12

 病院に着いてすぐに藤川千佳に電話をしたが、繋がらなかった。駐車場が狭いわりには、大きな病院だった。夜間受付のベルを押して、病室の番号と要件を言うと、自動ドアが開いた。要件はありのままに「突然呼びだされたから来た」としか言えなかったが、我ながら怪しいと思う。

 薄暗い通路を歩く。夜間はシャッターが降り、余計な場所には行けないようになっている。そのため、エレベーターホールまではほぼ一本道だった。自動販売機コーナーの灯りだけは、夜間でも煌々と主張していた。

 エレベーターに乗る前に、俺はトイレに寄った。運転中から催していたのだ。

夜中の病院にいるのだから当たり前だが、静かだ。何かの機械が低く唸る音と、尿が便器に当たって砕ける音しかしない。だが、俺の頭の中では、ピッ、ピッという音が流れていた。香さんの病室には、きっと心電図のモニターがあって、規則的なその音を立てているはずだ。彼女の鼓動に合わせて、鳴っているはずだ。

 手を洗っているうちに、口臭も気になってきた。気休めに何度か口を濯ぎ、うがいもした。タブレットかガムを買ってくれば良かったと、途中で見かけたコンビニを想像した。

 エレベーターのボタンを押すと、頭上の階層ランプが速やかに流れ、ドアが開いた。夜中は流石にスムーズだ。香さんの病室は六階だ。

 病棟の廊下は、一階に比べると多少明るく、清潔感があった。しかし、嗅ぎ慣れない独特の匂いを纏った空気が、じっとりと充満していた。所々の仄かな灯りに照らされた、誰一人歩く者もいないその長い廊下は、今ここにたくさんの病気の人がいるのだと、そう物語っているような気がした。

 香さんの部屋に行く途中に、スタッフステーションの前を通る。こういう時は、挨拶するべきなのだろうか。それとも、何はともあれ病室に直行すべきだろうか。迷いながら、その強烈な光に向かって歩いた。

 結局、声をかけることにした。

「すみません」

 短い返事の後に、とても小柄な看護師が素早くこちらにやってきた。彼女の他にはあと一人しかいないようだった。そちらは受話器を片手にメモを取っていた。

「どうしました?」

「あの、625号室の……」香さんの何なのか、自分でもわからない。

「あ! 藤川さんのご家族の方ですね。つい先ほど、ICUに移られました。三階に降りていただいて、右に真っ直ぐ行くと看板があります。妹さんもお待ちです」

「え……」目の前の女性が言っている意味を理解するのに、少し時間がかかった。夜中だからか、彼女の声は大きくなかったが、そのはっきりした物言いに気圧された。 藤川、という苗字が脳裏に漂うが、まだそこまで頭が回らない。

 早く行け! 俺を見上げる彼女の真っ直ぐで大きな瞳がそう言っていた。

 俺は踵を返し、廊下を早足で戻った。エレベーターの前に着く頃には半分走っていたし、三階で降りてからは思い切り走った。そこは病棟ではなく、検査室や手術室が並ぶフロアだった。

 ICUの前の長椅子に、藤川千佳が座っていた。

 彼女は俺を見るなり立ち上がり、そして下を向いた。深い吐息の音が揺れて聞こえた。手に持ったくしゃくしゃのハンカチで目を拭った。ひゅっと息を吸った。顔を上げた。

「すみません……来てくれて、ありがとうございます」

 彼女にぶつけるつもりだった数々の言葉は、憔悴したその姿を前に一つ残らず消えていった。

「香さんは?」

「この中です」

 藤川は目の前にあるガラスの扉を指した。すぐ奥にもう一枚扉があって、中の様子は全く見えない。

「電話すみません。ついさっき気が付きました。少し前に急変して……病室に行っちゃいましたよね」

「香さんは……」

「すみません、森田香は偽名で、本当は藤川千春……私の母です」

 もう、何もわからない。

 本当に申し訳なさそうな彼女の顔を見つめるしかできない。その顔は、確かに香さんに似ていた。

「母は、貴方を生き別れの息子だと思っていて、何度も名前を呼ぶので、私、見ていられなくなって、電話しちゃいました……本当にごめんなさい」藤川の目から、再び大粒の雫が零れ出す。「だから……出てきたら、話を合わせて……いえ、何も言わないで、ただ会ってあげてください。それだけで……」

 機械音が聞こえた。奥の自動ドアが開いたのだ。くすんだ緑色のエプロンのようなものを身につけた男女が歩いて来る。ガラスの扉も左右に開いた。

「先生!」

 藤川が男性に駆け寄る。

 医師は、静かに首を振った。

「嘘……」彼女の手からハンカチが落ちた。

 女性はそれをそっと拾い上げ、藤川の肩に手を添える。

「少し、お待ちください。今、準備していますので」

 それから五分ほど待たされた。嗚咽を漏らす藤川の背中を、女性スタッフが撫で続けていた。時折声をかける。藤川千春は最期まで頑張った、というような内容だった。

 廊下の先は右に折れている。その向こうで、車輪のような音が聞こえていた。ごく短時間で、小さな音だったので、藤川は気付かなかったようだ。

 やがて、その角を曲がって突き当りの小さな部屋に、藤川と俺は通された。

 中には先程の医師がいた。女性スタッフは部屋には入らなかった。

 部屋の壁際にはベッドがあり、そこに誰かが寝ていた。その側に簡素な丸い椅子が二脚。他には何もなかった。

「午後十一時二十一分でした。手は尽くしましたが、力及ばず、申し訳ありません」

 医師は深く頭を下げ、部屋を出て行った。

 立ち尽くす藤川の背中越しにベッドの上を見るが、その人物が香さんであることはもちろん、女性であることすら確証できる角度ではなかった。とは言え、藤川よりも先にベッドに近づくのも躊躇われた。

「藤川さん……」

 彼女の肩に軽く触れた。一瞬身を固くしたが、ゆっくりと一歩を踏み出した。近づくにつれ、ベッド上の人物に対する認識が鮮明になってくる。

 間違いなく、香さんだった。

 さらに痩せて、頬骨が浮き上がっていた。頭にはニット帽をかぶり、そこから髪は出ていなかった。青白くなった肌は、かえってあの時の体温を思い出させた。

 隣で静かに震える藤川に遠慮したわけではないが、涙は出なかった。心臓が潰れそうなくらい苦しいのに、冷静だった。

 俺はここにいてはいけない。

 ベッドの上に横たわる女性は、たった二度会っただけの他人なのだ。そのうち一回は、一緒に食事をして、お茶を飲んで、テレビを見て、笑って、話をして、料理をして、隣で眠って、二人きりで二十四時間を過ごした。ただ、それだけの、他人なのだ。

 そんな人間がいる所為で、藤川が思い切り泣けないのは、おかしい。

「藤川さん、俺、飲み物買ってくるよ」

 我ながら、酷い理由を言ったものだ。だが他に思い浮かばなかった。

 静かに扉を閉め、歩き出す。その数秒後、叫ぶような泣き声が聞こえてきた。

 心が引き裂かれそうな感覚を覚え、足を速めた。

 飲み物を買うつもりなどなかったのに、俺は自然とエレベーターに乗って一階に降り、薄暗い廊下を歩いて、自動販売機コーナーに辿りついていた。

 眩しい。

 この場所は、人間の生き死にの渦中にありながら、そんなものとは無縁だった。

ここだけではない。人間の生きている世界は、全てそうだ。誰かが生まれると同時に、誰かが死んでいる。だが、そんなことは当時者以外には関係ない。俺たちは皆、他人なのだ。

 ペットボトルの水を買って、一気に飲み干した。水分は体に満ちたが、酸素は不足した。人間の命など、バランスが崩れれば簡単に潰えてしまうものなのかもしれない。自分の荒い呼吸を聞きながら、俺は自動販売機コーナーを出て、すぐ側の長椅子に座った。蓋をして、空気が満ちた空のペットボトルを強く握る。

 香さんの動機には、やはり死が関係していたと考えるのが自然だろう。死ぬ前に、俺と過ごしたかったということだ。藤川が言っていた。俺を生き別れの息子だと思っていた、と。そこだけを見るならば、納得できなくもない。

 しかし、なぜそんなことになったのか。「思っていた」ということは、違う、ということだろう。もちろん俺の両親はちゃんと田舎にいるし、第一、母にそっくりなのだ、俺は。疑う余地もない。

 香さんはそう思い込んでいたが、藤川は違うと知っていた、という意味に取ることができる。その上で、俺を香さんに引き合わせたということになる。そのあたりのことは、藤川に訊くしかない。だが今夜は難しいだろう。彼女だけではない。俺の心も、もう余裕はない。

 香さんの声や表情が浮かんでは消えていく。あの言葉も、あの笑顔も、母が息子に向けたものだったと言われれば、そう思えなくもなかった。やっと探し当てた、生き別れの息子との再会。緊張して、ぎこちなくなるのは自然なことだ。

 しかし、俺は偽物だ。何の関係もない、赤の他人。

 だが、知っているのは俺だけだ。香さん、いや、藤川千春さんの、息子と再会した時の表情を。一緒に過ごしていた、あの瞬間の、声、笑顔、背中の温かさを。それなのに、俺はどうしようもなく、他人なのだ。

 彼女は、本当の息子には会えずに、死んでしまった。俺が偽物だと知らずに、死んでしまった。それが良いことだったのかは、わからない。

 自動販売機コーナーに戻り、空の容器を捨てる。水をまた二本買った。

 ゆっくりと、三階のあの部屋の前まで戻った。

 扉の向こうからは、まだ嗚咽が聞こえている。聞いていてはいけない気がして、離れた場所の椅子に座った。

 身内に会いたいと思った。他人ではない人間に会いたい。正月以来会っていない実家の父と母の顔が浮かんだ。

 両親が死んだら、俺も藤川ように泣くだろうか。それとも、ただ静かに、受け止めるのだろうか。

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