14

 葬儀から一週間後。俺は再び、香さんのマンションを訪れた。あいかわらず要塞のような佇まいだが、肌寒い季節になると、薄ぼんやりとしたペールオレンジは、かえって寒々しく見えた。

 インターフォンのチャイムを押す。応答したのは藤川だ。あの日、ドアを開けた香さんは、満面の笑顔で俺を迎えてくれた。

 だが、ドアを開けたのは、愛美だった。

「や、谷原君」

「どうして君がここに」

「まあ、いいから入りなよ」

 愛美に促されるまま、室内に入る。赤いハイヒールがあった。勝手なイメージだが、千佳や愛美のものではないだろうと思う。他に誰かいるのだろうか。

 正面のドアは開いていた。玄関を入ってすぐの左右の部屋は、あの日も結局入る機会はなかった。右の部屋の奥のもう一つの扉はトイレで、その反対側は収納だった。すでに何カ月も前のことなのに、あの一日の出来事が鮮明に浮かび上がってくる。

 キッチンを抜けると、藤川が立っていた。

「こんにちは」彼女は丁寧に頭を下げる。「今日は、わざわざすみません。本当なら、こちらから出向くところなのに」

「ごめんねえ。私の仕事の都合なんだ。日曜なのに嫌になるわ、まったく」

 隣の和室から顔を出したのは、葬儀が始まる前に藤川と並んで参列者に挨拶をしていた、あの女性だった。

「あなたは……」

「私、森田香。よろしくね」そう言って、その女性は微笑んだ。

「森田?」

「まあまあ、そっちに座って。今お茶淹れるから」

「社長! あたしやりますよ」俺の後ろで、愛美が大きな声で言う。

「こちらへどうぞ」

 藤川はリビングのテーブルを示した。俺は素直に長座布団に座る。今さら戸惑っていても仕方がない。数日前の電話で、彼女は事情を話すと言った。急がなくても、今日全ての謎が解けるはずだ。このマンションを指定された時にも、特に驚かなかった。なんとなく、またここに来るような気がしていた。

 俺の向かい側に、藤川と、森田香を名乗る女性が座った。

 愛美が紅茶を運んでくる。慣れた手つきだった。彼女は俺から見て左側に座った。

「ええと」藤川が口を開く。「谷原さん。改めまして、今日はありがとうございます。お約束通り、今回の件についてお話します」

 俺は無言で頷く。

「まず、私の母、藤川千春は、今から一年ほど前に余命宣告を受けました。初めは気丈に振舞っていたのですが、やはり次第に気持ちが弱っていきました。そしてある時、母は親友だったこちらの森田香さんに、秘密を打ち明けたんです。昔、家の事情から、生まれたばかりの赤ん坊を手放さなければならなくなった。その子は男の子で、どこかに養子に出されたはずなんですが、行先を知る母の両親、つまり私の祖父母は、母が若い頃に交通事故で他界していて、全く手がかりがなかったそうです」

「千春、死ぬ前にどうしても一目会いたいって、泣くのよ。私、同級生で付き合い長いからさ……だから、なんとかしてあげたくなってさ」藤川の隣に座る、本物の森田香が言う。「つい、任せとけ、なんて言っちゃったのよ」

「私は香さんからそれを聞きました。私には話しにくかったんでしょうね。でも私もなんとか力になりたくて、その男の子の特徴を聞き出しました。その子の喉の真ん中には、黒子があったそうです」

 俺は喉の中心を意識した。今まさに、自分の黒子が三人の女性の注目を集めている。あまり気分のいいものではなかった。

「他には?」

「あとは、今年二十八歳になるってことしか……」

「え、それだけ?」

 おそらく俺の目が丸くなっていたのだろう。森田が口元に手を当てて笑う。

「それだけしかわからなかったから、本物を探すことは早々に諦めたんです!」藤川はなぜか少しだけ不機嫌そうに言う。「母を騙すことになるけど、喜ばせたかったんです」

「俺を見つけたのは偶然?」

「はい」彼女は頷く。「見つからなければ、誰かに協力してもらって、ペンで黒子を描くつもりでしたが、それではたぶんバレます。だから、香さんにも協力してもらって、色々探しました。最終的には、会社のデータベースから谷原さんを見つけたんです。年齢もぴったりでした」

「まったく、傍から見ればとんでもない無茶だと思うだろうけど、私も千佳ちゃんも本気だったのよ」森田はそう言うと、目を閉じて紅茶を啜った。

「本当に……黒子と年齢だけで、よく誤魔化せたと思うよ。先に言ってくれれば、それなりに演技もしたのに」

「その点は、本当に申し訳ありません。言ったら断られると思っていたので……その……」

「谷原君、社内では色んな意味で有名人だからねぇ」愛美が横から口を挟んだ。

「どういうこと?」俺は愛美を見る。

「良く言えば気難しい。悪く言えば面倒くさいってことだね」

「まっ、愛美さん!」藤川が慌てた様子で声を上げる。

「愛美ちゃん愛美ちゃん『気難しい』は良く言ってないわよ」森田が優しく言った。

「え、じゃあ何て言えば良かったんですか?」

「うーん……偏屈?」

「香さんっ!」

 森田の冗談にも気づかず、慌てて二人に掌を向けて静止しようとする藤川に、俺は思わず吹き出してしまった。

「あー、もういいよ。わかったわかった、俺はそんな風に見られてたってことね」

 これも俺は冗談のつもりで言ったのだが、藤川はしゅん、と申し訳なさそうにする。

「まあ、それを差し引いても貴方の評判は良すぎるから、誰かの僻みから始まったんだと思うけどね。できればうちの会社に欲しいくらいだわ」

 森田の何気ない物言いが、余計に気恥しかった。俺の心の中に少しだけ滲み始めていた黒い感情が、溶けるように消えていく。

「ともかく、香さん……いや、千春さんか。千春さんは、俺のことを生き別れの息子だと信じていたわけだ。でもそれを俺には言わなかった。口止めしてたんだね?」

「いえ、母は最初から、自分が母親だと名乗らないと決めていました。私たちはそれを信じるしかなかったんです」

「千春も、今さら言えなかったんだと思う……」

「それで、偽の仕事をでっち上げて、俺をここに派遣したっていうことか」

 藤川は小さく頷く。

「元々は私が住んでたの。ちょうど広い所に引っ越したばかりだったから、使ってもらったのよ」森田が言う。

「森田香宅で依頼人と二十四時間……求人票に嘘は書いてなかったわけだ」

「他は嘘だらけだったけどね。本当に、貴方には悪いことをしたと思ってるわ」

「だけど、よく偽の仕事を通せたね。事務だってザルじゃないだろう」俺は藤川を見る。

「それは、社長にも協力させたからできたんです」

「社長? なんで社長が出てくるの?」

「新道先輩は、千春の元カレ。つまり生き別れた男の子の父親なのよ」森田はため息混じりに言う。「当時、彼には何も知らされず、藤川の家が一方的に二人を引き離したみたい。ずっと千春のことを覚えていたわ。訳を話したら、二つ返事でOKしてくれた」

「社長には何度か閲覧室にいるようにしてもらって、求人票をすり替えてもらいました」

 藤川の口調には棘があった。彼女にとってみれば、新道社長は母親を辛い目に合せた元凶と捉えることもできる。葬儀の際に彼が藤川たちに近づかなかったのは、遠慮したのか、もしくは藤川に列席を断られたかだろう。

「私は、千佳ちゃんが自由に動けるように、正式な依頼をして愛美ちゃんを執事として雇ったの」そう言った後に、森田は俺に視線を向けた。「でも結局、貴方が報酬を辞退するって申し立てたことで会社が騒ぎになっちゃったから、愛美ちゃんにも事情を話したのよ。彼女が新道先輩と裏で動いてくれたおかげで、ボヤで済んだけどね」

 なるほど、それで四か月もあったのに、愛美から何の情報も入ってこなかったのか。

「最初に聞いた時はヒド! って思ったけど、話聞いてたら泣けちゃってさ。あたしも千春さんに会いたかったよ」

「葬式に来れば良かったのに」

「仕事だったのよう」

「私の代理。今は秘書として働いてもらってるの」森田が微笑む。

「あの、母が亡くなった夜は、本当にすみませんでした。本当は、全て秘密にしたままにするつもりだったのに……。うわ言で何度も谷原さんの名前を呼ぶもんだから、いてもたってもいられなくて。でも、来てくれて、谷原さんがずっと待っていてくれたから、助かりました。一人だったら、私、壊れていたかもしれない」

「いや、結局何もできなかったし……」

「ううん、何はどうあれ、貴方は千春のために駆け付けてくれた。私は感謝してる」

「うんうん、あたしもあんたがそんなにアツイ奴だったとは知らなかったよ。見直した!」

「それにね、例の日の午後、私千春に会ったんだ。千春、言ってたよ。素敵な男性になってた、会えて良かった、って」

「母はあの後から、諦めてかけて、やめてしまっていた治療を再開したんですよ。谷原さんが、生きようって思わせてくれたんです」

 涙が出そうになって、一気に紅茶を飲み干した。

「秘密にしたまま終わりにされなくて本当に良かったよ。千春さんが病院で俺を呼んでくれたおかげだな」

 一瞬、ダイニングテーブルに座った千春さんが、あの優しい微笑みを浮かべて、俺たちを見ているような気がした。

 彼女は、気づいていたのではないだろうか。

 あのコーヒーショップで、俺を一目見たその時に。

 確証はない。そんな気がするだけだ。そんな、優しい人だと思うだけだ。

 結局俺は、彼女に何もしてやれなかったのかもしれない。その優しさに包まれていただけだったのかもしれない。

 だけど、それが彼女の望んだことならば、それでもいいと思った。

 誰もいないダイニングテーブルに向けて、微笑みを返した。

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