2
波多野に触発されたわけではないが、俺は求人情報を閲覧するために、会社を訪れた。あのつまらない講座を受けた日から、二週間が経過している。
波多野からは三日に一度は写真付きで連絡が入った。副支配人として充実した日々を送っているようだ。一緒に働いているスタッフたちの笑顔からも、彼の実力が伝わってくる。
受付には、奥に愛美が、手前には黒髪の女性がいた。
俺は三度に会った人には声をかけることにしている。決してナンパではない。コミュニケーションの訓練だ。その証拠に、ちゃんと男性にも同じようにしている。たまには。
「こんにちは。お疲れさまです」
「あ、こんにちは。お疲れさまです」黒髪の女性は、自然な笑顔で応対した。
「新しい受付の方ですか? 先日初めてお目にかかりました」
「あ、はい。最近転属になりました」はきはきとした答えだ。大人しそうだと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。俺の観察眼もまだまだだ。
「谷原と言います。失礼ですが、お名前は?」
この会社の社員はネームプレートの類を身に着けていない。情報は自ら手に入れろ、という方針らしい。
「あ、藤川と申します……」
「なによ谷原君、早速ナンパぁ?」愛美が横から口を挟む。
「違うよ。僕らは受付の方にはお世話になるからね。挨拶は当然のことでしょう」
「あたしの時はそんなのなかったけど」
「たまたまだよ。あ、そうそう、今日は閲覧に来たんだけど」
「お、ようやく働く気になったの?」
「いや、ただの暇つぶし」
「あっそう」愛美は半笑いで軽くため息をついた。
「あ、じゃあ私連絡します」そう言うと、藤川は奥にある電話機を手に取った。閲覧室のスタッフに連絡しているのだ。
少しして、彼女が戻ってくる。
「今、ちょうど空いてるそうです」
「ありがとう」
藤川に礼を言い、俺は受付を離れた。
エレベーターが来るのは時間がかかりそうだったので、すぐ横の非常階段で二階へと上がった。二階から六階は事務フロアである。二階は総務の事務室、資料室、倉庫、そして閲覧室がある。倉庫以外はほぼガラス張りになっていて、社員たちが働いている様子が見える。
閲覧室をノックして、中に入った。長方形の部屋で、あまり広くはない。部屋の中央にテーブルとソファが一組。その奥に事務員が座る机がある。今日の担当はと顔を向け、俺は固まった。
社長がいる。
「しゃ、社長……」
「やあ、谷原君。久しぶり」新道社長はよく通る低い声で言うと、じっと俺を見据えたまま微笑んだ。
「どうした? 座りたまえ」
俺は静かに深く呼吸した。なんとか自分を取り戻すと、ソファに近づき、社長に顔を向けた。
「どうして社長が?」目を見たまま、腰を下ろす。
「たまには『人材』が仕事を選ぶ様子を見たいと思ってね。最近始めたんだよ。と言っても月一回あるかないかで、ほんの一時間程度だ。今日はたまたま君が来てとてもラッキーだ」
こちらはアンラッキーだ。と心の中で呟きながら、テーブルの上の置かれた求人情報のファイルを開く。このような時も動じない訓練はしてきたつもりだが、やはりただの事務員よりはプレッシャーを感じる。これはとてもゆっくり見てはいられない。かと言って、よく見ていないと思われてもいけない。要は、いつものように自然に閲覧すればいいのだ。そう言い聞かせて、頁を捲っていく。
ここの求人は、大企業の極秘事項とも言える内容が含まれていることがある。無論、そうとわからないようにシートが作られているが、ネットでは公開されていないし、この部屋からの持ち出しなどは絶対に防がねばならない。故にこの部屋の入り口には棚があり、荷物はそこに置く決まりになっていた。しかも入室できるのは一人ずつと決められている。この時代にアナログなことこの上ないが、確実な方法ではある。さらに、監視役の職員が必ず付く。しかし、それが社長だとは。
これも試験の一環なのだろうか。
この会社の「人材」には、定期的に試験が課せられ、それに合格できなければ、即登録を解除される。そのため、俺たちは日々絶えず自分の能力向上に努めなければならない。しかも、その試験の内容は実に多様で、前回と同じということはほぼない。結果を言い渡される時に初めて、どんな試験だったのかが明かされることも多い。
半分ほど見た。元々が暇つぶし目的だっただけに、頁をめくる手が止まったのはまだ一件しかなかった。某大手出版社の求人である。新しいファッション雑誌を立ち上げるにあたり、そのプロジェクトリーダーを務めるというものだった。しかも、一年以内に業界ナンバーワンの売り上げを達成することが求められている。月給は四十万円と普通だが、ミッションを完遂すれば別途五百万円、部数によってはそれ以上が支給されるらしい。
社長には言えないが、俺はまだそれほど長期で働く気はない。もし仕事をするとしても、短期で面白そうなものがあればと思っている。それに、俺はそれほどファッションに興味はない。面白そうだが、とても完遂する自信はなかった。むしろ、波多野がやりたがりそうな仕事だ。今度会ったら教えて悔しがらせてやろう。
「少しいいかな」
俺がにやついていたからか、社長が声を発した。俺はファイルを閉じ、彼に向き直る。
「はい。何でしょう」
「どうして半年も働かないのかな、と思ってね」
「急いで働く理由がないからですね」俺は正直に答える。嘘をつく理由もまた、ない。「ここにきてから四年、実に色々な仕事をさせていただきましたが、そろそろじっくりと、将来のことも踏まえて選んでもいいかと思いまして」
「君は今いくつだ?」
「二十八です」
「うん。まあ、確かにそうかもしれないな。具体的なビジョンはあるのかな?」
「いいえ、まだ抽象的にしか。私はどちらかと言うと、一人よりもチームで目標に向かう仕事の方が性に合っているようです。企画や開発などが良いかな、と」
「なるほど」新道社長は机の上にあったミネラルウォーターのペットボトルを開封し、一気に半分程を飲んだ。「なら私にできるのは、応援することくらいだな」
「恐れ入ります」
「まあ、たまには講師の話も受けてやってくれ。前に君がやった講義が評判良かったらしい。未だにリクエストがあると事務員が嘆いていた。『人材』が望む講座を用意できないというのも、辛いものがあるんだろう」
「考えておきます」
二年ほど前に、俺は「ダメ社員の頭をかち割る方法」という講座を開いたことがある。確かになかなか受けが良かったと記憶しているが、今でも覚えている人間がいるとは驚きだ。だがもちろん、今は講座もやる気はない。
その後十五分ほどかけて、俺は残りの求人情報にも目を通したが、めぼしいものは無かった。社長に挨拶をして、閲覧室を出る。社長は最後に「次はどんな活躍をしてくれるか楽しみにしているよ」と言った。さっさと働けと言いたいのかもしれない。「人材」が働かないことには会社の収益も上がらないのだから、当然と言えば当然だ。
エレベーターに乗ると、一気に肩の力が抜けるのを感じた。自分で思っているよりも緊張していたらしい。
受付で、再び藤川に声をかけた。愛美は珍しく真面目な顔で別の人物の対応をしている。
「あ、お疲れさまでした」
「今日の閲覧担当、社長だった」
「しゃちょう?」藤川は首を傾げる。確かにいきなりでは意味不明だったかもしれない。
「え、社長ですか! 何してたんですか社長!?」藤川は少し大げさだと思うくらいに驚く。
「俺が閲覧するのを大人しく見張ってたよ。最近始めたらしい。趣味かな」
「はー。それはお疲れさまでした」藤川は口を「た」のまま開けっ放しでぼんやりと俺を見ている。こうして見るとなかなか可愛い。
「よっ、いいのあった?」つい数分前のキリっとした表情はどこへ行ったのか、接客を終えた愛美がへらへらとこちらへやってきた。
「いやー、ないねぇ」
「どんなのがいいのよ」
「珍しい仕事か、変わってる仕事か、面白そうな仕事。単発か短期で」
「うわー。やる気ないのばればれー。ねー、嫌ねー藤川ちゃん。この人冷やかしだよ」
急に振られ、藤川は目を瞬かせて何も言えなくなっている。冷やかしというのには少しカチンときたが、やる気がないのは確かにその通りだ。
「冷やかしは酷いな。条件を絞って前向きに探してるんだからさ。まあ、いいのあったら連絡してよ」
「じゃあまた」俺が手を上げて挨拶をすると、藤川は「おつかれさまでした」と丁寧に礼をしてくれる。愛美は「またねー」などと手を振っていた。
彼女たちはなぜ働いているのだろう。受付がやりたくてしかたないのだろうか。異動してきたばかりの藤川はともかく、愛美は少なくとも二年くらい前からあの場所にいる。ある「人材」に怒鳴られてしゅんとしているのを一度見たことがあるくらいで、他はいつも笑顔だった。どこかに俺が知らない、楽しさを感じるポイントがあるのだろうか。
だとすれば、一度経験してみたいものだ。と、心にもないことを思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます