第9話 第三次ヴァリダーナ会戦〈中〉


 ルミエルド聖暦六百四十五年四月二十三日 午前八時頃

 ヴァリダーナ回廊西端 帝国軍先鋒


「帝国旗を掲げよ! 教皇の犬どもに皇帝陛下の御威光を見せつけるのだ!」


 回廊の西端。小高い丘になっているその地に、翠のローブを纏った男たちが整然と隊列を成していた。そして時折放たれる怒号に合わせて編隊を組んで移動したり、グリューネヴルム帝室を表す〈帝冠を戴く双頭の翠鷲グリューン=ドッペルアドラー〉が描かれた赤地旗を数人の旗手が掲げては翻す。呆然とした瞳、機械的な動きを繰り返すだけの体躯。あたかも操り人形のように自らの意志無く命令通りに動く彼らの眼は、遥か前方で同じように隊列を組む聖職者然とした恰好の男たちに向けられている。

 距離にしておよそ二マイレmeile(約三・二キロ)。聖王国側は帝国側よりも数は多く、それに合わせて隊列もやや横長になっている。ルミエルド聖教会における下級聖職者がよく着用するアルバという白い貫頭衣で服装は統一されている。そして澄んだ瞳で、ミサなどでよく合唱される聖歌を高らかに歌い上げていた。

 対照的な両者の間に横たわる平原にはあちこちに焼け焦げたような跡があり、昨夜の大雨のせいか乾き切っていない水溜まりも散見される。

 帝国側に再び目を移すと、中央の隊列最後方には指揮官らしき男がいた。腕を組み、この時代では非常に高価な眼鏡を装着している。藍色の髪を長く伸ばし、眉をひそめた表情が神経質な印象を与える。年齢は四十代前半といったところか。暫くの間、彼は何かを待っているように貧乏ゆすりを繰り返していた。

 すると突然絶え間なく動いていた彼の脚が、止まる。

 代わりに微かな身震いを起こすと、細まっていた目が力強く開かれる。


「…………! ……皇帝陛下より開戦が宣告された。弾幕戦だんまくせんを開始する」


 男はローブから右腕を前に出して、周囲の兵に命令を下す。彼の手首には紫の手甲が嵌められている。ローブ、更に手甲。その服装は彼が魔導士であることを示す。

 命を受けた周囲の男たちは全体に細かく指示を与えていき、再び隊列は組み直されていく。おおよそ四百人が八つの集団に分けられ、更にそれぞれ約五十人の集団が三列横隊となる。各集団は三ケッテkette(約六十メートル)程の間隔を空けて着陣する。

 その様子を遠巻きから確認した聖王国側は聖歌の合唱を止めて、同じように戦闘準備を始めた。数は七百ほどで、やはり帝国側より横に薄く広がったような陣形になる。やがて両軍の配置転換が終了すると、平原には静寂としたざわめきが満ちる。

 東から吹き抜ける風。揺れる木々や草花の音。野鳥のさえずる声……。

 牧歌的な光景が広がる中で、二つの陣営が相対す。そして帝国側の第一列に並んだ男たちは右腕を突き出して、紅色の魔術陣を顕現させる。

 心地よい沈黙。しかしそれらは、男が頭上から九十度に振り下ろした右腕と。

 

「—―――放てッ!」


 グレンツェ魔導まどうはくエレンフリートEhrenfriedの指令によって、耳をつんざく沈黙へと変貌したのである。魔術陣から同時に発現した巨大な百余の炎弾。

 帝国軍第一列の魔導士、約百三十による先制弾である。轟音と共に打ち上がり、弧を描いて聖王国の陣営へと襲い掛かる。蒼白く煌めきを放ち、細長く尾を引いた魔導弾はまるで流星群の如き勢いである。しかしとうの魔導士たちは自らが撃ったそれらをまじまじと見つめることはなく、既に後列に下がっていた。第二列の魔導士たちに最前を譲る為である。戦いが始まっても、魔導士たちの表情はピクリとも動かない。

 さて、聖王国軍の戦列に次々と襲来する炎弾。勿論当たれば一たまりも無い。しかしその殆どは文字通りに着弾することは無いのであった。


たちよ、恐ることなかれ! デウスから賜りし聖なる衣を顕現させるのだ!」


 聖王国軍後方から飛ばされる檄に呼応し、第二列の魔導士たちは『おおーッ!』と叫びながら、自らの両腕を前面に押し出して空色の魔術陣を展開させる。炎弾群は聖王国魔導士の頭上三エーレelle(約二・七メートル)ほどでに阻まれて爆散した。

 空中に確かに展開されていた透明なそれは、外部からの攻撃に反応して初めて目に捉えることができる。聖王国軍の戦列全体を半球状に囲っている防御魔術陣だ。微かに青みを帯びた半透明の障壁が迫り来る火球を幾度も弾き飛ばすと、無数の火花が散った。生まれたすすが魔術障壁の外形に沿って地へ滑り落ち、煙は天へと立ち昇る。

 まさに黒の世界。

 だがそれを一瞬にして吹き飛ばすは第一列の魔導士たち。全員たがわぬ意匠の魔術陣を顕現させ、大風を以て全てを掻き消したのである。迅風魔術の一斉射だ。

 〈斜十字鍵に祝福されし聖宝珠サンスフェア=スュール=ソトワール〉と呼ばれる荘厳な紋章が刻まれた魔術陣を一様に浮かび上がらせるルミエルド聖教の尖兵たち。拓けた視界の先には、幾つか魔導弾の狙いが外れて着弾したことで凹み、焼け崩れた地表の露出面が見える。あれがそのまま直撃していたらどうなっていたことか。彼らは顔を幾ばくか引きつらせたが、反撃の機を逃すような愚者の集まりではない。

 着弾した直後は、粉塵と黒煙を利用して身軽な魔導士たちが移動する可能性がある。帝国軍も魔力の無駄撃ちは避けたい為、迂闊に二次攻撃はしてこない。故に、霧が晴れて移動していないことが分かった今この瞬間に聖王国軍が反撃できなければ、永遠に敵の攻撃を浴び続けることになる。初撃への対応が、全ての明暗を分ける。


「魔の力に魅入られし者達に負ける道理は無い! 聖火で焼き尽くすのだ!」


 聖王国軍第一列の魔導士隊はその声に追随するように、魔導弾を撃ち放った。帝国軍の攻撃とそう見た目は変わらない、投槍ジャベリンを思わせる蒼白い火球が打ち上がる。その数は帝国軍が放ったものの二倍近く。しかしその精度は拙劣と言わざるを得ないもので、帝国軍戦列の手前や左右に着弾するもの、上空を通り過ぎるもの、はたまた見当違いの方向に飛んでいくものも多い。とはいえ数の暴力と表現すれば良いのか、相当数が帝国軍の陣営に着弾する。そして敵軍がしたように、帝国軍第二列の魔導士たちも防御魔術陣を展開させてそれらを防ぐ。まるで水面にほんの少しだけミニウムの顔料を溶かしたような、そんな淡い紅色を帯びた大障壁が姿を現した。


「……流石に初撃で瓦解するほどやわではないか、聖導士とやらも」


 帝国軍先鋒、計四百の魔導士を束ねる指揮官エレンフリートはそう独り言ちた。

 彼は帝国西方・ヴェストアール地方に領地を持つグレンツェGrenze魔導伯爵である。帝国に三人しか存在しない魔導伯爵の一角を占める男で、後詰として参陣しているかつてのルードリンゲン魔導伯爵レイナードとも見知った仲である。

 彼の一言は帝国軍が最初に放ったほぼ最大出力の攻撃を凌ぎ切った聖王国軍を褒め称えると同時に、『聖導士』という言葉の響きを皮肉っているかのようだった。

 魔導士は、その名の通り『魔を導く兵士』を意味する。魔……すなわち、六百年以上前に突如として大陸を襲った〈魔族〉のことだ。

 〈魔族〉はそれまで大陸に存在していなかった魔術を人々にもたらした。もちろん未知の魔術に対して、大陸の人々は恐れ慄いた。しかし〈魔族〉との長き抗争の中で魔術に適性を持つ人々が現れ始め、またそれを専門に習得して軍事的奉仕を行う魔導士が誕生した。過去に存在した諸国家群、そして多大なる人命を代償として……。

 ルミエルド聖教を受容はしているものの、皇帝に対する崇拝と尚武の機運が強い帝国では、魔術は積極的に体系化し統御する対象となった。魔導伯爵軍を中心に精強な魔導士隊が組織され、重要な戦いには皇帝の命を受けて必ず動員されたのである。

 しかし聖王国においては聖教会が強い権勢を誇り、その宿敵たる〈魔族〉に由来する魔術は忌み嫌われた。特に禁忌魔術は異端認定されたのである。しかし軍事的には帝国の魔導士隊は常に脅威であり続け、それに対抗する為の魔導戦力は不可欠であった。そこで生み出されたのが『聖導士』という方便。扱う術は全て魔術に他ならないが、使い手は全員が教会や修道院付きの聖職者。故に彼らが扱う術は魔術などではなく『聖術』であるという言い訳が立つ。『魔を導く』ような帝国の忌々しい魔導士に対抗する、『聖を導く』ルミエルド聖教の聖導士……。戦意高揚には持ってこいの謳い文句であった。ただ、エレンフリートが皮肉るのはそれだけではない。


「前進しつつ徐々に弾幕の密度を増やせ! 二ファローン約四百メートルまで接近し続けろ!」


 土煙を吹き飛ばし、次弾を撃ち込んだところでエレンフリートの命が下る。帝国軍先鋒魔導士隊四百は一糸乱れぬ隊列移動を行いながら、じりじりと聖王国軍との距離を詰める。第一列が前面に防御魔術陣を展開させ、第二列は水平方向に魔導弾幕を形成し、第三列は仰角を付けた曲射を継続。曲射はかなり精密な目測が必要であり、かつ牽制の為のものであるから、放たれる間隔はまばらである。しかし直射の魔導弾幕は敵軍の魔導障壁を破砕する目的で形成され、とにかく大量の魔導弾をばら撒き続けることが必要になる。魔導障壁はある一定以上の応力を蓄積させることで破壊できるからだ。一定以上といっても感覚的なもので、一人の人間が保有している魔力量なども数値化できるようなものではない。どれだけの火力をどこに集中させれば効率的に防御魔術陣を突破できるか、それは魔導士各々の経験が大いに試されるところだ。


『くそ、なんて精密な魔導弾幕だ。これでは常に後手後手ではないか……!』

『後方から至急援軍を求む! このままでは押し切られるぞ!』


 聖王国魔導士が次々に浮かべる苦悶の表情は、彼らの経験を帝国魔導士のそれが上回っていることを示す。それも元より四百対七百の戦いなのだ、圧倒的に上回っていると言わざるを得ないだろう。最初の示威目的で放たれた最大火力の魔導弾を防げたのは、数的優位を生かした結果。戦いが長引けば不利になるのは聖王国の方だ。

 曲射される蒼白い炎弾とは異なり、魔導弾幕として各々が速射するのは翼を広げたような紅蓮の火球。両軍の間には半ば幻想的ですらある紅の世界が創造された。

 帝国軍魔導士は一分間に二十発、聖王国軍魔導士は一分間に十発ほど。帝国軍は二倍の戦力差を埋める連射速度であると共に、集中的に狙われている箇所では流水魔導弾を多用して防戦に努めるなどして適切に対処している。


「第二列は魔力の枯渇次第、第三列と速やかに交代せよ! 弾幕を絶やすな!」


 極めつけは巧みな配置転換だ。幾ら訓練された魔導士であろうとも無尽蔵に魔力を保有することなどあり得ない。一旦魔力切れを起こした場合、十分な休養を摂らなければ死に至ることもある。かといって魔導弾幕を途切れさせると敵軍を勢いづかせる可能性もある上、魔導障壁を破砕するのに更に時間がかかってしまう。だから速やかな魔導士の交代は必須である。帝国側はエレンフリートの一元的指揮の下で命令が統一されているが、聖王国側はそれぞれの集団が恣意的に動き、果ては勝手に後退する集団と後方から援軍に来た魔導士部隊が混じり合って混乱状態に陥っている。

 宗教的情熱など所詮はそんなものかとエレンフリートは胸中で独語した。統制無き熱狂など諸刃の剣でしか無いのだ。そんな彼の耳に更なる吉報が届く。


「—―――敵右翼二個集団並びに左翼一個集団、魔導障壁をうしなって瓦解!」


 既に両軍の距離は二ファローンfulornまで近づいており、エレンフリートの目視でも聖王国軍の様子がある程度明瞭に見える。彼の視界には、集中する魔導弾を相殺しきれず、硝子が弾け割れるように破砕された幾つかの防御魔術陣も映っていた。


「……逃げる敵を狙え! 聖職者など捕虜にしても金にならぬ!」


 非情な彼の命令にも、魔導士たちは眉一つ動かすことなく指令を遂行する。魔導弾が来なくなった、つまり撤退している敵がいる方に火球の一斉射をお見舞いする。火球同士の度重なる衝突で焼け焦げた平原を超えて、聖王国魔導士たちに次々と火球が直撃した。魔導士たちは呻きを漏らしながら火だるまになって地面を這い回り、やがてこと切れていく。すぐ近くで起こる惨劇に、もはや聖王国軍は戦意を喪失していった。今のところ魔導障壁を維持している部隊もそろそろ限界だったのだろう。魔力切れを起こした味方に肩を貸したり、最低限の防御魔術陣を展開しながら、一斉に後退していく。追撃できれば絶好の好機だが、エレンフリートはそのような命令は下さなかった。この弾幕戦の目標は既に達成されたからである。


「こちらの残存魔力もほぼ限界だろう。……敵軍撃破に重きを置き過ぎたか」


 エレンフリートは「ああも脆いと、つい撃破してしまいたくなる」と皮肉を漏らしながら笑った。帝国魔導士とは斯くあるべしとまで言われた男の、冷徹な微笑だ。

 掲揚され、風になびく数多の帝国旗。勝利を祝うときの声。

 魔力切れで疲労困憊になりながらも、それでも隊列を崩さぬ魔導士たち。

 眼下に広がる燎原の炎。それに巻き込まれ、灰燼かいじんと帰すは敵魔導士の屍。

 先鋒同士による弾幕戦は、帝国魔導士の圧倒的優越を示す形で幕を閉じた。


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