16

 その部屋は、想像とは違い、とても簡素だった。

 床のカーペットも他の事務フロアと同じものだし、机も一般社員のものよりも一回り大きいだけで、いわゆる普通の、鉛色をした金属製のものだった。応接セットも特段豪華というわけではない。

 ただ目を引くのが、壁一面に作りつけられた書棚であった。膨大な量の本が天井近くにまで収められていて、高い場所の本を取るための梯子も備えてあった。まるで図書館の壁面書架である。全集などが配置されがちな、あれだ。

 この部屋が社屋の地下にあると知って、驚いた。社長室というのは、景色が良く、下界を見下ろせる場所にあるものだと思っていた。

「いや、すまないね、待たせて」

 新道は、ゆったりと俺の向かい側のソファに腰を下ろした。俺がこの部屋に来て間もなく電話が入ったので、彼が淹れてくれたコーヒーを飲みながら待っていたのだ。

「どうだい、いい部屋だろう」

「はい、とても」俺は頷く。「とても社長室らしくなくて、いいですね」

「そうだろう、君ならわかってくれると思ったんだ」新道は嬉しそうに、もうすっかり冷めてしまったコーヒーを口にする。

「なぜ地下に? 社長ってのは上から下々を見下ろすものだと思っていました」

 俺の皮肉にも、彼は一笑するのみだった。口の端を上げ、ゆっくり瞬きをする。

「見上げていたいんだ、私は」呟くように言って、彼は深く息を吐いた。「常に上を目指したい。上からでも良く見えるが、下からのほうが、より鮮明に見えることもある。ずっと地べたを這いずり回ってきた私には、ここが性に合ってるんだよ」

 藤川千春と同じように、彼も相当な苦労をしてきたのだろう。わけもわからず最愛の女性と引き離された男が、その後どうなってしまったのか。目の前にいる彼からは、それを想像することもできない。ただ、彼だけが知っていることだ。

「さて、これだが」

 新道は上着の内ポケットから、俺が朝に提出した登録解除届を取り出した。昼頃に電話がかかってきて、なぜか社長預かりになったので、社長室に行けと言われた。少なからず驚いたが、願ってもないことだった。彼とはまた直接話をしてみたかったのだ。

「単刀直入に言う。君には残って欲しい」

「お断りします」俺は即答する。

「人材としてだけではない。私の右腕として働いて欲しいんだ」

「それもお断りします。俺が貴方にそんなに評価される理由がありません。まさか、貴方まで俺を息子と重ね合わせているなんてことはないでしょうし」

「ああ、それはない」彼も即答したが、直後、少しだけ表情が曇った。「正直に言えば、一瞬もそう願わなかったと言い切ることはできない。だが、仕事に関しては別だ。私は単純に、君の能力が欲しい」

 彼のような人物にそこまで言われて、身が熱くならないはずがない。だが、だからこそ、頷くわけにはいかないのだ。

「ありがとうございます。ですが、申し訳ありません」俺は深々と頭を下げた。

 新道は長い長いため息をついた。顔を上げると、彼は笑っていた。

「理由を聞いてもいいかな?」

「ええ。新道社長、貴方を尊敬しているからです」

 彼は少しの間、じっと俺を見つめて考えていた。

「わかった。また会おう」

 新道が差し出した右手を、俺は握り返した。

「がんばれよ」

「はい」

 彼の太く、力強い手に比べて、俺の手はまだまだ細く、弱い。なるほど、下からだからこそ、それがよくわかる。

「社長、記念に、二つお願いがあります」

「なんだね」

「本棚を見せてもらっても良いでしょうか。あと、八階には何があるのか、教えてください」

 このビルは八階建てだが、エレベーターでは七階までしか行けない。非常階段でなら昇ることができるが、施錠されていた。「人材」の間では、誰かが監禁されているのではないかとか、社員だけのパーティー会場だとか、様々な憶測が飛び交っているのだ。七階の研修室にいると、ごく稀に、上から足音のようなものが聞こえることがあって、俺も以前から興味を持っていた。千佳と愛美を含む何人かの社員にも訊いてみたが、誰も知らなかった。

「本棚は好きなだけ見るといい。これだけは拘って作ってもらったんだ。八階には、まだ何もない。空き部屋だよ」

 そんなはずはない。少なくとも、エレベーターを七階で止めるなど不自然過ぎる。第一、多くの者が上から何らかの物音を聞いているのだ。だが、俺はそれを言葉にするのはやめた。この世界は謎だらけだ。それらを一つひとつ解き明かしている暇はない。千春さんの一件のように、そのうち自然と解ける場合もある。この謎もきっとそういう類のものだろうと思う。その時を楽しみに待つことにしよう。

 数秒間の沈黙が流れた。

「そうだな、あそこに何かあるとすれば……夢かな」新道は歯を見せて笑う。まるで少年のように。俺もつられて笑顔になった。

 書架は、一般的な単行本なら前後二列に収納することができる奥行きがあった。だが、ほとんどの棚は前列のみで、手前から一センチ程下げて綺麗に並べられている。ジャンル別で作家名順に並んでいるようだ。所々に見られる前後二列を使っている棚には、同じ作家の本がまとめられていた。横幅に余裕がある場合は、棚の上面にあるスリットにストッパーを取り付けて、ブックエンドの効果を得ている。取り外しが可能で、おそらく専用のものなのだろう。本当に図書館のようだ、と思った。いつか俺も、こんな本棚が欲しい。

 収められている本はビジネス書や自己啓発本が大半だったが、中にはレシピ本や医学の専門書、動物の写真集など、関係なさそうなものもある。天文や雲などの気象に関する本がわりと多く見られた。有名な作家やそうでない作家の小説や詩集などもあった。どことなく、俺のアパートの本棚に似ている。彼も日々、自分を向上させているのかもしれない。

 棚の端に、一作品だけ漫画本が並んでいた。目の高さの、比較的良い位置にある。前列のみで十六巻。その棚はそれだけだった。タイトルは聞いたことがあるような気がするが、読んだことはなかった。作者も知らない。

「社長も漫画読むんですね」

「読むよ。中でもそれは、私のバイブルだ」

「へえ……」後で読んでみようと思い、そのタイトルを記憶した。

「実は自宅にも一セットある」

「そんなに好きなんですか」

 ひと通り見せてもらった後、礼を言って、社長室を後にした。素敵な部屋だった。またあそこに行けるように、努力しようと思う。

 俺が会社を辞め、新しい目標に向かうことを決断することができたのは、父のおかげでもある。

 実家から戻った夜に、やたらと長いメールが着信したのだ。


『晴、結局あまり話せなかったので、メールすることにした。母さんには内緒にしてくれ。お前が仕事について悩んでいると聞いて、俺も久しぶりに色々考えたし、思い出した。俺は高校を出てすぐに役所に入ったから、お前のように色々な仕事を経験してはいない。まあ人事異動で全く別の部署に行けば、転職したような気分になることはあったが。だからかはわからないが、俺は、それほど仕事に対して迷ったことがない。悩んでばかりではあったが、お前の言う、これでいいのか、という迷いのようなものはなかった。それはおそらく、とても運がいいことなのだと思う。だが、お前の運が悪いわけではない、とも思う。お前が前に言っていた、面白い仕事。聞いたときには正直、甘いことを言っていると思ったが、よく考えてみると、俺はそんなことは考えもしなかったと気づいた。こんな時代だから、というのもあるのだろう。だが、そんな考え方ができるのは、運がいいからだし、一種の個性というか、才能だと思う。安定志向や、ましてや公務員志望の若者を否定するつもりはないし、最近の新人職員は非常に優秀で、面白い奴もいる。でも、どうしても役所で働きたかったんだ、という者が少ないのは確かだ。俺も同じだから何も言えないが。とにかく、お前が今迷っているのは、迷えているということだと思う。それなら、辿り着くまでいくらでも迷えばいい。きっと、いつか求めているものが見つかるだろう。ちなみに俺は見つけた。悩みながら働いていたら、いつの間にか持っていたことに気が付いたタイプだ。きっと色んなタイプがいるんだろう。なんだかよくわからなくなってきたので、以上。最低限生きていけるくらいには働けよ。今度釣りにでも行くか?』


 地下への出入り口は、なんと普通の非常階段だ。こんな所が直接社長室に通じているとは、誰も思わないだろう。

 父のメールを思い出すと、改行くらいしろよ、と笑えるが、階段を昇る脚は軽くなった。

 太陽の眩しさを覚悟しながら扉を開けたが、すでに陽が落ちかけていた。すっかり本棚に夢中になってしまっていたらしい。約束の時間を二十分も過ぎていた。

 慌てて戻ったロビーのラウンジで、二人の女性が俺を待っていた。

「遅いよー!」愛美は腰に手を当てて、怒りを表現していた。

「お疲れさまでした」千佳はバッグを両手で持って、微笑んでいる。

「ごめんごめん」

「本ばっかでつまんなかったでしょ」

「いや、いい部屋だと思うけどね」

「そう? あたしはうちの社長の部屋の方が好きだなぁ。カッコいいし、可愛いもん」

 愛美も可愛いものとかが好きなのか、と内心思ったが、もちろん口には出せない。

「私も、部屋は素敵だと思いました。部屋はね」千佳が軽い口調で言う。「あのコンセプトはいいですね」

「だよね」

「あーもう、気が合ってよろしゅうございますわね。ほら、そろそろ行きますわよ。遅れちゃう」

 ずんずんと先に歩いて行く愛美を追って、俺と千佳は歩き出した。

 受付の前を通り過ぎる。今度の担当は眼鏡をかけた、茶髪の男性である。どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。彼は何か言いたそうに、俺たちの姿を追っていた。

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