽きてしまった。新しい夢を見つけるべく、目下色々なことに挑戦している。来週は沖縄でスキューバダイビングに挑戦する予定だ。段取りはこちらで全て整えた。俺と千佳も同行を依頼されていて、費用は全て向こう持ちである。

 水友さんは三十歳の女性。天真爛漫な明るい人だ。温泉が大好きで、温泉旅館の女将になることが夢である。しかも自分で掘り当てたいという。現在はどこを掘れば良いか、様々なデータを検討中。どうしても出なかった時のために、別の手段として、旅館の息子の調査も並行して進めている。

 報酬は、俺たちが行う行動によって、基本的なものが設定してある。それを基に、依頼人と一緒に、個人向けの詳細プランを作成することになる。だが、ついサービス精神であれもこれもと動いてしまうことが多く、今の所は赤字だ。当面は、それでも喜んでくれるならいいという考えだ。

「三件なら大丈夫だろうけど、これが四件、五件と増えていったら、二人では辛くなるわよ。人を増やすにも人件費ほど高いもんはないしね……って、それは新道先輩のとこにいた貴方たちに言うまでもないか」

「軌道にのるまでは、予約で対応するしかないですね。ライト版を作るっていうことも考えてはみたんですが、できればじっくり関わりたいし……」

 言いながら、俺は波多野のことを考えていた。会社を立ち上げたことを話したら、とても喜んでくれた。「うまく行ったら派遣の依頼してくれ。力を貸すぜ。お前んとこが天職だったら最高だな」と、相変わらずの調子だった。彼が加わったら面白いだろうな、とは思うが、おそらくそうはならないだろうことは、なんとなく感じている。

「あ、社長! そろそろ行かないと」愛美が椅子から跳ねるように立ち上がる。

「えー、もう? せっかく涼しくなったのに」

「じゃあやめます? 劉社長になんて言おうかな。ねぇ千佳ちゃん、一昨日来やがれって中国語でなんていうの?」

「あーもう、わかったわよ、行くわよ!」

 森田は音を立てて扇子を閉じ、愛美を連れて出て行った。事務所はまた元の静けさを取り戻す。

「藤川君、中国語できるの?」

「できませんよ」

「だよねえ」

 千佳は肩をすぼめて笑い、グラスを下げて給湯室に歩いて行った。

 最近、時々彼女が千春さんと重なって見えることがある。艶やかな黒髪に戻り、長さも同じくらいになったからだろうか。もう染めないのかと訊いたら、あれは親子だと俺にバレないためのカムフラージュだったという。女性の恐ろしさを再認識させられた。

 給湯室から、食器を洗う音が聞こえ始めた。

 ふと、千佳もいなくなってしまうのではと不安になることがある。

 千佳だけじゃない。愛美も森田も波多野も、そして田舎の両親も、永遠にこのままということは、残念だがありえない。

 だから、俺はこの目で見たいと思った。

 人生の春を。

 千佳の、森田の、愛美の、波多野の、新道の、父の、母の、俺の、沢山の人たちの春を。

 夢を叶えた時に咲く春を。

 あがいてもがいて、努力を続ける中で生まれる春を。

 たとえ力尽きて倒れたとしても、それでもなお輝き続ける春を。

 その輝きを手に、もう一度立ち上がって、視線の先に新しく産声を上げる春を。

 幾千もの春が雪解けを待っている。

 確かに、自らの意思と生命力だけが、それを解かすことができるのかもしれない。

 だが、それを助けることができるものが、二つある。

 光と、熱だ。

 晴天から降り注ぐ、希望の光と、情熱である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆきとかし 赤尾 常文 @neko-y1126

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ