ゆきとかし
赤尾 常文
1
この二時間は無駄になるかもしれない。そう思ったのは、講義が始まってから十分程が経過した頃だった。『がん治療最前線! 専門医が教える最新の治療法』と気合の入ったタイトルがつけられていたが、現れた講師はボソボソと話す、やる気が微塵も感じられない医師だった。
基本的に、席を立つのは自由である。それでも最後まで聴いた理由は、単に暇だったからだ。残り時間はあと三分。講師は最後のまとめに入っている。同じく暇つぶしで参加していた隣の波多野幸介は、もうすでにノートや筆記用具を片付け終えていた。
「というわけで、講義は以上です。何か質問は?」
この講師は質問を受け付ける気などない。だから時間ギリギリまで、だらだらと講義を続けたのだ。面倒くさい、と顔に書いてある気がする。現に、言った後も受講生である俺たちの方を見ていなかった。
仕方ないので、俺は「はい」と比較的大きな声と手を上げた。
講師がゆっくりと顔を上げる。目を細めて、口は半開き。睨み付けるように俺を見た。
「最近では、フランDグルコースという成分ががん細胞の成長抑制に効果があるという研究がなされているそうですが、先生はどのようにお考えですか。また、講義の中でもありました遺伝子治療ですが、トラブル事例も数多く挙げられていますし、裁判にもなっています。そのことについてのご意見も伺えればと思います。それと、これは単なる興味なのですが、先生は手術で多くの患者を救ってこられたかと思います。ですが、残念ながら助けられなかった患者さんもゼロではないはず。医者とは言え人間ですから、手に負えないこともあるでしょう。そして、人間らしく、メンタルにダメージを受けることもあるかと想像いたします。そのような場合に、いかにして立ち直るというか、再びメスを握るために、どのようにご自分の心を治療しているのでしょうか。比較するのは失礼ですが、我々も日々慣れない職場でベストを尽くさねばならず、それには強いメンタルが必要なのです。ぜひ参考までに教えていただければ幸いです。それから、最後に少しだけお話いただいた免疫細胞療法にはとても興味がありますので、詳しい説明をお願いいたします」
チャイムが鳴る。講師に回答する時間はない。俺は続けて畳みかける。
「お時間のようですので、回答はメールでお願いします」
講師の顔が引き攣るのを確認したのち、俺は速やかに帰り支度をし、講義室を後にした。廊下には、既に次の講座に参加する者たちが集まっている。この後は確か、初心者向けの接遇訓練だった。ということは、ほとんどが新人だろう。今年は比較的年齢層が低いようだ。大学新卒と思われる、若さが溢れている様子の者が何人もいる。
この階は廊下を挟んで左右に三つずつの大きさの違う部屋が配置されている。主に研修や講座に使われているフロアだ。壁も床も白を基調としたシンプルなデザインで統一されている。この時間は真っ直ぐに伸びた廊下に陽光が射し込み、まるで輝いて見える。「光の道」と呼ばれていた。未来への輝ける一歩を思わせるそのネーミングは気に入っていたが、先ほどの講義の内容では少々不安になる。
「おーい、晴(はる)ぅ」
光る廊下をしばらく進んだところで、波多野が追い付いてきた。同じタイミングで席を立ったはずだが、何をしていたのだろう。
彼の身長は俺よりも数センチ高いくらいだが、髪を五センチ程逆立たせているため、もっと大きく見える。全体的に細く、手足が長いため、どんな格好をしてもそれなりに似合う。今日はジーンズにピンクのパーカーという服装だった。俺には到底無理だが、彼が着るとオシャレに見える。
「お前が出て行った後、面白かったぞ。飯野っているじゃん。ロン毛でメガネの奴」
「ああ、あの講義企画した奴だろ」
「そうなの? まあそうか。医師免許持ってるのなんてあいつと……」波多野は目を閉じて考え始める。しかしそれは二秒ほどで終了した。「いや、そんなことはいいんだって。あの後、飯野が退席しようとする講師を引き止めてさ、いきなり付箋がいっぱい貼ってある分厚い参考書をドン、と机に置いたんだよ。そんで、その付箋が貼ってある箇所を質問し始めたんだ。あの講師、あからさまに嫌な顔して『病院に戻らないと』って繰り返すんだけど、飯野は全然聞いてないし。だんだんイライラしてきて、ついにブチ切れた」身振り手振りを交えた彼の説明には臨場感がある。
「なんて?」
俺たちはエレベーターの前で立ち止まる。このフロアは、八階建てビルの七階に位置する。篭は今、六階を通過したところだった。
「お前らなんかどうせ派遣じゃないかー! 俺は本物の医者だぞー、って!」
波多野が叫ぶと同時にエレベーターが開いた。
中にいた、おそらく善良な新人君たちが固まっている。女性が四人。白いスーツを着て目を丸くしているのは、確か接遇の講師だ。彼の話はともかく、この状況は実に面白い。
「あ、お騒がせしてすみません。どうぞ」
俺が道を開けると、女性たちは講師を先頭に、波多野の方を見ないようにして通過していった。
「な! 面白いだろ」
全く気にしている様子のない波多野に、俺は笑顔で頷く。
エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。八階のボタンはなく、七階からは降りることしかできない。
俺たちの他には誰も乗っていないのに、波多野はなぜか、エレベーターの中では喋らなかった。階層表示が変わっていくのを、ただ黙って見上げている。
「どうかしたのか?」俺もつられて見上げた。
「いや、好きなんだよ。これを見てるのが。さあ、途中で止まらずに目的の階まで行けるでしょうか、とかさ。逆に、混んでる場所なんかでは、全部のフロアをコンプリートできるでしょうか、何人乗せられるでしょうか、とか楽しむだろ?」
「いや……」
エントランスホールに到着した。床はダークグレーのタイル。壁面は黒と白が二面ずつ向かい合っている。柱と受付のカウンターはダークブラウンで、まるで高級ホテルのような内装だ。初めて来た者は本当にここで合っているのか、自動ドアが開いてから足を踏み入れるまでに少し時間がかかる。
ホールの奥にはラウンジスペースがあり、ソファとテーブルが十セットほど設置されている。奥にはフリードリンクのカウンターもあり、関係者はいつでも利用することができる。
俺は手近なソファに腰を下ろした。
「何か飲む?」波多野は鞄を向かいのソファに置く。
「あ、じゃあアイスコーヒーで。悪いな」
俺は鞄から用紙とペンを取り出し、テーブルに置いた。先ほどの講座の評価表である。簡単な項目ごとの点数を記入する欄と、フリースペースがある。
「ほいよ」戻ってきた波多野が、紙コップを差し出す。
「ありがとう」俺は受け取りざまに一口飲んだ。冷えていて心地が良い。「それにしても、酷い医者だったな」
「だろ? お前が本物で大丈夫かよ、って感じだよな。でもきっとあの講座はこれっきりだろうな。お前と飯野のダブルパンチだ」
「嫌がらせしたみたいに言うなよ。まあ、あの医者にも、あんな医者を寄越した病院にも、いい薬になるんじゃないの」
俺は順調に用紙を記入していく。フリースペースには、講師の問題点と質問した内容を記入した。こうすることで会社側が俺の質問を把握することになり、講師も無視することができなくなる。
「お前ホント真面目っていうか、いい性格だよな。興味のない講座の評価表も律儀に提出してさ。それとも何? 今度は医学に興味湧いたの?」
「いや、全然。暇つぶしだよ」
「まあ、俺もだけどな」波多野はニヤッと笑う。「正直、偶然お前がいたから良かったけど、一人だったら五分で退席してたね」
「退席してたほうが良かったかもしれないけどな」
「かもな……あ、それよりさ、エレベーターに乗ってた子、可愛かったよな」
例の講座に関する波多野の興味は尽きたらしい。話題がころころ変わるのが、この男の面白い所でもある。
「あの、一番右にいた子」
「うん、まあ確かに」
俺は記憶からなんとか女性の顔を引き出した。彼女が一番波多野に怯えていたように見えたが、それは言わないことにした。
「真ん中はちょっと大人しすぎるかな。一番左は普通。講師の安西さんはもちろん綺麗だけど、あの人四十代だからな……」
波多野は次々と一瞬すれ違っただけの女性について語る。これは彼の優れた能力の一つである。一度見ただけで顔を覚えてしまい、ほとんど忘れないという。名前や趣味なども、分かった時点でそれも瞬時に記憶してしまうのだ。本人に言わせれば、女性だけでなく男性のことも覚えてしまうし、その所為で人間に関すること以外の記憶力が平凡以下になっているから、あまりありがたい能力ではないらしい。
「で、どうすんの? まだ仕事しねえの?」波多野の話題がまた変わる。次は俺についてだった。「もう半年だろ? そろそろ飽きねえ?」
確かに、俺が前の職場を辞めたのは半年程前で、のんびりとした生活にも少し飽きてきていた。だが、どうにもやる気が出ないのである。自分の能力を高めることには興味があるが、それを使ってどうしたい、というイメージが湧いてこない。
「今朝いいのあったぞ。女社長の執事ってやつ。秘書じゃなくて執事ってあたりがいい感じだよな」
「うーん、秘書も執事もやったことあるからいい。まあ、まだ金はあるし、のんびり探すよ。お前は来週からホテルの……副支配人だっけ?」
「そうそう。お前ホテルマンはやったことないだろ? 羨ましい?」
「まあ、やってはみたいけど、羨ましくはないな。やるなら総支配人がいい」
「総支配人が派遣って、それ新しいな!」
波多野が笑う。彼の後ろにある大型モニターの映像が切り替わった。先ほどまでは講座や研修の予定が流れていたが、今始まったのはこの会社のCMだ。
「株式会社パーフェクト・ヒューマン・マテリアル。我々は究極の人材派遣を追及し、この社会と人間の未来を切り拓く会社です」
PHMというロゴをバックに、女性のアナウンスが流れる。その後、社長である新道慶一郎の姿が映し出された。真っ白な背景の中で、彼は不敵な笑みを浮かべている。カメラが少し引くと、そこは何もない真っ白な部屋であることが分かる。かなり大きな部屋だ。レザーチェアーに悠々と腰を沈め、長い足を組む彼だけが存在している。
「我々が育て、派遣する人材は、パーフェクトなプロフェッショナル集団です。彼らの義務は、単に与えられた仕事をこなすだけではなく、職場そのものに作用し、総合的にレベルアップさせることにあります。誰だったか、それを揶揄して『劇薬』と言った方がいました。うちの人材たちは一筋縄ではいきません。もちろん報酬もそれなりに支払っていただきます。だがそれだけの価値がある! 使いこなす自信がある方は、ぜひうちに求人をお寄せください」
言葉に対応し、カットが様々に切り替わった。これは企業向けのもので、非常にシンプルである。安っぽいテロップも電話番号も検索ワードもない。現在は放映されていないが、最初に流れた時はあまりにも情報が少ないと話題になり、血気盛んな企業からの問い合わせが殺到したらしい。
「くうう、カッコいいよな、社長!」
波多野の言う通り、新道社長自身も魅力的な人物だ。言動に説得力があり、真っ直ぐな眼差しは人の心を射抜く。彼が言うことならば実現できるような気になってくる。年齢はまだ四十半ばと聞いているが、すでに堂々たる貫禄を備えていた。
また、CM以外にもニュース番組のコメンテーターや、ドキュメンタリー番組に出演するなど、メディアへの露出も積極的だ。その整った顔立ちと、がっしりとして品よくバランスの取れた逞しい体つき、低音の渋い声に虜になっている女性も多いらしい。
評価表を書き終え、立ち上がった。
「俺は帰るけど、お前は?」
「俺はこの後デート。少し時間潰してく」波多野は頭の後ろで手を組んで言う。
「そうか、じゃあまたな」と片手を上げて別れを告げ、近くのゴミ箱に紙コップを捨てた後、受付へと向かう。
受付には二人の女性がいた。一人は顔見知りの菊池愛美。もう一人は初めて見る。いや、正確には講座が始まる前にも一度目にしているから、これで二度目だ。
「やあ、谷原君。研修どうだった?」近距離なのに、愛美は大きな声で声をかけてくる。
「これを見てもらえればわかるさ」俺は愛美に評価表を手渡した。
「ほうほう」愛美は用紙をさっと見て、カウンターに伏せる。「毎度、貴重なご意見をありがとうございまする」
彼女はゴルフが趣味らしく、まだ四月半ばなのにくっきりと日焼けしていた。服装も黒のポロシャツに白いスリムパンツと、今からでもそのままゴルフに行けそうな恰好である。
受付を後にする時に、名前を知らない女性にも軽く頭を下げた。真っ直ぐな黒い髪を後ろでまとめ、化粧っ気がない。服装にもこれと言って特徴はなかった。暗い色というわけではないのだが、なぜか地味だ。良く言えば、素朴とも表現できる。彼女は緊張した面持ちで、丁寧な礼を返してくれた。
自動ドアを抜けて外に出る。そのまま敷地内の駐車場に向かった。今日は新人向けの研修もあるためか、いつもより台数が多い。赤いアルファロメオが波多野の愛車だ。俺はあまり車に対する拘りはない。一番最初に訪問したスバルの店で、アイスブルーのインプレッサを店員に薦められるままに購入した。
エンジンをかける。時刻は三時半。これから本屋に寄って、カフェスペースでゆっくり試し読みをする。その後は気になっていたラーメン屋で夕食。牛乳などを買いにスーパーにも行かなければならない。
これからの予定を頭の中で整理し、速やかに車を発進させた。
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