11
夜風もだいぶ冷たくなってきた。もうすぐ秋も終わる。空気が徐々に引き締まっていくこの季節が好きだ。街の灯りも、コンビニの光も、店の看板も、どこか優しく色合いを変えたように感じる。
今日もよく働いた。疲れがじわじわと押し寄せ、歩くスピードを遅らせる。歩幅も小さくなってくる。だが、それがまた心地良い。急ぐ必要はどこにもない。歩き慣れたアパートまでの帰り道。いつものように、途中で個人経営の小さな居酒屋に寄り、一人で黙って酒を飲む。程よく酔ったら帰宅して、そのままベッドで眠るだけだ。何も、することはない。何もしなくていい。
あれから、何の手がかりも得られないまま、四か月が経過していた。香さんはもちろんのこと、藤川千佳についても、何一つ情報は入ってこない。
あれは夢だったのだろうか。そう思う日もあった。だが、俺の通帳には、あの仕事の報酬である三十五万円が、きっちりと振り込まれていた。何度確認しても、数字は変わらなかった。
日付は七月八日。仕事の日である。振り込んだ相手の名前は「モリタカオリ」と印字されていた。もちろん、その日俺と彼女はずっとマンションにいた。銀行になど行っていない。俺が到着する前に、ATMなどから振り込んだ可能性はある。そこまで信用されていたと言えば本来喜ぶべきところだが、姿を消されてしまってはそうもいかない。
自分でも信じられないくらい塞ぎこんでいた。今思えば、何がそんなにショックだったのか、自分でもわからない。ただあの時は、全てを否定したかった。全てに否定されたようだったからだ。香さんも、仕事の仲介をした藤川も消え、まるで何も無かったことのようになってしまいそうで、気を抜くと「あれは夢だったんだ」と納得してしまいそうで、それが堪らなく嫌だった。俺があの仕事を通して、彼女と過ごして考えたことも、感じたことも、そしてあの笑顔も、声も、背中の温度も、何もかも、存在しなかったことになっていくのが、怖かったのだ。
二か月ほど何もせずに家にいた。「元々半年以上も仕事をしてなかったんだから同じようなもんだ」と、最近また会うようになった波多野は笑うが、あの頃とは違う。本当に何もできなかったのだ。食料が一切無くなるまで家から出ず、無くなっても近くのコンビニで大量にインスタントラーメンや菓子、栄養補助食品などを買い込み、また引き籠った。
本も読まず、運動もしなかった。初めのうちは、すがるように新聞やニュースを見たが、それもすぐにやめた。ただただ、自分の中で堂々巡りの思考を繰り返すだけの日々を過ごした。
やがて俺は、とにかく働こうと思った。きっかけと呼べるものは何もない。ただ、幾度となく反復された思考の末、自然に行きついたのだ。何か他のことをして、忘れようと。ただの夢だったことにしようと。あんなに嫌だったのに、いざそうなってみると驚くほどすんなり受け入れることができた。
ただ、もうあの会社の「人材」として働く気にはなれなかった。当てもなく求人情報誌を探して外に出て、なんとなく駅の方角に歩いていた時、イタリア料理店の看板に「アルバイト募集」の文字を見つけた。それからはそこで働いている。時給は九百七十円だ。幸い、地元ではかなりの人気店で、ぼんやり何かを考えている暇はない。
以前、俺自身も客として利用したことがある。大衆的な雰囲気なのに、メートル・ドテルのような役割のスタッフが常駐していたので、印象に残っていた。値段の割に料理が豪華で、味も悪くない。
良い店だと思う。活気もあるし、愚直さもある。もうこのまま、この仕事を続けて行くもの悪くないと思い始めている。少し前の自分は仕事に何かを求めていたようだが、そんなものはもうどうでもよかった。
居酒屋の看板が見えた頃、ポケットでスマートフォンが震え出した。どうせ迷惑メールかメッセージアプリ、もしくは何かのアラートだろうと思っていたが、振動はずっと続いた。しかも一回が長い。電話だ、と気づいて仕方なく取り出すと、画面には見たことのない携帯電話の番号が表示されていた。
普段、俺は知らない番号からの電話には出ない。今回も無視することにした。だが、なかなか振動は止まらない。既に居酒屋の店先に到着している。拒否しては、気づいていることがバレてしまうし、待つしかない。
一分程が経過して、ようやく静かになった。しかし、居酒屋の入り口に向き直り、引戸を開けようとした時、また振動が始まった。確認すると、やはり先ほどと同じ番号だった。このままでは店に入れない。俺は仕方なく、出ることにした。
「はい」
相手がわからない以上、名乗るわけにもいかない。俺の声を聞いた相手の、息を吸い込む音が聞こえる。
「藤川です」
確かに聞き覚えのある声に、俺は言葉が出なくなってしまった。居酒屋の店主とガラス越しに目が合って。慌てて少し離れる。
「もしもし? 聞こえてますか?」電話の向こうの藤川は、何やら焦っているようだ。
「ああ、聞こえる」
「良かった。突然ですみません。あの、単刀直入なんですが……」
「ちょっと待って、その前に」俺は無理矢理藤川の言葉を遮った。わけもわからないまま、単刀で直入されるわけにはいかない。「どういうことなんだ? 君も、香さんも突然姿を消して、一体なんだって言うんだよ!」
自分で思っているよりも、大きな声が出ていたらしい。通りがかった初老の男性がこちらを振り返った。
「その点に関しては謝ります。だから、お願いします。どうかもう一度だけ、母に会ってください」
「え?」
「……森田香です。森田香に会ってください」
「ちょっと、本当に何を言っているのかわからない。一から説明してくれよ」
「後でちゃんと説明しますから!」
「意味がわからないよ。説明してもらわないとこっちだって……」
「時間がないんです!」
俺が言い終わる前に、藤川は叫んだ。一瞬で、その感情が「悲痛」だ、と伝わってくる。
香さんの笑顔が浮かぶ。彼女に何かあったのだ、と、ゆっくりと頭が理解を始める。
「今から来てもらえませんか!? 柏市の明星記念病院の625号室です!」
「今から、って……」時刻は午後十時を回ったところだ。
「お願いします! 勝手なことばかり言ってるのはわかってます。でももう、本当に時間がなくて……せめてもう一度だけ」
電話の向こうから、鼻をすする音が聞こえる。泣いているのだろうか。それでも俺は、まだどうしたら良いのか判断できないでいた。いや、選択の余地などないのに、動けずにいたのだ。
「お願い……お願いします。お金はちゃんと払いますから」
俺の中で、何かがはじけた。
「金の問題じゃねえよ!」居酒屋から出てこようとしていた客を驚かせてしまったらしい。目を丸くして、出るに出られずにいた。
「待ってろ。すぐ、行くから」
通話を切り、俺は駆けだした。
いつもは酔ってぶらぶら帰る道も、走ればあっという間だった。すぐに家のドアを開け、玄関の下駄箱の上に置いてある車のキーを取り、再び施錠する。
エンジンをかけた瞬間、忘れようとしていた記憶が甦ってくる。
冷房の効いたロビー。愛美の眉間の皺。若い男性事務員の困った顔。あの識別番号が書かれた、別の仕事の求人票。地味な藤川と、イメチェン後の藤川。
そして、香さんの料理とその味。背中の感触。温度。咳。声。笑顔。涙。
あまりにも、鮮明だった。心が捩じ切れそうなほどに。
おそらく、香さんの命は尽きようとしている。藤川の言葉も、震えた声も、それを確信させるには充分すぎた。事故か、それともやはり、何らかの病気だったのだろうか。
その場所に俺が行くことに、意味はあるのか?
あの日、何もできなかったに等しい俺が、彼女の死に立ち会って、今さら何ができる?
病気の可能性を把握しながら何もしなかった俺に、そもそも行く資格があるのか?
だが、行くしかない。
行くしかない。
俺も、もう一度彼女に会いたい。
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