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 来る七月八日に向けて、俺は準備を進めていた。

 それは、森田香について真剣に考えることに他ならない。

 彼女はどんな話題を好むだろうか。真面目そうな印象だった。ニュースの内容なら毎日チェックしているのでそれなりに対応できるだろう。指輪はつけていなかったが、結婚していないとも限らない。妻の目線で見た家庭生活についても一応押さえておくべきだ。もちろん、子育て関連も。三十代後半と仮定すれば、高校生くらいまでの育児や教育について勉強しておけば良いだろう。念のために、芸能ゴシップもチェックしておこうか。家事についての豆知識は絶対に外さない話題だ。復習しておかなければ。

 どんな趣味を持っているのだろうか。読書、映画、音楽、絵画、手芸、料理、スポーツなど、定番のものでも多様過ぎて全てを網羅することは不可能だ。ある程度あたりをつける必要があるだろう。もちろん珍しいものも多少は押さえておく。相手が知らなくても話題になる。また、コーヒーショップでコーヒーではなく紅茶を注文するあたり、おそらくコーヒーはあまり好きではないのだろう。何かしら軽食かデザートなども食べていれば手がかりは増えたのだが、面接では依頼人側が支払うことになるため、俺から言うわけにもいかなかった。この点は気にしても始まらない。俺はどちらかと言うとコーヒー派で、紅茶には疎い。種類が分かるくらいにはなっておかなければならないだろう。

 ファッションについてはどうだろう。面接時の服装も、とてもシンプルなものだったし、アクセサリの類も身に着けていなかった。あまり着飾るタイプではないのだろう。であれば、褒めるポイントとタイミングの見極めが重要になってくる。逆に、ファッションについて提案を求められた時のために、大人の女性のコーディネートについても学んでおかなければならない。

 そして、夜のことだ。彼女のイメージからして可能性は低いと思われるが、念のため心の準備はしておく必要がある。

 依頼内容は至極シンプルなもので、はっきり言って詳細はほとんど不明だ。彼女も多くは語らなかった。要は「二十四時間一緒にいて、貴方のやり方で楽しませて欲しい」ということなのだろう。俺はそう解釈し、それ以上は訊かなかった。しかし、それ故に、準備期間はいくらあっても足りない。そう考えれば、三十五万円という報酬は妥当なものなのかもしれない。

 今日は会社にも足を運んだ。仕事の報告書を閲覧するためだ。この仕事に前例があるとは思えないが、念のためである。その他、一対一の場合で問題が起こった時の対処法などが書かれているものがあれば参考になる。

 受付に誰か知らない女性がいると思って近づいてみたら、藤川だった。艶やかなストレートロングの黒髪は明るい茶色に変色し、髪形もエアリーショートと言うのだろうか、とても現代風になっていた。

「あ、こんにちは」驚いて声も出ない俺に、藤川が微笑む。

「どうしたの、髪」俺はなんとか声を出すことができた。

「イメチェンです」

「遠くから見たら別の人がいるのかと思ったよ」

「イメチェン大成功ですね」

 失礼とは思いながら、俺はまじまじと彼女を見てしまった。髪の色と形を変えただけで、こんなにも印象が変わる人はそう多くはない。むしろこちらが本当の彼女なのでは、と思わせるほど自然だった。

「そんなに見られると少し恥ずかしいですね」

「ああ、ごめん。とてもよく似合ってるよ。驚いた」

「ありがとうございます」藤川はにっこりと微笑んだ。「それで、今日はどうしたんですか?」

「ああ、そうだ。報告書の閲覧に来たんだよ。この前の仕事、受けることにした」

「そうですか! それは良かったです」

「まだ会社から決定の連絡来てないけど、先方からの返事は来てるんだよね?」

「少々お待ちください……」藤川がキーボードで文字を入力し、マウスを何度かクリックした。「はい、大丈夫です。決定されています」

「そうですか、それは良かったです」俺は先程の彼女の言い方を真似て言ったが、彼女はそれに気づかなかったようだ。

「すみません。事務の方には私から伝えておきます。近日中に連絡が行くと思いますので」

「いや、今確認したから連絡はいいと伝えておいて」

「畏まりました。ありがとうございます」

 彼女が閲覧用の端末の準備をしている間、ラウンジでコーヒーを飲んで待った。ソファには他に三人の姿がある。求人の閲覧に来たか、講座の時間を待っている連中だろう。太った男性と、髪の長い女性は背を向けているため顔が見えない。唯一こちらを向いているスキンヘッドの男性は、紫のシャツに金のネックレスという厳つい恰好ではあったが、顔は優しそうだった。

 この会社には「人材」が三百名ほどいるという。実際の稼働率は七割から八割くらいらしいが、直接給料を払っているわけでもないし、報酬単価が高いため、それでも利益が出るのだろう。

 モニターには近々行われる講座や研修の予定が表示されている。今日はあと三十分後に『最強ベビーシッター養成講座』が予定されているようだ。スキンヘッドの彼も受けるのだろうか。なんとなく、そうであって欲しいと思った。似合う、似合わない、彼に子どもの世話を依頼する人がいる、いないはともかく、そうなりたいと思うのは自由だ。

 ノートパソコンを持った藤川が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

「お待たせしました」藤川がパソコンを置く。モニターは開かれていた。

「ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」

「なんだか喫茶店みたいだね」

 微笑んで去っていく彼女を見送って、俺は画面に目を移した。「報告書データベース」という、そのままのタイトルが付けられたシステムが起動されている。俺は早速、条件を個人からの依頼に限定し、検索した。

俺たちには全ての仕事において、報告書の提出が義務付けられている。膨大な量の記録はデータベースに集約されていて、ラウンジでも閲覧が可能になっていた。もちろん、社名や個人名など、派遣先が特定できるような用語は全て塗りつぶされている。

 検索結果が表示された。この会社は設立から今年で八年目になるが、個人からの依頼は七十八件あった。

 一番上、つまり最も古い報告書を開く。ざっと読んでみると「人材」はある企業に表向きは正社員として入社し、半年の内にターゲットの三人を失脚させた。それにより、依頼人は希望のポストに就任することができ、任務完了、というものだった。末尾には、その「人材」が依頼人付の特別職としてそこに残ることになったと書かれていた。

 依頼人も秘密を握る者を手元に置いておきたかったのだろう。おそらく給料とは別に、定期的に報酬が支払われていると考えられる。残念ながらどのようにして失脚させたかは書かれていないが、非常に興味深い内容である。

 一件目からそこそこ面白かったが、今求めている内容とは違う。俺はキーボードの方向キーの右をクリックする。二件目の報告書が表示された。

その報告書は、社員が顛末を記したものだった。ある日「人材」が行方不明になってしまったのだ。幸い無事を確認することができたが、そのまま登録解除となったらしい。派遣先にはすぐに代わりの者を提案したが、断られたとのことだった。初期の頃はこのような失敗例も少なからずある。

 そのような調子で、次々に閲覧していった。

 今回の仕事に近しい依頼の報告書は、二件あった。

 一つは、おそらく寝たきりかそれに近い状態の、一人暮らしの老人からと思われる仕事だった。介護のような描写が含まれていたため、そのように想像したのだ。通常の介護サービスではなく、この会社の「人材」を求めたということは、何らかの事情があったのだろう。少なくとも相当な資産家だったことは間違いない。主な仕事は、話し相手や身の回りの世話だったようだが、その中で何度も「殺してくれ」と言われている。宥め、励ましていたが、結局依頼人は自殺してしまったらしい。その「人材」が頼まれた買い物に出かけている時だったこともあり、すんなり自殺と断定された。仕事の報告はそこまでだが、その後に綴られた公開と自責の念は、読んでいるだけで辛くなった。

 もう一つは、さらに今回の依頼との共通点が多い。

 依頼人は若い女性、派遣された「人材」は若い男性と読み取ることができた。一人暮らしのアパートでの家事代行がメインだったらしいが、なぜか宿泊することになった。そのあたりの詳細は書かれていないが、おそらく男女の関係になったのだろう。女性が起きている間は終始上機嫌で、明るい性格だったことを強調した書き方だった。肝心なのは報告書の後半だ。深夜、女性は部屋のドアノブとロープを使い、首吊り自殺を図ろうとした。しかし、静かに死ぬことはできなかったようだ。男はすぐに目を覚まし、救出した。泣きじゃくる女性を落ち着かせ、病院に連れて行き、しばらく入院となった。記録はそこまでで、その後女性がどうなったかまではわからない。

「自殺か……」

 俺は呟いた。その可能性は充分に考えられる。二例目の女性の場合は、最期は幸せを感じて死にたかったのだ、という推察ができる。しかし、それならば、首吊りではなく睡眠薬や毒などを用いたほうがはるかに楽で成功率が高いように思われる。初めから止めて欲しかったのでは、という想像もできなくはないだろう。

 森田香は自殺などするような女性には見えなかった。しかし、それは俺一人の主観であり、なんの根拠にもならない。この報告書の女性だって、自殺など匂わせもしなかったのだろう。つまりは、夜も寝ずに警戒しなければならないということだ。もちろん、一人で死ぬとは限らない。心中を図られる可能性もある。

 そうなると、今回の仕事は以下のようにまとめることができる。

 素性はもちろん、趣味嗜好も全く不明な一人の女性を楽しませ、かつその目的を速やかに看破し、一切の問題を排除しながら、二十四時間監視をする。

 なかなか難易度が高いミッションのように思えてきて、俺の胸は高鳴った。依頼達成には目的の看破までは必要ないかもしれないが、それでは謎を残してしまうし、もし自殺などを考えていた場合には、根本的な解決に繋がらない。それでは彼女を救えない。

 救う?

 自嘲した。いつから俺は森田香を救いたいなどと思い始めたのだろう。これは単なる仕事に過ぎない。それに、彼女が問題を抱えていると思い込み過ぎだ。ただの気分転換という可能性だってある。救いなど求めていないかもしれないし、その方が良いのだ。

 思考が凝り固まってしまうことが、なにより危険だ。俺は俯瞰的な視点を取り戻すため、関係のない仕事の報告書をその後何件も読んだ。

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