明朝。午前五時頃である。昨日の夕方から降り出した雨はすっかり止み、東の地平線から顔を出した太陽は広漠とした平原を明るく照らしている。この回廊に集結した者達の中で、最も早く今日という陽光を浴びたのは皇帝エルンストその人だろう。回廊西部から侵入しようとする聖王国軍の進路に蓋をするように構えられた回廊中央の

本陣、その東端にあるひと際豪奢な天幕で既に目を覚ましていた。

 普段通りの赤地のダルマティカを身に纏い、金色に光る冠が頭上に置かれている。天幕の中には皇帝とその従者が数人……。そして、一人の老爺がいた。

 そこにまた一人、とばりを上げる者あり。


「父上! 少し話したいことが……。……レイナードもおったのか」


 快活な声を伴って入ってきたのは、皇帝が持つ金髪碧眼をそっくりそのまま受け継いだような青年。緋色に染められたコットの上から白いマントを羽織っている。鼻筋が通って優美な彼の表情は決して晴れやかなものではなく、どうにも何か承服しかねる様子だった。その心のわだかまりをすぐにでも吐き出したかったのだろうが、父帝の傍にいた一つの純白がそれを押し留めた。


「ジギスムント様。お早いですな。初陣前の夜は、よく眠れましたか」


 青藍のローブを纏って、落ち着いた声音で語りかけるのは〈純白の賢者〉レイナード。先ほどまでエルンストと話し込んでいた様子だ。

 そして「それはおぬしの方もだろう」と応えるのはグリューネヴルム帝室の第一皇子、すなわち皇太子たる青年。〈ジギスムントSigismundフォンvonグリューネヴルムGrunewurm〉だ。

 皇帝とは別の天幕で目を覚ましたジギスムントだが、皇族の天幕はすぐ近辺同士であるから着くまではさほど時間を要しない。しかしレイナード率いるルードリンゲン魔導伯軍の野営地は本陣の西端。馬を脚にするにしても、天幕の間を駆けて三十分ほどは掛かる。朝早くから老体に鞭を打ってと続けて言いたくもなるが、ローブの上からも分かる老爺の筋肉質な体つきが青年の突き出そうになる口を閉ざす。

 代わりに、ジギスムントは自分に言い聞かせるように喉を鳴らした。


「初陣だからこそ、皇太子として十分な用意をするのが責務であろう」


 今年で二十一歳となる彼は、普段は帝都大学にて法学を専修する学生でもある。帝国法の整備を積極的に行い、国内の安寧を保っている偉大なる父帝に追いつくため、日夜努力を欠かさない好青年である。とはいえ線の細い学者肌というわけでは無い。

その努力は武術の研鑽にも向けられ、剣術・槍術・弓術・馬術などあらゆる戦闘技術に秀でている。そうは言っても戦陣は初めて、しかも父帝に帯同しての戦であるから、実際に敵と戦うことはないだろう。それでも彼の皇太子としての気高い意志は、ただ漠然と本陣で皇帝・副将の采配を見守ることを許さない。戦場の後方・安全地帯にあってなお何かを学び取ろうとする姿勢。その為に何でもやろうという覚悟。

 だからこそ彼は早朝から皇帝の天幕へと足を踏み入れたのだろう。その心意気を察してか、レイナードは皇太子のいる方、天幕の帳へと足を向ける。皇帝に何か話があるのなら自分が傍で聞いていては邪魔になるという計らいだ。


「立派なことです。……では、私はこれで」


「待て。おぬしにも聞いてほしい話なのだ、レイナード」

 

 しかし、今度は皇太子の方が〈純白の賢者〉を押し留める。レイナードは足を止め、その翡翠色の瞳を青年へとまっすぐ向けた。ジギスムントの碧眼との交錯が数秒間続いただろうか。すると老爺は「良いでしょう」と言って、再び皇帝の傍に戻った。天幕の中に差し込む陽が少し弱まったのを感じながら、青年は話を始める。


「昨日の夕刻、父上が宮廷伯爵バルドゥル殿と話しているのを見ました。聖王国軍の兵力が二万五千に満たないというのは真でしょうか? 回廊に到着する前までは、三万以上の軍勢が攻めて込んでくると誰もが噂し合っていたではありませぬか」


 ジギスムントは父帝を心配するかのような口調で言った。なるほどそういうことかと、皇帝と老爺は皇太子が言わんとすることを同時に悟る。すなわち。

 帝国軍の大将たるエルンスト帝と副将バルドゥルが聖王国軍の兵力を見誤っているかもしれない、その可能性についてだ。もっと言うなら、敵の兵力を見誤ることで帝国軍が敗北するかもしれないと危惧しているのだ。

 それも致し方なきこと。エルンスト率いる帝国騎士団、ルードリンゲン魔導伯軍、傭兵軍と共に青年が帝都を出立したのが五日前、四月十七日だ。その時に共有されていた聖王国軍の想定兵力は三万余り。それからザリエルン大公軍と合流した二日後の十九日には三万三千、ヴェストアール諸侯軍と合流した二十日には三万五千という風に、耳に入って来る聖王国軍の数はどんどん増えていった。ところが、回廊に到着した二十二日。つまり昨日、実際に前線部隊が偵察して判明した敵軍の数は二万三千余り。それでも帝国軍の二倍近くの兵力ではあるが、予想より遥かに少ない兵力であることは事実だ。偵察部隊による情報の方が欺瞞だと疑いたくなるのにも無理はない。


「……端的に申せば、回廊までの道中で帝国軍にもたらされた数々の情報は全て、エリアーノ商人が我々を欺く為に仕組んだなのです」


「なに……?」


 皇帝と少し目配せをした後にレイナードが放った一言は、ジギスムントを当惑させる。純白の老爺はそれに構わず、続けて言った。


「我ら帝国と都市同盟が長らく協調関係にあるのはご存じでしょう」


「……ああ。アルザーク=エリアーノ枢軸のことだな。だが、その都市同盟商人たちが我らを欺く為に謀略を……? どうにも信じられぬ」


 〈アルザークArsargエリアーノEriano枢軸すうじく〉。

 大陸北・中部の帝国と南部の都市同盟、この両輪を南北に貫く協調体制のことだ。そう、ルミエルド大陸という一つの荷車を動かす両輪。軍事的覇権を握るアルザーク帝国と経済的に大陸を支配するエリアーノ都市同盟。この二勢力である。

 レイナードは都市同盟という勢力の特徴に関連付けながら説明した。


「表向き協力しているように見せても、商人は己の利益の為に動くものです。聖王国側の交易商人から仕入れた兵力情報をかさ増しして特使が伝えれば、帝国軍は兵力を増強せざるを得ない。むろんり用なのは兵の頭数だけではありませぬ。武器に防具、馬匹ばひつ、水、兵糧、天幕、松明……。これらを帝国軍が買い入れることで最終的に得をするのは、半島北部の諸都市において物流を支配する商人達というわけです」


 レイナードの整然とした説明に、青年はいったん納得の色を見せる。しかしそれでもなお釈然としないことがあるように、彼は一つの疑問を父帝に投げかけた。引っかかっているのは、最初からエリアーノの兵力情報が嘘だと悟っていたかのような老爺の口ぶり。極めつけは、老爺の話を聞いている際の沈着とした父帝の様子だった。


「その企みが分かっていたのなら、何故父上はそれに乗せられるような真似を……」


 だが、そこまで口を動かしたところでジギスムントはあることに気が付く。あ、とエルンストからの返答を待つことも無しに自ら答えに辿り着いたのである。

 何故父帝はエリアーノ商人の謀略にまんまと乗せられ……否。

 彼らの謀略に乗っかり、レイナードやヴェストアール諸侯など回廊から遠く離れた地方の貴族をも招集して一万以上の軍勢をつくり上げたのか。

 青年に目線を合わせる皇帝の眼は、我が子を受け止める父性に満ちたものだった。

 皇太子ジギスムントはその瞳に応えるように言った。


「商人が情報を流しているのは帝国だけではない……。我が軍の数を見誤り、兵力を増強して会戦に臨む。そのことを見越した上での判断というわけですか」


 その答えが正解だと言うように、エルンストはその表情を緩めた。

 己の利益の為に動く商人にとっては、帝国も聖王国も変わりない商売相手。

 迎え撃つ帝国軍の兵力情報を誤って触れ込んだとしても、攻め手である聖王国軍の方は何としてでも戦略目標を達成しなくてはならないという使命感から、それらを簡単には無視できない。そうなれば、出兵に伴う物資調達を更に商人たちに依存する。

 帝国とは密接な関係を保ちながらも、聖王国との争いに際しては両勢力の間に立って、漁夫の利を得ようとする。商業主義を第一とする都市同盟らしいやり口だ。

 今回で三回目となる回廊での決戦だ。過去の会戦を振り返れば、今回もエリアーノが同じような手を打ってくるという確信が皇帝や老爺にはあったのだろう。

 レイナードは自力で真実を導き出した青年を称えながら言った。


「流石は皇太子殿下です。南下するにつれて肥大化した聖王国軍に対抗する為には、少なくとも一万以上の軍勢が必要。皇帝陛下やバルドゥル殿は都市同盟からの情報を耳に入れる前から既にそのことを悟り、此度こたびの出兵を起こしたのです。しかし三万五千と伝えられていた軍勢が、蓋を開けてみればまさか二万三千とは思いもしなかったようで、流石のバルドゥル殿も狼狽えておりましたなぁ」


 老爺は昨夜のことを思い出したのか「はっはっは」と笑いだした。対するジギスムントは一つ謎が解けて安堵こそすれ、老爺と共に笑うことはしなかった。神妙な面持ちを崩しておらず、まだ何か得心が行かないことがある様子だ。

 そのことを察してか、エルンストは我が子に声を掛ける。


「まだ開戦まで時間がある。聞き足りないことがあるのなら幾らでも申せ」


「……では、もう一つ。私はこの南の回廊に在ってさえ、山脈の向こう……帝国北方の守備が心配でなりませぬ。我らがこの回廊に兵力を集中させている間に、東方から騎士団が攻め入るのではないかと」


 青年は北の方……すなわち大陸一の大山脈〈ジュリアスGiulies山脈さんみゃく〉を超えた向こうを見据える。やや慎重が過ぎるような彼の指摘は、必ずしも未熟者による杞憂だと吐いて捨てられるようなものでは無かった。

 現在、このルミエルド大陸では二つの協調体制が拮抗している。

 一つはアルザーク=エリアーノ枢軸。もう一つは大陸西部・ヴェルランド聖王国と東部・リッセルスバッハ騎士団国による〈聖十字連合せいじゅうじれんごう〉。ルミエルド聖教を熱狂的に信奉する両勢力の君主同士によって結ばれた精神的紐帯ちゅうたいである。

 聖王国軍が出兵し、帝国と都市同盟の関心がヴァリダーナ回廊に集中している隙に、連合の片割れである騎士団国が東方から侵攻するかもしれない。ただでさえ帝国は西部・南部の諸侯軍、更に北方の雄たるルードリンゲン魔導伯軍すら招集したことで帝国北部の護りが薄くなっている。その可能性はけして軽んじることのできないものだ。しかしエルンストはきっぱりと言い放った。確固たる理由と共に。


「今、騎士団が兵を動かす恐れは無い。……その余裕も無いだろう。奴らは南のマジャルサーグ人と対峙している真っ最中なのだからな」


 大陸東部の過半を支配している騎士団国だが、南東部の盆地一帯では未だにルミエルド聖教を受容しない人々……いわゆる〈蛮族〉が抵抗を続けていた。

 それが〈マジャルサーグMagyarsag蛮族ばんぞく〉と呼ばれる騎馬遊牧民である。


「聖王国軍が出兵するとのしらせがあった直後、騎士団の第一軍団がオルデンスマールを発って南路を進んでいるという情報も耳に入った。恐らく今頃は蛮族と睨み合っているか……衝突にまで至っているか。どちらにせよ、帝国侵攻はあり得ぬ」


 リッセルスバッハ騎士団は聖都におわす教皇の命によって創設された騎士修道会だが、その会員は殆どがアルザーク人である。大陸東部において圧倒的少数派である彼らは割拠する蛮族を改宗させ、かつ支配する為に多数の植民都市を築いた。

 その一つが〈植民しょくみん聖都せいとオルデンスマールOrdensmar。大陸北東部の河畔に位置する騎士団の本拠地であり、堅牢な城塞都市だ。精強な五千の騎士修道会士を常駐させている。

 自信に満ちた皇帝の一言一言が、皇太子の心を覆う不安を少しずつ溶かしていく。

それは、言い方が落ち着いたものであるからだけではない。願望でも思い込みでも無い、十分な根拠を持った推測だからこそ青年も安心できるのだ。

 

「そう、ですか。……そのようなことは知らず、とんだ取り越し苦労だったようですね。時間を取らせて申し訳ありません、父上。それにレイナードも」


「良い。おぬしが不安を抱いたのは、我らが判断材料となる情報を伏せていたからでもある。遠く離れた騎士団の動きなど常に宮廷にいる人間しか知り得ぬこと、普段は

大学で学業に励んでいるおぬしの耳に入らないのはごく自然なことよ」


 頭を下げる我が子に、綻んだ笑みを見せるエルンスト。しかしすぐに表情を戻すと、またまっすぐとジギスムントを見つめる。ただの子ではない、皇太子としてのジギスムントを見ている。ただの父ではない、皇太子に対する皇帝としての視線。


「だが、おぬしがその情報を一番に手に入れる立場になった時……。つまりこの帝冠を受け継ぐ時が来た時、情報を生かすも殺すもおぬし次第。それだけは覚えておけ」


 皇帝は頭に戴く冠に軽く触れながら言った。

 アルザーク帝位継承のレガリア〈帝冠ていかん〉。四百年以上の歴史を持つ帝国を治めてきた十二人の皇帝が代々冠してきたものだ。しかしジギスムントがその冠に対して向ける視線は、格調高さへの畏敬だけを表しているのではない。単に形式的に継承される象徴としての冠ではない。豪奢な金箔と宝玉の飾りの中で、大いなる力がうごめく。


「はっ。肝に銘じておきます、父上」


 ジギスムントは溌溂はつらつとした声で応える。すると話が終わったことを感じ取って、レイナードが天幕の帳の方に何度も目線を送る。どうもそわそわとしている様子だ。


「では、私はこのあたりで。……は、私だけで対処いたしましょう」


「うむ。宜しく頼む」


 あの件? 天幕に訪れる前に、皇帝と老爺が話していたことだろうか。青年は首を傾げながらも、これ以上は二人の時間を奪えないと思って口をつぐむ。ジギスムントにできることは、帳を開けて出ていく老爺の背中を見送ることだけだった。




 およそ四時間後。

 昨夜の間に降った大雨による水溜まりも目立ったものは消え、太陽は雲一つない青空に昇り続けている。嵐の前触れのような静けさが、平原を覆っていた。

 そして、帝国軍本陣。そこには数十名の騎士や従者が険しい顔をして立っている。彼らの少し後方で佇んでいる男が三人。一人はジギスムント皇太子その人である。表情こそ周囲の者たちと同じく強張っていたが、心中はとても落ち着いていた。今まで胸騒ぎとなっていた懸案が消え去ったからである。敵軍の兵力が二万三千、対して味方は一万二千以下だというのに、皇太子は帝国軍の勝利を確信していた。

 青年は二人の男の背中を見つめている。すると、やけに背格好が大きく手足もひょろひょろと長い茶髪の男がもう一人に声を掛ける。

 

「グレンツェ魔導伯軍、シルヴィーツ辺境伯魔導軍。両魔導軍が配置につきました。いつでも攻撃を開始できます、皇帝陛下」


 その声の主は副将バルドゥル。甲冑を纏って、赤いマントを身に着けている。

 同様に戦支度を済ませた皇帝エルンストは「うむ」と首肯する。そして自らが被る帝冠をゆっくりと頭から離すと、デウスに捧げるかのように天高く掲げた。

 しばらく間を置いて、彼は静かに命令を下すのだ。


「—―――攻撃を、開始せよ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る