9

 香さんは、俺の隣で眠っている。

 いや、まだ眠っていないかもしれない。

 リビングの隣の和室に二組の布団を敷き、同じ部屋で、並んで床に就いた。それが午後十一時過ぎくらいである。おそらく今はもう二時近くにはなるだろう。

 何もない。静かな夜だ。

 会話の中で、彼女にはそのようなつもりはないと確信していた。そういう相手として見られていないことがわかったのだ。だからこそ、心配だった。未だに目的が明確になっていないからだ。男女の関係が目的でないとすれば、自殺の線が濃くなってくる。他に考えられる動機が思いつかない。

 おそらく、香さんは寝たふりをしている。

 そして、俺も寝たふりをして、それを窺っている。奇妙な光景だ。

 気になる点はあった。

 結局夕飯も彼女の手料理をいただくことになった。俺も多少手伝ったが、味噌汁に肉じゃが、自家製の漬物、鯖の味噌煮という純和食メニューだった。しばらく食べていない、母の料理を思い出した。せめてのもの礼にと、マッサージを申し出たのだが、固辞された。身体に触れられたくないようだった。もしかしたら手首に傷があり、それを隠すために長袖を着用しているという可能性もある。

 また、夕食後しばらくして彼女がトイレに立った時、激しく咳き込んでいるのが聞こえた。聞こえなくなってからも、十分も出てこなかった。その他にも軽く咳をしていることが頻繁にある。何らかの病気だろうか。それを苦に自殺、ということも考えられるだろう。

 俺の中では後悔が渦巻いている。昼の仕事の話以降、俺らしい会話ができていない。気持ちを切り替えようと努力しても、どうしても完璧な演技ができず、中途半端な反応を返してしまう。彼女はそれでもにこにこと楽しそうにしてくれていたが、彼女に対して、俺はほとんど何もできなかったと言っていい。仕事は失敗したと思っている。報酬を受け取る権利はない。明日仕事終わりに会社に寄って、事務に掛け合わなければ。彼女がお金を振り込んでからでは遅い。思わず漏らしてしまいそうになったため息を、慌てて堪えた。

 その瞬間、香さんが深く長い息を吐く音が聞こえた。月明かりの中で、彼女のタオルケットと夏掛けが揺れる。

「眠れませんか?」

 思わず声をかけた。静かに。彼女は体を起こし、こちらを振り向いた。

「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」

「いいえ、僕も眠れなくて」

「お手洗いに行ってくるわ」

 彼女は部屋を出て行った。部屋と言ってもリビングとの襖は開け放してあるため、キッチンと廊下の間の扉を出て行った、というのが正しい。

 少しして、咳が聞こえた。音は小さく、籠っている。手で覆って抑えているのかもしれない。また長くかかるのではと思っていたら、すぐに水が流れる音がした。二枚の扉が開閉する音がして、彼女が戻ってくる。

「大丈夫ですか? 咳き込んでましたが……」

「あ、ええ……大丈夫よ。ごめ、んっ」

 言い終わらないうちに、また咳をし始めた。俺から隠れるようにして、背中を向けて、必死で抑え込もうとしている。

 思わず手を伸ばした。

 触れた彼女の背中は、見た目通り肉が薄く、背骨もはっきりと分かった。それでも、暖かかった。静かに、静かに上下に擦った。

「ありがと……、晴……」

 それから十数秒で咳は治まり、彼女の背中も伸びた。

「もう大丈夫よ、ありがとう」彼女の声はまだ少し震えていた。

「いいえ……」

「ごめんね。もう大丈夫だから、眠って。おやすみなさい」

 そう言って、彼女は再び横になる。俺もそれに従った。

 彼女が吸った息で鼻が鳴る。やはり寒いのだろうか。ここ最近続いている熱帯夜は今日も例外ではなく、俺のために今も緩くエアコンをつけてくれている。何度も遠慮したのだが、扇風機がなく、窓を開けて寝るわけにもいかないからと言って、切らせてもらえなかった。風はリビングからキッチンに向かって流れているので、直接当たるわけではない。俺にとっては適温だが、人の感じ方はそれぞれだ。

「エアコン寒いですか?」

「ううん……大丈夫」

 背中が見えていた。掛け布団の上半分を抱きかかえるようにして、俺に背を向けている。

「おやすみなさい」

「おやすみ……」彼女の声は穏やかだった。

 自殺などしないと思った。

 彼女の背中の温度は、とてもこれから死ぬような人のものとは思えなかった。これから死ぬ人の体温など知りもしないのに、なぜかそう確信していた。


 気が付けば朝になっていた。時刻はもう八時を回っている。

 やっちまった。そう心の中では呟いたが、俺はそれほど慌てなかった。

 すぐ隣のキッチンから、リズミカルな包丁の音が聞こえていたから。優しい味噌汁の香りも届いてくる。

「おはようございます」驚かさないように、そっと声をかけた。

 気が付いた彼女は、優しく微笑んだ。なんと表現すべきだろうか、そう「幸せそうに」。

「おはよう」

「すみません。しっかり寝てしまいました」

「ううん、いいのよ。もうすぐできるから、少し待っててね」

「顔、洗ってきます」

 俺は洗面所で着替え、身だしなみを整える。徐々にクリアになる意識と思考。仕事は十時までだ。駄目は駄目なりに、残された時間は全力を尽くそう。

 キッチンに出ると、すぐに彼女にリズムを合わせ、手伝いを始める。出来上がっていた卵焼きをテーブルに運ぶと、すでに充分な量のおかずが並んでいる。それでも料理を続ける彼女に少し戸惑いつつ、俺はサポートに徹した。

 結局、朝食とは思えないほどの品数の料理がテーブルに並んだ。白米、味噌汁、焼鮭、卵焼きは甘いものとしょっぱいものの二種類。肉豆腐、浅漬け、筑前煮。苦笑いの俺に対して、正面の席に座った彼女は満足そうに微笑んでいる。

「いただきます」彼女が手を合わせ、箸を手にする。

「いただきます」彼女に続き、俺も箸をとる。「さすがに、作り過ぎじゃないですか?」

「大丈夫。残ったら冷凍するから。たくさん食べてね」

 俺は普段、意識的に評判の飲食店に出向き、様々な料理を食べている。本物の味を知ることも、自分を高める要素だと思っている。香さんの作った、この何の変哲もない家庭料理の味は、相当高いレベルにある。しかし、プロの料理とはやはりどこか違う。もちろん実家の母の味とも違う。ただ、大好きな味であることに違いはなかった。

 ゆっくりとした、そしてたっぷりとした朝食と、膨大な量の後片づけを終え、とりとめのない話をして笑いながら、俺たちは十時を迎えた。既に十分ほど過ぎていた。互いにタイミングを窺っていた。できればもっと一緒にいたいという気持ちも、おそらく共通していた。

 それでも、終わりはやってくる。

 彼女はわざと時計を見た。

「時間だわ」

「ええ。時間ですね。でも……」

 言葉はそこで遮られた。彼女が深々と俺に頭を下げているのだ。俺の喉は、それに続く音を出すことはできなかった。

「晴君、本当にありがとう……」彼女の頬に一筋の涙が流れた。

「香さん……」

 結局彼女の目的はわからなかった。それがつまり、なぜ泣いているのか、の理由になるのだろうが、知ることはできないのだと思った。訊いても、答えるはずがない。俺の仕事が彼女にとってどうだったのか、役にたったのか、それも、同じことだ。訊きたい。しかし、訊けない。訊くわけにはいかない。

 彼女がなんらかの覚悟をもって、今回の仕事を依頼した。それだけは確かだ。

 ならば俺も覚悟しよう。結果がどうであれ、理由がどうであれ、受け止めて、前に進むしかない。いや、そうするべきだ。

 ただ、また会いたいと、それだけを願って。

「香さん、次は香さんのカレーが食べたい。一緒に作りましょう」

 彼女は微笑んだ。その目尻から、また一つ雫が落ちた。

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