6

 自宅から面接場所である松戸市の喫茶店までは、下道でも車でおよそ一時間の距離だ。万が一にも遅れることのないよう、八時十分に出発した。多少渋滞していても、九時半には到着できる計算だ。それだけの余裕があれば、身だしなみも精神も完璧に整えることができる。


 俺は高速道路というものがどうも苦手だった。急がなくても良い時にも急かされている気になるのだ。のんびり下道で移動する方が性に合っている。やむを得ず使う時でも、一番左を走りたい。だが、走っていればやはり周囲に釣られてスピードが出てしまい、トラックなどを抜かなければならなくなる。追い越してまで先を急ぐ理由を、俺は持っていない。おそらくほとんどの人も同じだろうと思う。


 平日なら通勤ラッシュだったのだろうが、休日だったためか、予想よりも道は空いていた。九時十五分にその喫茶店に着いてしまった。近頃爆発的にチェーン展開しているコーヒーショップで、喫茶店というよりはファミレスに近い。場所を確認した俺は、コンビニに移動し、身だしなみを整え、少し時間を潰した。そして、九時四十五分にその店に戻った。


 店内に入ると、香ばしいコーヒーの匂いがした。


 相手の特徴は白い服にミディアムの黒髪、黒いバッグとのこと。対してこちらは、白系のパンツとシャツにネイビーのジャケットと伝えてある。先方とのやりとりは全て藤川を通して行ったため、相手の声もまだわからない。


 ざっと店内を見渡したが、それらしい女性はいなかった。店員に待ち合わせだと話し、入り口が見える位置の席を案内してもらった。


 少し待ち、時計を見る。九時五十六分。そろそろ現れるだろう、と再び入り口に視線を戻した時、左手から近づいてくる女性の姿が見えた。白い服に黒いバッグ。揺れる黒髪。俺は一瞬でその人物が依頼人だと確信した。


 想像以上に美しかった。色が白く、線が細い。余分な肉が一切ついておらず、薄弱な雰囲気さえ感じさせる。目を大きく開いて真っ直ぐに俺の顔を見ている。口は真一文字に結ばれ、緊張が伝わってきた。


 俺は席を立って、軽く頭を下げた。


「あの、谷原……晴、さんでしょうか……?」女性の声は震えていた。


「はい。森田さんですね? 初めまして。今日はお時間を割いていただきありがとうございます」


「いえ、こちらこそ……」


 俺は森田香を奥のソファ席に促し、彼女の着席後、再び席についた。


 女性は顔を上げているが、俺と目を合わせようとしない。年齢は三十代後半くらいに見えた。左手に指輪はなく、アクセサリの類も身に着けていない。軽くウエーブのかかった黒髪は艶やかで、それだけでも上品さを感じさせた。


 そのまま何も話さず、十五秒程が過ぎた。


「何か、飲み物でも頼みましょうか」


「あ、そうですね……」


 仕事の面接とはいえ、この相手の場合には、こちらが主導するべきだと判断した.

正体がわからない以上、コミュニケーションの蓄積が後々重要になってくる。俺はメニューのドリンクの頁を開き、彼女から正位置となるようにテーブルに置いた。


 メニューを追う彼女の瞳を見つめる。俺から意識を逸らせたことで、幾分緊張が和らいだようだ。多くの種類のコーヒーメニューがあったが、彼女は次のページを開き、ソフトドリンクの一覧を見ている。


 タイミングよく、女性の店員が彼女の水とおしぼりを持ってきた。


「すみません、注文いいですか?」俺は店員に声をかけた。


「どうぞ」店員はアニメキャラのような可愛らしい声で答える。


 俺はジェスチャーで森田香に先を促した。


「あ、じゃあ、レモンティーを、アイスで」


「じゃ、それを二つ」


「畏まりました」


 店員が去っていく。俺はメニューを閉じた森田香の目を見て微笑んだ。


「戻しますね」俺は素早くメニューを取り、元の位置に戻す。


「あ、ありがとうございます」彼女はさっと俺から視線を外し、水に口をつけた。


「さて、改めまして、谷原晴と申します。今日はよろしくお願いいたします」


「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします」


「早速ですが、仕事内容について確認させてください。依頼人と二人きりで二十四時間過ごす、とありましたが、依頼人は貴女……森田さんで間違いないですか?」


「……ええ」森田香は少し間を開けて、落ち着いた声で答える。「私が依頼人です」


「そうですか……それは困りましたね」ゆっくりと発音して、彼女から視線を外す。


「え?」彼女は狙い通りの反応を示した。


「いや……あまりにお綺麗なので、緊張して仕事にならないかもしれません。そうなっては申し訳ないな、と」


「いえ、そんな……」


「本当ですよ。貴女のような方と二十四時間一緒にいられるなんて、夢のようです。実は先ほどまで、実は貴女は代理人で、依頼人は別にいる、というオチを考えていました。だったら辞退しようかと」


「まあ」彼女は手を口元に当てて小さく笑う。


 とりあえず一つクリアだ。笑顔を引き出すこと、相手に半分以上喋らせること、何でも良いから本音を少しでも言わせること。これが、俺がこれまでの経験から構築したコミュニケーション理論だ。


「では、具体的な仕事の内容を教えていただけますか?」


「はい」彼女は椅子に座り直し、深く一呼吸した後、俺の目を真っ直ぐに見た。「七月八日の午前十時から、翌日の午前十時まで、私の家で私と一緒に過ごしてください。一カ月以上も先ですが、大丈夫でしょうか」


「日時は大丈夫ですが……」俺が視線を横に流すと、彼女は薄く微笑んだ。


「そうですよね。一緒に過ごせって言われても困りますよね」少しだけ口調が柔らかくなった。いい調子だ。「ええと、特に何もしなくて良いのです。一緒にテレビを見たり、食事をしたり……お話したり。普通にしていてくれれば」


「……それだけですか? 他には?」


「いいえ、それだけで充分です」


 俺が水を一口飲むと、彼女もつられたようにグラスを口に当てた。


「家事なら任せてください。こう見えても料理は得意なんですよ」


「いいえ、家事もしなくて大丈夫です。お料理は、そうね……手伝ってもらえたら嬉しいかな」


「なるほど……」


 頷きながら、俺は彼女の目の動きを追っていた。嘘だと確信できるような様子はない。緊張はしているが、落ち着いて話していると思われた。そろそろ切り込んでも大丈夫だろう。


 レモンティーが届いた。店員が去り、一口ずつ飲む。輪切りの檸檬が入っていた。


「森田香さん」


 改めてはっきりと名前を呼び、飲み物によって弛緩した空気を引き締める。彼女は驚いたように顔を上げた。


「うちの会社に求人を依頼するということは、何らかの事情があるとお察しします。私は今日、貴女にお会いして、できることならお力になりたいと思いました。しかし、先ほど聞いた限りでは、報酬と内容があまりにもかけ離れている印象を持ちました。何が言いたいかお分かりかと思いますが、失礼ながら、私はこの仕事に対する危険性を感じています。別の言い方をするならば、何か裏があるのではないかと疑っているのです」


 彼女の方は緊張で固くなっていたが、目はしっかりと俺を見つめていた。俺の話に、静かに頷いている。


「おそらく、今の時点で危険な仕事ではないと証明することは難しいと思います。だから、私は今日の内に、貴女を心から信用しなければならない。それができなければ、お引き受けすることもできません」


「つまり、私が貴方を信用させる、ということですね」


「はい。面倒であれば、私を断って、他の者のエントリーを待ったほうがいい」


「わかりました」


 彼女は目を伏せた。さあ、どう来るか。急に当たりの良いことを話し始めるか、身の上話で涙を誘うか。それとも潔く席を立つか。もちろん全て俺の信用を得ることはできない。なら、俺はどうすれば信用するのか。自分でもはっきりとした基準はない。いや、実を言えば、既に森田香のことを信用したいと思っている。この問題は、半分は自分自身に対するものでもある。どんな答えでも、彼女を信用できるか。その覚悟はあるか。


 そして、彼女の瞳は開かれた。


「私は谷原さんを信用します。私にできることはそれしかありません」


 それだけだった。たったそれだけなのに、俺を囲っていたガラスが砕け散ったような気分だった。


 なんという、正直な答えだろう。


 飛散した破片は、意地悪な問題を投げかけた俺の心に突き刺さる。彼女の瞳に映る自分自身が俺を見つめていた。


 こんな人が、人を騙すようなことをするはずがない。危険な仕事であるはずが無い。いや、危険でも構わない。この人の望みを叶えたい。強くそう思った。


「あの、どうしました?」森田香は心配そうな顔で、俺の顔を覗き込む。


 俺は強く目を瞑り、深呼吸する。レモンティーを飲み、口内に酸味を含んだ爽やかな苦さを満たす。


 再び視線を戻した時、彼女はまるで菩薩のように薄く微笑んでいた。


「森田さん」


「はい」


「あなたを信用します。私で良ければ、貴女の力になりましょう」


「どうして? 私はまだ何もしていないのに」困ったような表情で彼女は言う。


「先ほどの一言で充分です」


「危険かもしれないのに……」


「危険でもいいと思えました」


 彼女は再び柔らかく微笑む。


「ありがとうございます。ああ、とても嬉しい……。でも、もっと自分を大切にしたほうがいいわね」そう言って、彼女はレモンティーを口にする。「あ、もちろんこの仕事は大丈夫ですよ」


 俺と森田香は、その後はあまり話さなかった。話すのは当日に取っておきたいと思ったからだ。彼女は元々口数が少ないタイプなのだろうが「楽しみ」という言葉を何度も繰り返していた。


 ただ、一つ気になったことがある。話がまとまってすぐに、彼女が急に手洗いに立った。その時に目が潤んでいたような気がするのだ。数分後に何事も無かったように戻ってきたので、余計な詮索は控えておいた。


 支払いは森田香が行った。丁重に礼を言い、車まで送った。彼女の車は白のミライ―スだった。偶然隣同士に駐車していて、また少し笑い合った。


 俺はとにかく上機嫌だった。松戸市内にある有名なパン屋に立ち寄り、ハード系を中心に十種類ほどのパンとレバーペーストを三つ買った。ペーストの鮮度を保つため、保冷バッグと保冷剤も購入した。これで数日間は毎日絶品のパンを味わうことができる。その後はあまり訪れることのない柏のショッピングモールや本屋などを物色しつつ、ゆっくりと下道の帰途を楽しんだ。


 七月八日が楽しみだ。七日だったら七夕で、織姫と彦星のようだったのに、などと、普段は忘れているようなイベントのことまで想像していた。

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