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そのマンションは、坂の途中にあった。周囲の落ち着いた雰囲気の中に、突如として要塞のような建物が現れる。横幅が異様に広いのだ。とても七階建てとは思えない威圧感だった。外壁はペールオレンジ、つまり肌色だ。なぜか建物中央にせり出した階段は、学校や病院の非常階段を思わせた。一階は車庫とロビーなのだが、その部分だけ外観が異なり、岩石風のパネル貼りで、まるで石垣のように造られている。ここのオーナーは、本当は城を建てたかったのではないだろうか。
ロビーの案内板を確認する。森田香の部屋は511号室で、角部屋だった。なるほど、横に十一室も並べて、それを石垣の上に六層重ねると、要塞のような建物になるらしい。これは一つ勉強になった。
実際に建物の中に入ってしまえば、いたって普通の、少し古めかしいマンションだ。三人も乗ればもう一杯になってしまうような小さなエレベータを降りると、外廊下に出る。今日は気温がかなり高い。雲もなく、直射日光が痛いほど降り注いでいる。廊下は日影とは言え、ねっとりとした熱に包まれていた。
歩き出し、いくつかの部屋の前を通りすぎる。所々塗装が剥げてむき出しになったコンクリ―トの上に、子どもの三輪車やバケツなどが投げ出されていた。色褪せたフラフープが壁に立てかけられている部屋もあった。
約束の時間、七月八日の午前十時の五分前に、インターホンのチャイムを鳴らした。
「はい」女性の声がする。
「こんにちは。谷原です」小さなカメラに向かって微笑んだ。
「はい、今開けます。ちょっと待っててくださいね」
ドアの奥からばたばたと足音が聞こえ、鍵が解除された。ドアを開けて現れた森田香は、満面の笑みを浮かべていた。
「来てくれてありがとう。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「さあ、上がって」
俺はその微笑みをどこかで見たような気がしたが、深くは考えなかった。おそらく面接の時に見せてくれた笑顔を、シミュレーションの中で補正して想像していたのだろう。思った通りの、素敵な笑顔だった。
しかし、俺はこの笑顔を見ることを、目標の一つに位置付けていた。何もせずにそれがクリアされてしまったのは、嬉しい誤算だ。接していく中で少し物足りなさを感じてしまうことになるかもしれない。
「お邪魔します」
森田香の部屋に足を踏み入れる。玄関を入ってすぐ、両側に扉がある。さらにその先にも一対。そして廊下の突き当りにも扉。いきなり五つの扉に囲まれてしまった。通されたのは、正面の扉である。その先は十四畳ほどのリビングダイニングキッチンだった。冷房の冷たい空気が心地よい。カウンターキッチンの横を通り、ダイニングテーブルに案内される。
「今お茶を淹れるから、座って待っててね」
「あ、僕やりましょうか?」
「いえ、いいの」
「すみません。失礼します」
そんなやり取りの間も、彼女は笑顔のままだった。俺は静かに椅子に座り、少しだけ周囲を窺った。
ダイニングテーブルの上には何も置かれていない。キッチンも、ここから見える範囲ではきちんと整頓されている。
リビングスペースには、背の低い長方形のテーブルがある。木製だが、天板との隙間が見られたのでおそらく炬燵だろう。ソファなどはなく、カーペットの上に長座布団が敷かれていた。テーブルの上には三つのリモコンが置いてある。部屋の角には斜めに配置された液晶テレビがあった。
隣にも部屋があり、そこは和室だった。襖は開け放たれていた。見たところ家具などは何も置いていないが、壁際の畳の色が少し違う。押入れの有無はこの位置からは見えなかった。また、キッチンの反対側、つまり玄関から見て正面の扉を抜けてすぐ右手である。そこにも扉があった。
たくさんの扉の中に屈強な男たちが大勢隠れていて、突然囲まれて拘束されるという場面を想像したが、ほんの戯れだ。彼女の本当に嬉しそうな顔を見れば、そんな事態にはならないことは分かりきっている。
「ごめんなさいね。待たせちゃって」
森田香はいそいそとグラスを二つテーブルに置く。少し濁りがある、薄緑色の液体が入っていた。
「ありがとうございます」
彼女は少し迷ったような表情でキッチンの方へ戻ろうと一歩動いたが、意を決したように俺の向かいの椅子に座った。先ほどまでの笑顔はどこへやら。緊張で固くなっていた。
「あ、どうぞ。今日は暑かったでしょう」
「すみません、いただきます。暑いですね、もう三十度を超えてると思います」俺はグラスの液体を一口飲んだ。よく冷えたお茶の苦みが爽やかだった。
「クーラーもつけていただいていて、助かりました。でも、もしかして森田さん、クーラーが苦手なのでは?」
「え、どうしてわかるの?」
「簡単な推理ですよ」俺はにやりと笑う。「なんて、冗談です。女性はクーラーが苦手だという人が多いし、しかも長袖を着てる。適当に言っても大体当たります。でも、それっぽく聞こえたでしょう?」
森田香は白い長袖のブラウスに、ピンクのロングスカートという服装だった。俺の話に頷き、また笑顔になった。少し緊張がほぐれたようだ。
「無理しないでくださいね。僕、暑さに強いので」
「いいえ、大丈夫よ」
「そう言えば、最近のエアコンには、暑がりの人と寒がりの人が同じ部屋にいても、それぞれに合った温度の冷気や温風を出すものがあるらしいですよ。この前興味があって調べてみたんですが、森田さん、その仕組みご存知ですか?」
「え、いいえ、知らないわ。どうやってるの?」
「あれはね、人間の温度を感じるセンサーが指先や足先の温度まで測っているらしいんです。そして、どうして二つの温度の風を送れるかと言うと、これが意外と単純なんですよ」俺は一度そこでお茶を飲む。興味を引きつけて、少し焦らすためだ。「なんだと思います?」
「うーん」森田香は顎に軽く握った拳を当てて考える。「あ、機械が二つ入っているとか」
「あ、惜しいですね! 二つ、までは正解です。でももっと単純で、ファン、つまりプロペラが二つ付いているだけなんです。それを一方は早く回して強い風を、もう一方はゆっくり回して弱い風を送っているんです。実は出てくる風の温度は一緒で、人間に到達するまでの速さが違うんです」
「へえ、そうだったのね! 知らなかった」
そんな話を皮切りに、俺たちは会話を楽しんだ。もちろん、なるべく彼女が話すように回したが、元々無口なのか、それで半々と言ったところだった。結果的にはバランスが良かったと思う。
昼食は、森田香がすでに下拵えをしてくれていた。彼女がハンバーグと付け合わせの野菜を焼いている間、俺はサラダ、コーンスープ、ライスを並べた。テーブルの上は、ちょっとしたレストランのランチセットのようになった。ナイフとフォークではなく、箸だったのがまた良かった。
デミグラスソースは彼女が手作りしたという。ネットで調べた簡単なレシピだと言うが、コクがあってとても美味しかった。俺のハンバーグは彼女のものよりも倍くらい大きかった。切ると肉汁が溢れた。付け合わせには、ソテーした人参、南瓜、じゃが芋、さやいんげん、しめじ、エリンギ。どれもソースによく合った。
意識をしなくても、自然に「美味しい」という言葉が出た。口にするのは随分久しぶりだ。何度も言った。その度に彼女は微笑んだ。
「谷原君は、将来はどんな仕事をしたいと思ってるの?」
彼女にそう訊かれたのは、食後のコーヒーを飲み終わった頃だった。特にコーヒーが嫌いだったわけではないようだ。
「晴でいいですよ」
「え、じゃあ……晴……君」照れくさそうに彼女は微笑む。
「僕も香さんって呼んでもいいですか?」
「香さん、か」ふと、彼女の視線が外れる。
「あれ? 駄目ですか?」
「ううん、いいですよ」笑みを浮かべてはいるが、外れた視線は戻らない。
不思議な感覚だ。本来の流れなら、ここで真面目な顔で名前を呼び、相手の心をさらに惹きつけようとするところだが、なぜかそれができなかった。彼女が……香さんが相手だと、うまく演技することができない。
食事中の会話でも、似たようなことを感じた。エアコンの話のように、ただ知識を話すだけなら問題ない。しかし、自分の内面に関することや、自身の考えについて訊かれると、不思議と素に近い状態になって答えてしまうのだ。
気付けば俺は名前も呼ばずに黙ってしまっていた。
「それで、どんな仕事がしたいの?」彼女が俺を見る。再び視線が交差した。
「あ、えっと……そうですね、まだ見つかってない状態ですね。今は色んな仕事をして、色んな経験を積んで、その中で、何て言うか、面白い仕事が見つかればいいかな、くらいで」
やはり素直な気持ちが出てしまう。香さんは「そうなんだ」と、大げさとも言える反応を返す。立場が逆転している。
「今までではどんな仕事をしたの? 面白い仕事はあった?」
「そうですね……」
だめだ。用意していた答えが言葉にならないままに次々と流れ出ていく。
証券会社では、経済の最先端にいるという実感があったし、大きなお金が一瞬で動く駆け引きがあってとてもやりがいがありました。
社長秘書の仕事は、企業したばかりの会社だったので、本当にみんな手探り状態で一丸となって仕事をして、初めて上手くいった時には心から感動しました。
プログラムの仕事は徹夜続きで辛かったけれど、自分たちが作ったソフトを大勢の人が使うんだと思うと、限りなく良いものにしたくなって、終わらないで欲しいと思いました。
レストランのホールの仕事は、純粋に料理を楽しむ時間をお客様に過ごしていただくことを追求していて、そのためにできることは限りなくあって、一人一人異なるので常に刺激的でした。
資産家の執事を務めた時は、その家族の方々の笑顔を見るのが幸せでした。
家庭教師は、わからなかったことがわかるようになる、その瞬間に立ち会えるのが、自分にとっても大変勉強になりました。
芸能人のマネージャーは、通常とは全く異なる時間の流れをいうものを感じたし、普段テレビで見る方の素顔や本音に触れることができ、それまでとは違った視点でものを見ることができるようになった気がします。
止められない。決して激流ではない、ゆるやかな流動だ。だが抗えない。
ついには、一言も音声にすることができなかった。
香さんは微笑みながら、じっと俺を見つめている。その柔和で、慈母のような表情の前で、俺は、嘘をつくことができなかった。いや、違う。多分に含まれているはずの真実を、嘘のような言葉にすることができなかったのだ。準備して、取り繕ったものであっても、そこには俺が確かに感じた想いがある。感情がある。それを、予め用意された答えとして発するのを拒んでいる。用意した瞬間に、俺は俺の心を裏切っていたのだ。
「色々やってきて、どれもそれなりに面白いところはありました」気が付いたら、俺は口を開いていた。「でも、最初面白かったことはどんどん飽きてくるし、つまらない、という感情が先に来て、その面白さを素直に受け入れられなかったりして……。しかも、やればやるほど、その傾向は強くなって、最近ではもう、半年も仕事をしていません。できないんです。楽しんで仕事をしている自分が想像できない。楽しめない自分ばかりを想像して、怖い。一生このままなのかなって」
俺は何を言っているのだろう。今この瞬間も、まさにその仕事の最中だというのに。俺がするべきなのは、自分の心の中を打ち明けることではなく、彼女を楽しませることなのに。
いつの間にか伏せてしまっていた顔を、俺はゆっくりと上げる。
彼女に微笑んで、明るくしなければならない。
だが、彼女は今も微笑んで、俺を見つめていた。
「辛い、思いをしているのね……」少し、悲しそうな表情になる。「私はね、工場のパートしかしたことがなくて、面白いとか、つまらないとか、考えたこともなかったの。でも、よーく思い出してみると、楽しいと思うことも、つまらないと思うことも、なんで? って思うような理不尽なこともあった。ああ、こんな私にも、確かにそんなことがあったんだなって、今晴君の話を聞いていて思ったの。私は考えたことがなかったわけじゃなくて、忘れていただけなんだなって。私、ちゃんと仕事をしてきたんだなって。上手く言えないけど、晴君は凄いと思う。楽しんで仕事をしたいって言う気持ちを、ちゃんと持って仕事と向き合ってるってことだと思うの。私みたいにぼんやりとじゃなくて、ただお金が貰えればいいっていうのじゃなくて、真摯に、真剣に。だから凄い」
正直、何を言われているのか、よくわからなかった。ただ、彼女がまた微笑んだので、俺も微笑んだ。
「すみません……自分のことなんか話して。仕事中なのに」
「仕事かぁ……じゃあ、この仕事が、晴君にとって楽しいものになるように、わたしも頑張らないとね」
なぜ彼女が頑張るのだろう。頑張るのは俺なのに。
「あ、俺、洗います」
俺は逃げるように空になった二つのコーヒーカップを手に取り、キッチンへ向かった。
「ありがとう」香さんはリビングのテーブルに移動し、テレビを点ける。
水に浸しておいた昼食の食器とカップを、時間をかけて丁寧に洗った。排水溝へ流れていく泡とともに、俺の気持ちも少しずつ透明になっていった。
その後は、一緒にバラエティ番組や、彼女が好きだという刑事ドラマの再放送を見て過ごした。家族のシーンがあり、それとなく家族について訊ねたら、今は別に暮らしている息子と娘が一人ずついるとのことだった。夫は病気で亡くなったらしい。
それ以外は時折コメントし合うくらいで大した会話はできなかったが、それはかえって、自然なことのように思えた。俺はなんとなく、実家の茶の間を思い出していた。
そして、粛々と時間は経過し、夜になった。
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