13

 朝から雨が降り続いていた。今日は夜まで止まないらしい。その建物は小さな峠の中腹にあった。周囲から見ると窪んだ土地になっている。そこにポツンと建っていた。水没してしまいそうだが、周りを広大な駐車場に囲われていて、おそらく排水も完璧なのだろう。入り口付近はアーケードのように庇がせり出していて、その下にちらほらと人の姿があった。

「藤川家葬儀式場」と書かれた看板がある。それを見て、ようやくすとん。と落ち着いた気分になった。彼女は本当に、森田香ではなかったのだ。

 数日前に藤川から連絡が来た時には、迷ったものの、了解の意思を伝えた。出席しない理由が思いつかなかった。それに、本当の息子ではなくても、彼女ならきっと喜んでくれるだろうと思った。

 礼服を持っていないことに気づき、急いで新調した。この年齢まで、そのような機会がなかったことに気が付いた。祖父の葬式の時に買った礼服は実家にまだあるだろうが、学生の頃の安物だ。きちんとしたものを持っているべきだと思った。靴とネクタイも一緒に揃えた。

 受付で香典を渡し、記名する。後ろに並んでいる人もいないのに、なぜか急がなければならない気分になった。ただでさえ書きにくい態勢なのに、上手に書けるわけがない。それでも達筆な人は、きっと相当肝が据わっているのだろう。お返しの紙袋を受け取って、速やかにその場を離れた。

 少し奥では、受付を終えた来場者が列を作り、家族に挨拶をしている。迎えているのは、藤川と、もう一人の見知らぬ女性の二人だけだった。

 列に並ぶ前に、藤川とは目が合った。互いに会釈をする。

 順番が来て、俺は「この度は……」と頭を下げた。

「来てくれてありがとうございます。母も喜びます」

 そう言って、藤川は少しだけ笑顔を見せた。また少しやつれたような気がする。柔らかく上がった口元は、母親に似ていた。

 隣の女性にも頭を下げた。四十代くらいの、綺麗な女性だった。親戚はこの人だけなのだろうか。だとすれば、香さんの姉妹かもしれない。

「あ、この方が谷原さんです」藤川が小声で女性に言う。

 その女性は一度目を大きく開くと、すぐに細めた。眉間に力が入っていた。口を少し横に開いて歯を見せる。

「そう、君が……。今回は本当にありがとう。ご苦労様」

 一瞬訳がわからず、立ち止まってしまった。だが、すぐ隣では藤川が老婆と挨拶を交わしている。再び小さく頭を下げて、その場を離れた。

 周囲を見渡してみるが、もちろん知り合いなど一人もいない。愛美くらいは参列しても良さそうなものだが、彼女とて、藤川とはほんの少しの間一緒に働いただけの他人。香さんとは面識もないのだろうから、考えてみればこれが自然なことなのかもしれない。

 少人数のグループが沢山できていて、一人きりでいる者は他にいなかった。良い居心地を求めてここに来たわけではないのに、それが得られないことがひどく苦しい。居場所を探して、視線を巡らせる。柱の側には誰もいない。あそこなら目立たないだろう。俺はそれとなくその柱に近づき、そこで葬儀が始まるのを待つことにした。

藤川たちの方を横目で見る。挨拶の列はほぼ消えかけていた。あと二人だ。

 あの親戚の女性も、今回の件を知っているということか。

 結局、藤川からはまだ説明を受けていない。

 香さんが亡くなった夜は、藤川が落ち着いた頃に病院のスタッフが来て、遺体は霊安室に移されることになった。俺はそこまでだった。

 丁寧に丁寧に、藤川は何度も頭を下げて俺に礼を言った。他人ができることは何もないのだと痛感した。車の中で仮眠しようとしたが、眠れなかった。明け方、下道をゆっくり走って家に帰った。

 ふと受付に視線を向けると、そこに新道慶一郎の姿があった。

 なぜ社長が? 確かに藤川は元社員だが、四か月も前に辞めている。辞めた社員の家族の葬儀にまで、顔を出すものなのだろうか。そういうポリシーなのかもしれない。彼の場合、それくらいのことはしても不思議ではないように思える。

 だが、受付を終えた新道は、なぜか藤川たちの元へ挨拶に向かわなかった。彼女たちの前にはもう列はない。なのに、少し離れた場所から深々と頭を下げるだけだ。

親戚と思われる女性は一礼を返したが、藤川はじっと彼を見つめたまま動かない。新道は、そのまますっと立ち去ってしまった。俺は思わず後を追った。

 ロビーを出ると、新道は傘も差さずに、駐車場に向かって歩き出していた。雨足はさらに強まっている。

「社長!」

 俺の声に気づいた新道は立ち止まり、振り返る。

「君か……」

「どうして社長が?」

 彼は少し微笑んだ。

「病院に行ってくれたと聞いたよ。ありがとう。でもその様子ではまだ何も聞いていないようだね……。混乱するのもわかる。だが、近いうちにきちんとした説明があるだろう」

「社長は何か知ってるんですか? 今回のことについて」

「ああ、知っている」新道は頷く。

「なら……!」

 歩き出そうとした俺を、新道は手で制した。

「ずぶ濡れでは藤川君に失礼だ。君にはきちんと参列してやって欲しい」

 俺の頭上には庇がせり出している。まとまった雨粒が筋になって目の前を通過し続けていた。彼の頬を雨が流れる。とめどない涙のようだった。

「それに……私には話す資格がない」

 俺が次の言葉を探している間に、彼は走り去ってしまった。

 ロビーに戻ると、間もなく葬儀が始まるとの案内があった。藤川たちの姿はもうない。俺は他の参列者に遅れて、一番後から式場に入った。

 正面で、香さんが、藤川千春が笑っていた。少し若い時の写真のようだ。いい笑顔だったが、あの日の笑顔の方が素敵だと思った。

 沢山いると思っていた参列者は、並べてみればそれほどでもないことがわかった。親族席と一般席は左右に分かれておらず、椅子の間隔も広い。

 供花を見ると、有名な食品会社の名前があった。横に工場名が書かれている。確か彼女は工場のパートしかしたことがないと言っていた。比較的最近まで、そこで働いていたということだろうか。他は、友人一同と、株式会社フォラスフィ、という聞いたことのない会社からのもの。兄弟一同などは無かった。あの女性は姉妹ではないのだろうか。

 遺族の席にも、藤川の姿しかなかった。たった一人で、ぽつんと座っている。近しい親族すら、一人もいないのだろうか。あまりにも寂しい光景だった。

 会場内にはもの悲しい音楽が流れていた。それでも、人の話し声は聞こえてきた。こんな中で、よく話などできる。どうしても今話さなければならないことなのだろうか。俺はポケットからスマートフォンを取り出し、電源が切れていることをもう一度確認した。

 司会の女性による神妙なアナウンスが始まり、音楽と話し声は止まった。

 黙祷して、導師を迎えた。

 読経が始まる。

 少しして、誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。ロビーでは、知人と話して笑っている者はいたが、泣いている者はいなかった。葬儀が始まると、スイッチが切り替わる仕組みなのだろうか。式が終われば、またすぐに笑うのだろうか。

 経は進み、焼香の時間となった。

 先ず、喪主である藤川が立ち上がる。参列者に向けて一礼する。「凛とした」という言葉が似あう、そんな表情だった。

 人間はなんと強いのだろう。数日前、病院で聞いたあの泣き声。俺の胸にはまだその叫びが残っているのに、彼女はもう、前に進んでいる。

 たった一人の親族である藤川は、ゆっくりと時間をかけて、堂々と焼香した。その姿がまた、誰かの涙を誘ったようだった。

 参列者の焼香に移り、最前列の数名が案内される。その中に、例の女性がいた。藤川は一人ひとりに丁寧にお辞儀をした。

 最後の列は、俺を含めて三名だった。人が少ないとは言え、参列者の焼香は速やかに行われている。俺は前の者と同じリズムで藤川に一礼した。彼女は俺に、他の者よりも深く頭を下げた。いや、俺にというわけではないだろう。おそらく最後尾だったからだ。

 焼香台に進み、香さんの遺影に一礼し、合掌後に三度焼香をした。宗派によって回数は違うらしいが、心がこもっていれば良いとも聞いた。再び合掌、一礼し、藤川の方へ向き直る。

 当たり前だが、俺の他には既に誰もおらず、皆に注目されていることに気付いた。藤川に頭を下げ、そそくさと席に戻った。最後尾なのに、誰かに背中を押されているかのような気がした。

 静かに長く息を吐きながら、香さんの遺影を見た。

 彼女は微笑みかけている。娘の千佳に、俺に、参列者たちに。

 その笑顔を見つめ、俺は胸の中で言った。


 本当の息子じゃなくてすみません。そして、大切な一日だったのに、たいしたことをしてあげられなくて、本当にすみませんでした。でも、あの一日、たった二十四時間だったけれど、もし俺を本当に息子だと思ってくれていたのなら、貴女が騙されてくれていたのだとしたら、もしかしたら俺は、何かの役には立てたのかもしれない。そう思っていてもいいでしょうか? 俺は、貴女に会えて良かったと思っています。なぜか貴女に対しては嘘がつけなくて、自分の気持ちを正直に話してしまいました。いいえ、話すことができました。そして、それは俺の今後にとって、とても重要な意味を持つと気づかせてくれた。

 ありがとう……香さん。

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