5

 飲み始めてから三十分以上が経つというのに、波多野はまだ一杯目のビールをちびちび飲んでいる。彼は、外見もしくは普段の態度と、体が酒を受け入れる機能には全く関連性がないことを証明する人間の一人だ。俺があまり飲めない事は誰も不思議がらないが、彼が飲めないことはそれだけで話のネタになった。なんとなく損をした気分になることがある。だが、今日は二人だけなのでその心配はない。


 波多野は俺が例の仕事にエントリーした次の日に、偶然戻ってきた。週半ばなので休暇を取ったらしい。ホテルは週末が忙しいのだ、と得意気に話したが、それはそうだろうな、と思った。連絡を受け、いつでも休日な俺は二つ返事で応じ、駅の近くにあるチェーンの居酒屋で合流した。まだ午後五時を回ったばかりで、外は明るい。店内も静かで、俺たち以外の話し声は聞こえなかった。


「でもな、なーんか違うんだよなあ」


 波多野がため息交じりに言う。今まで散々ホテルの仕事の面白さを語っていたくせに。だが、そんなニュアンスは言葉の端々に滲み出ていたので、俺は特に驚かなかった。


「なんていうの? こう、天職感がないんだよな」


「なんだ、天職感って」


「ほら、俺はこの仕事のために生まれてきたんだずえーーっ! っていうアレだ」


「アレと言われても」


「お前なら、わかってくれるはずだ!」


 顔を赤くした波多野は、ウーロン茶をごくごくと飲む。彼は必ず酒とソフトドリンクを同時に注文する。そうしないとすぐに酔ってしまい、一杯を飲み切ることができない。注文したものは飲み干すという信条らしい。


 俺は二杯目のビールを飲み終え、今はハイボールに口をつけたところだが、そろそろ俺の身体のアルコール許容量も満タンになりつつある。箸を手に取り、一切れ残っていたジャガイモにチーズと明太子を乗せて焼いたものを自分の皿に移す。これでテーブルの上に残っている食べ物は枝豆だけになった。


 正直なところ、俺には波多野の言う「アレ」についてすぐに思いを巡らせることができていた。この四年間、色々な仕事をしたが「ソレ」を感じたことはない。最初は彼と同じように求めていたこともあった気がするが、最近ではもう、そもそも存在しないのではとさえ思うようになった。


「ずっと務め続けてる奴らって、それが天職だと思ってる奴ばっかりじゃないわけじゃん。むしろそう思ってる奴の方が少ないような気がする。それってどうよ? って思うんだよね。俺はできれば天職だ、って思える仕事を探して、それに一生を捧げたいわけさ」波多野は一口ビールを含む。もうジョッキの五分の一も残っていない。「前に親父に話したら『いつまでガキみたいなこと言ってんだ』って怒鳴られた。これってそんなにガキみたいなことかね? ガキに天職も何もないだろうよ。働いたこともないんだからさ」


「まあ言いたいことはわかるよ。でもずっと働いてるうちに天職だと思う人もいるし、続けてないと、それが天職だって気づかない人もいるんじゃないの」


「うーん、いるかも知れんけど、なんかこう、ズドーンと来ないもんなのかね? 雷に打たれたみたいなさ」


 俺は店員を呼ぶボタンを押した。数秒後に扉がノックされる。余程暇なのだろう。俺がウーロン茶を注文すると、波多野ももう一杯追加した。彼のウーロン茶はまだ半分ほど残っている。ついでに数種類の焼き鳥と、揚げ出し豆腐を注文した。


「少なくとも、やりたくないことを続けるんなら明確な意思が必要だとは思う。家族とかな。そうじゃないなら悪いとは思わないけどな、天職探し」


「おおぅ、晴ちゃんはやっぱわかってくれてんなぁ!」波多野は上機嫌だ。かなり酔っている。「でもさ、結婚とかは本当は関係ねえと思うんだよな。立場はどうあれ、人は少しでも自分の天職に近い仕事を探すべきだ。残念ながらそれが許されない環境ってのはもちろんあるさ。でもそれを撥ね退ける努力くらいはするべきだ。けど、多くの人はなんとなく就職して、そのまま忍耐で仕事を続けてる。たまに訪れる小さな幸せを感じながらだ。もっと大きな幸せがあるかもしれないのに、そんなことは考えてはいけない、その小さな幸せを大切にしなければならないと思い込んでる。これはもう社会に洗脳されてると言っていいと思うね」


「なのに、そういう人って成功者を見ると羨んだり妬んだりする」


「そう! 芸能人は遊んで金貰ってる、って怒ったりな。結局矛盾してんだよな。羨ましいんなら、なんでやらないんだっての」彼は残ったウーロン茶を飲み干した。


「継続の先に大きな幸せが待っている可能性を、否定できない、いや、したくないのかな」俺はハイボールを一口飲む。「だから迷うんだろう。俺も色々仕事したけど、辞めたのは天職じゃなかったらじゃない。飽きたからだしな」


「うーん……けどまぁ、天職だったらそもそも飽きないかもよ」


「いや、同じことを続けてたら必ず飽きる。実際、今までの仕事でも、続けてたら天職になったかもしれないっていう可能性は、いくつかの仕事に今でも感じてるよ」


 波多野はじっと聞いている。俺は冷めたジャガイモ料理を一口で食べた。


「お前の言うとおり、ズドーンと天職に出会うかもしれないし、積んだ経験の中に隠れてるかもしれない。要は、今は色々試せばいいと思ってるよ。まあ、独り身だからできることだけど」


「そんなこと言ってもお前、半年も働いてないじゃんか。それに、やっぱり家族を理由にするってのはなんか違うような気がするんだよな……」


 扉がノックされ、波多野の話は中断された。


「失礼しまーす」


 シフトが変わったのか、扉を開けた店員は、ここに来てから初めて見る女性だった。金髪のロングヘア―である。思わず顔を見てしまったが、ほぼ間違いなく日本人だ。近くの大学の学生だろうか。それくらいの年齢に見える。


「お待たせしましたぁ」と、ウーロン茶を二杯テーブルに置いた。置き方は丁寧だった。


 波多野は、にこやかに空のグラスを彼女に渡す。ついでに空いた料理の皿も下げてもらった。扉が閉まるのを待って、俺は早速ウーロン茶に口をつける。


「っていうかさ」波多野は急に真面目な表情になった。「可愛くね? 今の子。前はいなかったよね」


「最後にお前とここに来たのは、もう三ヵ月以上前だよな。そりゃスタッフも変わるだろうよ。年度も変わってるし」


「くそっ、仕事が横浜じゃなかったら通ったのに! さすがに片道二時間は無理だ!」


 横浜にはもっと波多野が好きそうな女性がたくさんいそうな気がする。だが、言えばその話が延々と続くことが目に見えていたので、言わなかった。


 焼き鳥と揚げ出し豆腐が来る。今度は男性店員で、波多野は心底憎たらしいという目つきで彼を見ていた。ちらほらと他の客の声も聞こえ始めている。混めば料理が遅くなると踏んで、さらに二、三品の料理を追加注文した。


 それから数分の間、俺たちは料理を味わった。焼き鳥の焼き加減にはムラがあった。中まで火は通っていたが、ひどく焦げているものが所々にある。揚げ出し豆腐の味は悪くなかった。


「で、実際これからどうすんのよ」さっさと自分の分を平らげた波多野が口を開く。


「つっても、あれからそんな経ってねぇし、働く気が起きてるわけねぇか」


「いや、単発の仕事を受ける」


「マジで!? どんな?」


 俺は昨日エントリーした怪しげな仕事について、簡単に説明した。最初はにやにやして聞いていた波多野だったが、次第に表情は硬くなり、終いには眉間に皺を寄せて目を瞑った。予想通りの反応だ。


「そりゃ、詐欺だな」


「どうして?」俺は間を開けずに返す。


「前に同じような手に引っかかった奴を知ってる。もちろんウチの会社じゃないけどな。一回だけ楽な仕事とか、何かしら理由付けて直接会うんだ。そしてカモになりそうだと思ったら、今度は別の理由で、プライベートで誘われる。もちろん超絶美人なんだ、相手は。もうなんて言うか、アイドルとか、女優とか、芸能人とか、そういうレベルなわけよ」


「アイドルとか女優は、芸能人だな」


「うん」俺のツッコミはその一言で躱された。「そんで俺はどんどんのめり込む。気づいたらバカ高いバッグをプレゼントする約束をしてるんだよ。何十万もするんだぜ? そういうのがあるってのは知ってたけど、実際に見たって信じらんなかったよ。ピンク色のレザーバッグで、特に変わった形してるわけでも、四次元空間に繋がってていくらでも入るわけでもない普通のやつだ。でもどうしてもって言うし、なんかもしかしたらヤレそうかもなって雰囲気だし、買うだろ? そりゃ誰だって買うよ。その日はそれで終わるだろ? 喜んでる女をホテルになんか誘って気分を害したら水の泡だからな。物で釣ったとか思われるのも嫌だ。で、次の日から連絡取れなくなるだろ? 働いてるって聞いた会社に行ってもそんな人はいないって言われるだろ? っていうか革なのにピンクってのがまずおかしいじゃん。なんの革なんだよ。まあいい勉強になったと思うけどよ……ってそいつは言ってたけど、友達がハメられるのを、俺は見過ごすわけにはいかねぇな」


 早口で捲し立て、波多野はウーロン茶をがぶ飲みする。色々な部分について色々な意味でツッコむのを諦めた。彼もそれなりの苦労してきたようだ。


「まあ、ウチの会社が通してるんだし、大丈夫だとは思うけど」俺はハイボール、ウーロン茶と連続で飲んだ。薄いウーロンハイだ。


「それはなー、確かに。確かに言えてる。つーか、大丈夫な要素がそれしかない。それでも百パー大丈夫ってことはないんだし、やっぱ危ねえよ」


「百パーじゃないのは逆もしかり。とりあえず面接だけ受けてみて判断するさ」


 波多野は腕を組んで頭を傾け、うーんと唸った。


「エントリー後も選考やらなんやらで会社も色々やり取りしてくれるんだろうしな。相手方の回答が不自然に早いとか、面接場所がアパートの一室とかじゃなければ、大丈夫……かな」


「それが、面接は明日なんだ」


「うん、それは、完全にダメなやつだ」


「待ち合わせは喫茶店だよ」


「でもダメなやつだ」


 確かに通常であれば、相手方からの回答には一週間程時間がかかる。しかし、今日の昼に藤川から連絡が入り、明日の十時に面接となった。明らかに異常である。しかし、そのことが、俺の興味を何倍にも増幅させた。危険な領域に足を踏み入れようとしていることは、自分でもわかる。それでももう止まれない。波多野に話してよかった。彼の反対も、さらなる後押しとなった。


 その夜はなかなか寝付けなかったが、早めに就寝したので睡眠時間は充分だ。目覚めの直前に、波多野があの金髪の女性店員から何かを買って欲しいとせがまれている夢を見た。なぜか場所は俺の実家の居間で、彼はにやにやと楽しそうに笑っていた。

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