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 朝からずっとベッドの上で読書をしていたが、どうにも集中できない。用もないのにどこかへ出かけたくなってくる。ずっと家にいると、定期的にこのような状態になることがある。こんな時は全く別のことをするのが良いのだが、それも大体やりつくしてしまっている。とは言え、新しいことを始める気分にもなれない。


 ひとつ深い呼吸をしてベッドから起き上がり、トイレに行った。


 洗面所で手を洗う。鏡には、無精ひげを伸ばした自分の顔が映った。あまりに汚らしく見えたので、電気シェーバーで剃った。外出する予定もないので、ざっとでいい。離れて見れば、綺麗に剃れているように見える程度にはなった。喉にある黒子もちゃんと見える。


 キッチンでマグカップに牛乳を注いだ。一気に飲み干して、また半分ほど注ぎ、ダイニングテーブルに移動する。テーブルの上には新聞紙と雑誌が三冊載っている。雑誌はもう読んだものだが、新聞は今朝ポストから取ってきたままだった。


 俺は仕方なく新聞を開く。テレビ欄をざっと確認し、社会面から次々に捲っていく。新聞の一面は、俺にとっては裏である。これは子どもの頃からの習慣だった。一面記事はニュースで見たものばかりだが、社会面には知らない話題が載っていて面白い。半分を過ぎたあたりに、株価の一覧が掲載されている。そこは全く見ずに飛ばした。昔嫌と言うほど見たので、もう見たくもない。


 四年前、社会人二年目だった俺は、勤めていた証券会社を辞めた。理由は、つまらなかったから。日々激変を繰り返す市場は確かに刺激的ではあった。経済の最先端にいる気分というのも感じることはできた。また、睡眠時間を削って勉強した結果、客の利益に繋がった時には、共に喜びを分かち合った。


 しかし、それも最初だけ。結局は自分とは関係のない企業の株が上がったり下がったりしているにすぎないと思うようになった。顧客が利益を得ても所詮他人の金だし、儲かると「もっと、もっと」と鼻息を荒げる人間や、逆に損失が出てしまった時にこちらが全部悪いかのように逆上する人間たちにも嫌気がさした。そうなると、もう面白さを感じることはできなくなった。


 俺は面白そうだから、という理由で証券会社を選択したが、同期たちの中には、その会社の名前に集まってきただけの奴が何人もいた。彼らも既に退職したらしい。その一方で、会社と、顧客の利益に貢献することに喜びを感じる者もいた。素直に感心したが、じゃあ俺もそうなろうとも、ならなければいけないとも思わなかった。


 だから辞めた。俺がそこにいる意味はもうなかった。


 PHM入ってからは、とにかく面白そうな仕事を探した。


 まずは、女性社長の秘書。三十代前半の美人で、起業したばかりだった。主に女性をターゲットにしたアプリ開発会社で、イケメンが家計簿の管理をしてくれるソフトなどを作っていた。他にも、様々なタイプの男子が料理に挑戦するゲームもあった。ちゃんと教えたり、応援したりしないと彼らは失敗してしまうのだが、わざと失敗させて悔しそうな顔を見るのが「萌え」らしい。


 その会社で、ついでにプログラミングも勉強できたので、次は短期のプログラマーとして働いた。金融機関で使うソフトを制作した。三日連続で徹夜したのはその時が初めてだ。おそらくもう二度と体験することはないだろう。


 次は、研修で接客に興味を持ち、極めようと思った。一度派遣を離れ、フレンチレストランでホール係のバイトをした。確か二か月くらいだったと思う。そうしているうちに、会社に高級レストランのホール責任者の求人依頼が入ってきた。早速面接と試験を受け、合格した。その店は半年後、接客が素晴らしいレストランとして星を獲得した。


 その次が資産家の執事。接客の相手が「ものすごく我儘な家族」に変わるくらいかと思っていたが、彼らの性格の悪さは尋常ではなかった。それでも何とか対応し、慕われ始めたあたりで辞めた。


 その次は、その資産家の友人だという大企業の社長の依頼だった。馬鹿息子の家庭教師である。これは面白そうだから、という理由ではなく、どうしてもと頼まれて引き受けたものだ。今までの中で最もつまらなく、最も酷い仕事だった。すぐに辞めたかったが、一応なぜできないのか、やる気がでないのかを納得させた上で、合格へのスケジュールを作るところまではやった。あとは彼がやるだけだから、俺は必要ない、と押し切った。


 そして、半年前に辞めたのが、一流女性芸能人のマネージャー。芸能界はそれなりに刺激的だったし、テレビで見るよりもそのおばさんは良い人だった。しかし、どうやら恋愛感情を抱かれてしまったらしく、それが次第に本気に変わり始めたのを感じて、辞めた。


 結果的に、最近の三つの仕事は、全て俺から辞めた形になった。もちろん、会社に許可を得てからの話だ。


 俺たちは、会社側が認める正当な理由があれば、仕事をいつでも辞めることができる。「人材」に無駄な仕事をさせないという基本理念により、会社が徹底的に守ってくれるのだ。そのことが、派遣先にもプレッシャーになる。あなたの所は、果たしてうちの「人材」を使う価値があるのでしょうか、という強気の姿勢だ。


 それから半年、俺は仕事をしていない。面白そうだから、と飛び込んでも、面白くないことがあることがわかってしまったのだ。最初は面白くても、次第に飽きることも。面白さという要素が無くなってしまえば、仕事など、ただの生活費を稼ぐためだけの行為だ。であれば、金に困っていなければ、仕事などしなくても良いことになる。


 昔、ニートという言葉が流行ったが、おそらく彼らは生活費に困っていなかったのだろうと思う。親が出してくれていたのか、莫大な資産を相続したのかは知らない。当時は俺もまだ子どもで、理解できずに反発を覚えたが、今となってはごく自然なことのように思える。たまたまメディアで取り上げた人が、働かない理由を得意気に語る品性の欠如した者であっただけで、実際は良識あるニートも大勢いるのではないだろうか。


 そんな発想が浮かんだ時、働く意味を失った。生活費が少なくなってきたら、また働けばいい。その時にまたすぐに働けるように、自己研鑽を積んでおけば何の問題もないではないか、という考えに至った。


 貯金はまだ一千万円以上残っている。俺は贅沢をしないので、この半年で使ったのはせいぜい二百万円程度。つまりは、あと二年くらい働かなくても困らない。


 新聞紙を畳み、椅子から立ち上がる。少し早いが昼食にしよう。


 俺は一通りの料理を、おそらく人並み以上には作ることができる。だが、彼女と別れて以来、もう一年近く凝った料理は作っていない。自分一人のために作る気になれないのだ。時間と手間をかけて食事を作る意味は、食べてくれる自分以外の誰かの存在があってこそのものだ。誰かのことを考え、誰かのためにつくる過程にこそ、価値があると思っている。だから俺一人が食べるならば、手間と時間をかける必要がない。栄養の偏りは、外食時に意識することで回避することが可能だ。


 湯を沸かし、パスタを茹でる。自分一人のために、七分間も鍋の前で見張っていなければならないことがもどかしい。だが、その後はソースを絡めるだけで完成すると思えば、やはり時間効率は良いと言えるだろう。いくつかストックしてあるソースの中から、今日はカルボナーラを選択した。たらこのソースが切れていたので買ってこなければならない。


 俺は再びテーブルに戻り、パスタを食べ始める。熱いうちが一番美味い。食べながら、午後の予定を考える。外は良い天気だし、やはりどこかへ出かけようか、などと考えてしまう。だが、今日は日曜日だ。どこも混んでいるに違いない。混雑による移動、または目的達成のために費やす時間の増加は、全くの無駄だ。やむを得ない場合を除き、週末は外出しないようにしている。この前のゴールデンウィークは、九日間のうちに二回、夜にスーパーへ買い物に行っただけである。


 食事を終え、食器を洗った。結局、俺はベッドに戻り、再び本を開く。この本は市立図書館で借りてきたものだ。今は、話題の本はほぼ全て図書館に置いてある時代だ。また、すぐに中古本も出回り、しかもネットで買える。定価で本を買うのが本当に馬鹿馬鹿しく思える。出版社の生き残りのために規制したほうが良いという話もあるが、規制したところで、売り上げがそれほど伸びるとも思えない。読むか読まないかが個人の自由である以上、じゃあ読まなくていいや、となる人が大多数だろう。むしろ、気軽に多くの本と出合える図書館や古本屋などは、全く本に触れないよりもその先の購買意欲に繋がる可能性がある。現に俺は図書館で借りて気に入った本や、中古で読んで好きになった作家の新作などは、新刊で買っている。


 現在は五冊の本をローテーションして読んでいる。自己啓発本、江戸文化中心の歴史研究書、芥川賞を受賞した小説、宇宙関係、そして、近世の偉人の伝記。特に時間や章ごとなどのルールは決めず、飽きたらすぐに次の本へ移るという形式を採用している。人によるだろうが、俺にはこの方法が合っていた。面白い本はすぐに読み終わるが、つまらない本はいつまでも残る。それでもなるべく最後まで読むようにしているが、期限までに読み終わらなかったらそれまでだ。執着するよりも他の本を読んだ方が良い。


 小説を置き、宇宙関係の本を開く。今日は意地でも外出はしないと決めた。だが、このまま本を読んでいれば、そのうち眠ってしまうだろう。それならば外に出て、何らかの生の刺激を求めたほうが、まだ有意義な時間が過ごせるかもしれない。近所を散歩しながら、江戸時代の風景を想像し、太陽を浴びて宇宙を感じ、現代社会を支える偉人の功績を探す。


 頭はすぐにそのような思考でいっぱいになり、読書はあまり進まなかった。


 いくら努力しても、働いていた時よりは、確実に時間の密度は薄い。それは認めている。俺が求めているのは、単なる契機なのかもしれない。

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