10
香さんと別れた後も、俺はその余韻に浸った。すぐに帰るのが勿体なく、彼女が普段生活している町を走り回った。最初に会った喫茶店に行き、レモンティーを飲んだ。あの二十四時間がまだ続いていると思いたかった。
会社に寄って報酬を辞退しなければならないことを思い出し、ようやく帰途についた。例のパン屋に寄って、藤川への土産を買った。彼女は俺と香さんを引き合わせてくれた恩人だ。
着いたのは、午後四時を過ぎた頃だった。今日も三十度を超える真夏日だ。ロビーは冷房が効いていて、心地良かった。
受付には、菊池愛美が一人で立っていた。相変わらずの黒のポロシャツで、袖から伸びる腕も、さらに日に焼けて真っ黒だ。俺の姿を見つけるや、彼女は「あ!」と大きな声を上げ、俺を手招きする。
「やあ、久しぶり」
にこやかに挨拶したつもりだったが、彼女の眉間には皺が寄っていた。
「ねえ、あんた、千佳ちゃんに何したの?」
「ちかちゃん?」
「藤川さんだよ。昨日突然辞めたんだよ。泣いてたんだよ。あんた何か知ってる? 知ってるなら教えてよ」
愛美は息もつかずに捲し立てる。
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと? とりあえず落ち着いて説明してくれ」俺は意識してゆっくり話した。愛美は一度深い呼吸をする。
「あたし、一昨日で派遣が終わって、昨日から受付の仕事に戻ったんだけど、お昼前くらいだったかな。千佳ちゃんが突然辞めるって言いだしたんだ。お世話になりましたって、泣きながら走り去って行っちゃって、それっきり……」
「他の社員とかには確認してみたの?」
「うん、でも誰も何も知らなかった。それどころか、いつの間にか退職届が受理されてたんだって。変だよね。誰かが受け取ったはずなのに、誰も知らないんだよ」
「うーん、確かに変だ……。だけど、思い当たることはないな。って言うか、どのあたりが俺……僕と関係してると思ったわけ?」
「だってあんた、千佳ちゃんのこと気に入ってたみたいだったし」
開いた口が塞がらない、という体験をしたのは、生まれて初めてだった。なるほど、何かを言おうとしても、それが言葉になる前に消えていってしまう。しかも次々に浮かんでは消えることを繰り返すため、口が開いたままになってしまうのだ。という思考もまた消えていった。
俺は意識して呼吸し、開いた口を一度塞ぐ。
「いいかい、まず僕は藤川さんとは数回しか会っていない。君がいない間に会ったのはたった二回だ。どちらも仕事の話しかしていない。下の名前を知ったのも今日だ。だから彼女が辞めたことに僕が関係しているとは考えにくい。というか、話を聞いていると君が戻った途端に辞めたんだから、原因は君という可能性だってある」
「なんであたしが原因なのよ!」愛美はわかりやすく不服を顔に出した。
「可能性の話だよ」
面倒くさい。つい余計なことまで言ってしまった自分を悔やむ。
「例えば……例えばだけど、新しく受付として配属された途端に、ベテランの君がいなくなってしまった。きっと彼女は悩んだだろう。しかし、尊敬する先輩、つまり君のことだが、その姿を思い出しながら努力して、どうにか一人で受付を回せるようになった。と思ったら君が戻ってきた。嬉しかっただろう。しかし、彼女は痛感する。先輩と自分の、歴然としたレベルの差に。半日一緒にいただけで悟ったんだ。だから身を引いた」
途中からどうでも良くなってしまい、退職届を出したのは愛美が戻ってくる前だった、という前提が抜けてしまった。だが、多少の効果はあったようだ。
「いや、そんな風に言われると照れるけど……っていうか何? もしかしてあたしのこと……」愛美は上目遣いに俺を見る。俺はすぐに目を逸らした。
「可能性の話だから。あ、はいこれ良かったら食べて」
俺は藤川に渡すために持って来ていたパンの袋を、勢いをつけて愛美の目の前に差し出す。反射的に彼女は手を伸ばし、袋を掴んだ。
「じゃあ、僕は事務室に用があるからこれで」
「え、あ! 受付を通してもらわないと困りますー!」
背中に聞こえる声を無視して、俺は丁度一階に降りて来ていたエレベーターに乗り込んだ。
四階で降りる。このフロアには経理関係の事務室がある。手近な扉をノックした。
「はい、何か」
すぐに事務員の若い男性が扉を開けてくれた。髪は明るめの茶色で、眼鏡をかけている。ラフなポロシャツ姿だった。僅かに口角を上げ、さわやかな印象である。胸ポケットには赤のボールペンが刺さっている。
愛美の言う通り、本来は受付で要件を言って、話を通してもらってから訪れるのだが、なんとかうまく誤魔化した。
さすがにそのまま事務室の中に入れるわけにはいかなかったのだろう。廊下を進んで少し奥にある休憩スペースに移動した。窓際がカウンターになっている。テーブルも四台あり、周囲にそれぞれ三脚ずつ椅子が並んでいた。種類は少ないが、自動販売機も設置されている。また、ガラスで囲われた小さな部屋がすぐ隣にある。分煙室のようだ。
「で、どうしたんですか?」椅子に座ってすぐに、男は訊いた。にこやかな微笑みの裏に、早く終わらせて仕事に戻りたい、という気持ちが見え隠れしている。
「実は、昨日から今日にかけての単発の仕事をしたのですが、うまく行かなかったので、報酬を辞退したいんです」
「ええ? そんなことできるんですか?」彼の声は裏返り、表情にも素直な驚きが現れている。
だが、訊いているのはこちらである。俺は顔には出さず、逆に少し口角を上げ、彼を真っ直ぐに見据えた。
「できるかどうか、確認してみてください。できないことはないと思いますが。ああ、もちろん、会社側の取り分は僕が払います。その点はご心配なく」
「いや、ですが……」
「相手方から振り込まれては返せなくなります。できれば早くお願いします。識別番号はSPR‐1000です」
「ちょ、少々お待ちください。確認してきます」
彼は胸のボールペンで手の甲に番号を書き、すぐに相談室を出て行った。
ガラス越しに、彼が上司と思われる年配の女性に説明しているのが見える。パソコンを開き、何やら操作を始めた。画面を見ながら、しきりに話合っている。そのうち、他の社員も数人集まりだした。そんなに難しいことなのだろうか。
戻ってきたのは、十分程経過した後だった。
「お待たせしました。あの、大変申し上げにくいのですが……」彼は立ったまま俺を見ている。困ったような顔でうすら笑いを浮かべていた。「ここ最近、谷原晴様が仕事にエントリーした記録はありません」
「は? いや、だって現に昨日から二十四時間の仕事をしてきた帰りですよ? もう一度確認してください。識別番号で調べればわかるでしょう」
「その求人なら、こちらになりますが……」
彼は机の上に一枚の紙を置く。求人票である。右上の識別番号はちゃんと合っている。しかし、内容が全く異なっていた。
「こちらの仕事はほら、ここに最低一カ月と書いてありますよね。あなたの言う二十四時間というのは一体……。それに、この仕事には別の『人材』がちゃんと派遣されていて、一昨日戻ったばかりなんですけど……」
その求人票の業務内容欄には「社長(女性)の自宅における執事業務」とあった。愛美が受けた仕事と一致している。依頼人の欄には聞き覚えの無い会社名が記載されていたが、視界が振動し、見ているはずの文字がうまく読めなかった。
どういうことだ。何が起こった?
あの仕事がそもそも存在しなかったとでも言うのか?
「あの、もうよろしいでしょうか。僕、仕事に戻らないと……」
男の手が求人票に触れる。もう一度、識別番号が目に入った。
では俺は誰に会った? 香さんとの二十四時間は幻だったのか?
いや、そんなはずはない。取り次いでくれた藤川だって、彼女と話しているはずだ。
そうだ。藤川千佳だ。彼女はこの件と何らかの関係がある。辞めたのは昼前だと言っていた。俺が香さんのマンションに行って間もなくではないか。
「あの、昨日退職した、受付の藤川さん。彼女にエントリーをお願いしたんです。クライアントとのやり取りも彼女がしました。連絡取れませんか?」
彼はため息をつき、スマートフォンを取り出す。
「携帯にかけてみましょう」
「お手数をおかけしてすみません」
しかし、期待は外れた。
「現在使われておりません、でした。解約したようです……」
少しがっかりした様子の彼に礼を言い、相談室を後にした。ロビーでは何か言いたそうな愛美を無視して飛び出した。
再びマンションを目指す。高速道路を使い、一時間程で着いた。
しかし、いくら呼び鈴を押しても、何の反応も無かった。玄関の前でしばらく待っても、誰も戻って来なかった。
やがて、ペールオレンジはより強大なオレンジ色に染められ始めた。そこには何の抵抗もなかった。
気温はまだ、下がらない。
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