15

 久しぶりの実家である。正月以来だから、ほとんど一年ぶりだ。下道で一時間半ほどの距離なのだが、だからと言って頻繁に行き来するかといえば、そういうわけでもない。いつでも帰れると思って、ついつい足が遠のいてしまう。

 母は台所で夕食の準備をしている。事前に帰ることを伝えてあったので、今日は昼過ぎからずっと料理しているらしい。ごちそうだ、と張り切っている。

 もうすぐ父も帰ってくるだろう。地元の市役所に勤める父は、今年で五十九歳になる。来年で定年だ。最近は再任用制度というものがあるらしいが、残るつもりはないと言っていた。勤続四十一年になる父は、俺の仕事について何も言わないが、心良く思っていないことはわかっている。

 茶の間の炬燵に寝転がりながら、ぼんやりとテレビを見ている。夕方のニュース番組は、グルメコーナーに入っていた。東京のステーキ店が紹介されている。東京に住んでいれば、見てすぐに、もしくは明日にでもその店に行くことができるのだろう。だが、こんな北関東の田舎で放送されても、宣伝効果はないに等しい。せいぜい視聴者の空腹感を喚起するくらいだろう。台所から漂い続けている良い匂いもプラスされ、俺の腹は先程から鳴りっぱなしだ。

 しばらくして、父が帰って来た。帰宅を知らせる意味の言葉を乗せた声はは小さく、夢中で料理をしている母には聞こえないだろう。

「おかえり」俺は母にも聞こえるように少し大きな声で言う。

 茶の間で寝そべっている俺に、父は「うん」と無表情に返した。すぐにまた廊下を歩いて行く。スーツを着替えるためだ。小柄で少し腹の出ている父は、あまりスーツが似合う体型ではない。しかし、その恰好で帰ってくる姿しか見たことがないため、違和感はない。

 そうか、それも来年で終わりなのだ。スーツもお役御免になってしまうのだろうか。

「あれ。お父さん帰ってきたの?」

 母が出来上がった料理を運んできた。両手に大きな皿を持っている。

「ちょっと炬燵の上少し片付けたら? ぶっ散らかしてないで」

 開いているスペースに皿を置き、母はまた台所に去っていく。ちなみに、炬燵の上は俺が来たにはすでに「ぶっ散らかって」いた。もちろん犯人は、日中一人で家にいた母である。だが俺は黙って片付けた。いつものやり取りだ。

「晴ー。運んでー」

 まだ片付けが済んでいないうちに呼ばれてしまった。母はこんな時にすぐに応じないと不機嫌になる。俺は一旦片づけをやめて、台所に向かった。

「台布巾は?」

「そこの鍋の下」母は菜箸で台の上を指す。

 料理を運ぶ前に、炬燵の上を拭こうと思ったのだ。しかし布巾は熱い鍋に敷かれてぺちゃんこになっている。しかも、すぐ横には鍋敷きが立てかけてあった。俺は鍋敷きに鍋を置き、布巾を救出する。熱い。水で濡らして蘇生する。

「拭いてくる」

 拭くと同時に残りを片付けた。

 あの日、藤川千春が作った朝食と同じくらい、沢山の料理が並んだ。天婦羅、刺身、煮物、ポテトサラダ、冷奴、漬物三種、とん汁、ご飯。天婦羅は野菜が主で、端のほうにちくわ天と海老天が窮屈そうにしていた。揚げ物と刺身は食べ合わせが悪そうだ。食べ過ぎないように注意しよう。

 丁度父も戻って来て、食事が始まった。

 取り立てて何を話すわけでもなく、三人で食べ進めていく。時々母が「美味っ!」と自画自賛したり、あれも食べろこれも食べろと俺に薦めたりする。父は黙って食べている。一応全員がビールを飲んでいるが、母は波多野並みに酒に弱く、グラスに半分ほどしか飲んでいないのに、既に茹蛸のように真っ赤だ。

 父とは、しばらくちゃんと話した記憶がない。元々口数の少ない人だったし、たまに帰って来た時も、話しかけられることはほとんどない。俺も、特に話すことはなかった。無理に話さなくても、居心地が悪いわけでもない。自然体で良いと思っていた。

 しかし、千春さんの件に触れて、少しだけ俺の考えは変わっていた。なるべく早いうちに、話したいことは話しておくべきだ。父と母が元気なのは、たまたまなのだ。正月に会った時から変わっていないことは、当たり前のことではないのだ。知り合いにだって、既に親を亡くしている者が何人もいる。藤川千佳などは、若くして天涯孤独になってしまった。こんなに身近なことなのに、なぜこうもすっかり頭から消えてしまうのだろう。

 そうは思っても、すぐに何か浮かぶわけではないし、今日も、そのために帰ってきたわけではない。ただ単に、たまには顔を見ておこうと思ったのだ。

 不意に、父がこちらを向いた。考えながら父の横顔を見ていたので、正面から目が合ってしまった。

「晴、今はどんな仕事をやってんだ?」なんと、突然父がそんなことを訊いてきた。

完全な不意打ちを受け、俺はポカンと父の目を見つめてしまった。たまに電話をしてくる母には仕事をしていないことを話してあるが、なんとなく父には言わないでおいてもらっていたのだった。母も困ったような顔をして俺を見ている。

「今は、仕事はしてない」俺は正直に話すことにした。

「何にもか?」

「うん、夏に一日だけ働いたけど、あとはもう一年くらいしてない」

 藤川千春の依頼を仕事と片付けたくはなかったが、他に言いようがなかった。何もなかったことにしてしまうよりは良いと思った。

「そうか……」

 父はそう呟いてビールを飲む。その後も、視線は俺から外れたままだ。だめだ、このままではここで終わってしまう。

「迷ってんだな。今まで何かを求めて仕事してきたけど、今は何を求めてんのかわかんなくなってきた、っていうか、全部正解だし、全部間違ってるような気がする」

「うん」

 父の返事はそれだけだった。またビールを飲む。次の言葉を考えているのか、ただ聞き流されているのか、わからない。

「結婚しちゃえば迷ってる暇なんかなくなっから!」母がにやけた顔で言う。「誰かいないの?」

「いねーなぁ、今は」

「銀行にかわーいい娘がいたんだけど、息子はどうかって言ったら、彼氏いるんだって」

「そんな情報いらねーよ」

 結局、そちらのほうに話はシフトし、父との仕事に関する会話は終わってしまった。まあ、また機会があるだろう。もちろん、今後は積極的に作っていくつもりだ。

 食後はテレビを見て少しまったりした後、風呂に入った。父、母、俺の順だ。久しぶりの実家の風呂は、アパートよりもずっと広く、明るかった。

 風呂から上がると、二人は一緒にテレビドラマを観ていた。恋愛物のようだ。

「じゃあ、俺は上行くから。おやすみ」

「うん」父は短く返事をする。

「はいよー」母は軽い返事をした。

 二階にある俺の部屋は、そのままにしておいてくれている。布団も干しておいたと母が言っていた。華奢なベッドも、古い机も、本棚も、俺が証券会社に就職して出て行ったあの頃のままだ。炬燵だけは、引越しの時に持っていってしまったので今はない。コーヒーの染みが残った、色の薄くなったカーペットは寒そうに見えた。

 本棚をざっと見る。ガラスの引戸がついているため、埃にはなっていない。漫画がほとんどだが、大学生の時に好きだった作家の小説も並んでいる。

 下段には、アルバムがあった。俺が赤ん坊の頃からの写真が入っている。三年程前に、一念発起した母が大規模な断捨離を実施した。その際に、邪魔だからとこの部屋に移動されてきたものだ。もちろん俺も呼びだされ、作業を手伝わされた。

 背表紙に「晴 1」とマジックで書かれたものを取り出し、最初のページを捲ってみた、保育器に入った赤ん坊の写真が何枚も入っている。もし別人だったとしても、本人にはわからない。この宇宙人みたいなのが、きっと俺なのだ。

 周囲が透明な小さなベビーベッドに寝ている写真もある。頭の上に、母親の名前が書かれたプレートが付いている。それを見て、少しほっとしている自分に気付いた。生まれた時の体重も書かれていた。二九九〇グラム。肉くれ、と読めるが、生憎特別肉が好きだというわけではない。

 それから、全てのアルバムを順に見ていった。一歳になるまでに三冊を費やしていた。幼児期の写真には、保育所で撮られたものも入っている。母も昔、パートで働いていた。小学校高学年くらいになると、さすがに枚数が激減した。ほぼ遠足で日光に行った時のものだ。カメラマンが随行していて、後から選んで写真を買ったのを思い出す。中学になると数枚しかない。やはり京都に修学旅行に行った時のもの。こちらは自分で撮影したものなので、ほとんど俺の姿はない。雪の金閣寺は、今見てもなかなか良く撮れている。

 家族旅行などの写真は、アルバムがまた別にあったはずだ。以前は茶の間にあったが、今もあるのだろうか。今日は気が付かなかった。

 ひとしきり写真を見た後は、漫画を読んだ。読み出すと止まらなくなり、結局深夜二時を過ぎてしまった。一瞬、アパートに持って行くことも考えたが、明日朝から続きを読めば、帰るまでには全巻読破できるだろう。

 布団に入り、電気を消す。昼間干してくれていたおかげで暖かかった。

 目を閉じると、アルバムの写真が浮かんでくる。

 そして、それを撮っている両親を空想した。

 カメラを構えて屈む父と、その横で俺に何やら言葉を投げかける母。

 ふと、二人の姿が一つになり、千春さんと重なった。

 彼女は、笑顔だった。

 息子の姿を追って、幸せそうに笑っていた。

 病院のベビーベッド。

 自宅の布団。

 笑った顔、くしゃくしゃの泣き顔、じっと見つめる顔。

 穏やかな、寝顔。

 おもちゃで遊ぶ姿。

 うつ伏せ、お座り、はいはい、つかまり立ち、歩行。

 ミルク、離乳食、初めての誕生日ケーキ。

 保育所、お友達、発表会。

 小学校の入学式、遠足、運動会、卒業式。

 学ラン姿。

 一つひとつが雫となって、俺の目から溢れていった。

 そのほとんどを、彼女は見ることができなかった。

 想い出を作ることも、残すこともできなかった。

 どれだけ辛く、苦しい、毎日だったのだろう。

 でも、それももう、終わってしまった。

 あの日の彼女の笑顔が、笑い声が、甦る。彼女は幸せそうに見えた。

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