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今日の受付はいつもと違っていた。という言い方は、正確ではないだろう。俺が会社を訪れるのは、今ではせいぜい二、三週間に一度くらいだ。研修や講座で興味があるものがあれば、それを受けにくるだけである。働いていた、つまり派遣されていた時は、報告や相談などは全てメールでのやりとりだったから、今よりも会社に来ることは稀だった。つまり、俺が知っている「いつも」の受付というのは、ほんの僅かな時間の光景に過ぎない。ただ、愛美は「いつも」そこにいた。それが、今日は藤川一人だけだったのだ。別にそれで困るというわけではないが、どうにも違和感があった。
藤川は、今日も白のシャツにグレーのパンツという、当たり障りのない服装である。素材が良いのだから、もっとお洒落に気を遣えば良いのに、などと思うが、ファッションに興味のない俺が言えた義理ではない。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。お久しぶりですね」藤川は微笑む。
言われてみれば、前回来た時には彼女がおらず愛美だけだったので、最後に会ってから一月以上が経過していた。
菊池さんは? という質問が喉元を通過して舌の上くらいまで到達したが、必死で抑えた。愛美がいてもいなくても、用件は同じだ。
「あの、谷原さん!」
不意に藤川に名前を呼ばれ、俺は驚いた。
「仕事、ありましたよ」
「仕事?」
「前に言っていた、珍しくて、変わってて、面白そうな単発の仕事です」
なぜか、彼女の様子が必死に見えた。俺のためにずっと探してくれていたのだろうか。少し申し訳ない気持ちになる。あの時愛美は冷やかしだと言い、俺は否定したが、そんな仕事があるわけがない、ということを念頭に置いた言葉だったのは確かだ。
藤川は真っ直ぐに俺を見つめている。今さらあれは本気ではなかった、とも言えない。それに、本当にそんな仕事があるのならば、ぜひ拝見したいところだ。だが、おそらくはどこかで見たことのある類のものだろう。たしか以前、爬虫類マニアのペットシッターという仕事があった。ヘビやカメ、トカゲなど飼育動物一覧の中に、さりげなくワニがいたのを覚えている。それもまあ、珍しくて、変わってて、面白そうな仕事ではあった。
「へえ、どんな仕事なの?」俺は平静を装って訊いた。興味津々という態度はかえって不自然になる。
「あ、ええと、女性と一日一緒にいるっていう仕事です」
だからどんな仕事なんだ。それは。
「女性と? 一日っていうのはつまり……」俺はその後の言葉を濁した。一瞬、一夜を共にするイメージを描いてしまったのだ。そんなことを考えたと藤川が知れば、幻滅されるかもしれない。朝から夕食くらいまで、という意味の一日にも取れる。というか、むしろその可能性の方が高い。
「二十四時間って書いてありましたよ」藤川は軽い口調で言った。
一夜、を含むことが決定した。俺は「あ、そうなんだ」としか言えなかった。この会社では、派遣先の人物を含めて恋愛自由である。実際俺も一度だけ、最初に仕事をした女性社長と関係を持った。成り行き、というやつだ。藤川が、そのような可能性がある仕事を平気で俺に薦めたということが、少しショックだった。
俺は思考をリセットして、閲覧室への取次を頼んだ。部屋は空いていた。
「番号はSPR‐1000です」
藤川が口にしたのは、依頼の識別番号だ。比較的覚えやすいとは言え、覚えるほどに俺のことを考えてくれていたかと思うと、また申し訳ない気持ちが湧いてくる。礼を言って、足早に閲覧室へ向かった。
今日の閲覧室の係は、社長ではなく、稲葉さんという気のいいおばさんだった。そういつもいつも社長に監視されていてはたまったものではない。
早速ソファに座り、ファイルを捲る。一応他の仕事も見ていくが、面白そうなものはなかった。右上に例の識別番号が書かれた求人票は、後ろから三番目にあった。
あまりにも異質で、明らかに怪しかった。もう一度番号を確認するが、間違いはなかった。個人からの依頼は得てして余白が多くなりがちではあるが、限度というものがある。
【業務内容】依頼人と二人きりで二十四時間共に過ごすこと。詳細は面談にて。
【派遣先】千葉県松戸市。森田香宅。
【報酬】三十五万円。
それだけだった。普通は、依頼の理由やら、どんな「人材」を求めているかやらが書かれている。できれば多くの者にエントリーしてもらい、その中から選択できるほうが良いし、また、まったくお門違いの者は予め排除しておきたい。そう思って、書く。その傾向は、個人でも変わらない。
簡潔すぎる。しかし、面白い。
一日の割に報酬は高額だ。一体どんな仕事をさせられるのだろう。俺はこの仕事に、強く興味を引かれた。そして、この森田香という女性を一目見たいとも思っていた。
大丈夫だ。面談をして、仕事内容に不満があれば、こちらから断ることもできる。もし嘘をついていて、仕事を引き受けてからそれが発覚したとしても、その場で辞退する権利もある。第一、この会社が依頼として正式に受領しているのだ。身元は確かなはずである。
この仕事にエントリーすることを決断するのに、時間はかからなかった。
足早に受付に戻る。少なからず興奮していたのかもしれない。藤川は接客中だった。やはり愛美は不在のようだ。数分間立って待っていたが、なかなか終わらない。仕方なく、ラウンジのソファに腰かけた。
待っている時間はもどかしかったが、俺の頭の中では様々な想像が広がっていた。まず、女性の年齢が書かれていない以上、老婆の可能性もある。だとすれば、目的は何か。話し相手なら、デイサービスにでも行けばいくらでもいる。三十五万円も払ってまで、なにを求めているのだろう。
また、人妻の可能性もある。浮気した旦那への仕返しかもしれない。それは特に面白いことでもないので、断ろう。
森田香。どこにでもありそうな名前だ。勝手な想像だが、こんな依頼をしてくる人物は、二十代ではないような気がする。三十代後半から五十代くらいだろうか。美人かどうかは関係ない。俺が思いもよらない仕事であって欲しい。
藤川の接客が終わると同時に、俺は彼女の元へ向かった。
「あ、谷原さん。どうでした?」
「ああ、とても良いね。面白い」
「そうですか! 良かった!」藤川は微笑む。安堵の表情だ。
「ありがとう。教えてくれなかったら、今日はつまらない研修を受けて帰るところだった」
「え、研修の予定だったんですか? すみません、お邪魔してしまって」
「いや、いいんだ。早速エントリーしておいてくれるかな?」
「わかりました」 藤川がパソコンを操作する。「登録証をお願いします」
俺はカード型の登録証を取り出し、藤川に渡した。一般企業における社員証のようなものである。内臓チップに俺の情報が記録されている。パソコンから伸びるコードの先に、カードより一回りだけ大きな板のようなものがついていて、それが専用の読み取り機になっている。藤川はカードをそこにかざした。
「はい、エントリー完了です」
「ありがとう」藤川から登録証を受け取り、鞄に戻す。
「後日、面談の日時と場所を連絡いたします」
「よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
それから数秒間、俺と藤川は無言で見つめ合ってしまった。俺から視線を外した。
「そう言えば、菊池さんは?」
駄目だ。何を訊いているのだろう、俺は。仕事モードならこんな失態は起こさない。既に藤川をそこまで意識してしまっているのだろうか。それとも、半年間働いていない所為で感覚が鈍っているのだろうか。いや、女性に関してのブランクなら一年か。しかし、彼女がもし本当に俺のためにこの仕事を探してくれていたのだとしたら、それはもう、そういう意味だと受け止めて差し支えないのではないだろうか。まずい。愛美のことなどを訊いたら誤解されてしまう可能性がある。
「菊池さんなら、もう半月くらい前から派遣されていますよ」俺の勝手な心配を他所に、藤川は笑顔で答える。
「え、なんで?」素直に疑問を口にした。
彼女は「人材」ではない。いや、そう思っているのは俺だけで、実は「人材」として登録されているのかもしれない。社員が登録できないというルールを聞いたことはないし、この会社のことだから、それは充分にあり得る。
「突然スカウトされて、菊池さんも即決でした。カッコよかったですよ」
ということは、エントリーしたわけではないのか。しかし直接スカウトされるというのも初めて聞いた。俺の中で、愛美が「受付の女」から「謎の女」へと変わっていく。
「ちなみに、どんな仕事なの?」
「女性社長の執事って言ってました」
執事とは男性の職業ではなかったのだろうか。女性の場合、そのような仕事をする人物はメイドと呼ばれると記憶している。しかし、愛美の場合はメイド服よりも執事の装いの方が似合いそうだ。
帰宅途中の車内で、ゴルフウェアに蝶ネクタイを付けた愛美が、元気に「お帰りなさいませー!」と両手を挙げて主を迎える姿を想像し、笑った。同時に、せっかく愛美がいないのに、チャンスを逃してしまったことにも気付く。藤川に下の名前くらい訊いておけばよかった。
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