少年はやがて全長三ファローンfulorn(約六百メートル)の大通りを抜け、西市街方面の街道に進んだ。帝都を横断するマイニッツMainitz川の右岸を走る道だ。

 その沿道を小走りで数ケッテほど歩みを進めると振り返って、従士たちが跡を付けてきていないことを確認する。


「撒けたか。……ん?」


 少年は滲む額の汗を右人差し指の腹で拭う。すると、ふと触れた自分のマントに違和感を覚える。肩から伸びる純白のマントの下方に、黒い汚れが付いていた。恐らく大通りで人ごみに揉まれているうちに付いた土汚れだろう。それを払おうとしてマントの端をぐっと自分の顔の方まで持ち上げると、違和感の正体に気付く。


「探知魔術の魔術陣……。ゲオルクの仕業か」


 土汚れに見えるように偽装されているが、マントにべっとりと付いたくすんだくり色の奥には小さな魔術陣が展開しているのが見えた。少年が着ているコットにもあしらわれている翠鷲の紋章。グリューネヴルム皇族や彼らを護る帝国下級騎士ミニステリアーレが扱う魔術に見られる紋章だ。恐らく大通りでは追い付けないと悟った従士たちの片割れが魔術を放ったのだろう。微かな魔力の気配を感じ取ったからこそ気付けただけで、このまま歩いていたら少年の位置が完全に従士たちに筒抜けになっていた。まだ従士たちは大通りの人込みに苦心しているはず。今のうちに距離を取りたい。

 魔術陣に気付けたのは不幸中の幸いだが、とはいえ今の少年にはこの魔術陣をどうこうできる力は無い。……ならば。彼は一つ頼りにできるツテを当てにして再び前を向く。元から自分が行こうとしていた西市街のとある場所へと急ぐ。

 少年は上流階級らしからぬ先が尖っていない革靴で、敷石で舗装された河岸の通りを走り抜ける。菩提樹大通りと違って人通りはまばらで、まっすぐ進むことができる。右にはマイニッツ川の穏やかな流れが見え、カモが三羽ほど遊泳しているのが目に映った。左には庶民の暮らす石造りの家が並んでいる。赤色の三角屋根が見える限り遠くまで並ぶ、帝国の都市ならどこでも見られる光景だ。通りを行き交う人々は老若男女を問わずどこか愉快な様子だ。貴族、聖職者、騎士、商人、職人、農民や外来人も、それぞれ身の程を弁えながら、身の程にあった幸福を享受している。

 それは〈帝国による平和パクス=グリューナ〉によるもの。グリューネヴルム帝室が代々受け継ぎ、当代のアルザーク皇帝エルンストが現出した優れた治世によるものだ。

 ……だが。

 少年の姿を目に捉えた者は皆、途端に動きを硬直させ、その場に立ち尽くす。

 そして叫ぶのだ。


災厄さいやく皇子おうじ…………ッ!」


 少年〈ディアークDirk〉は立ち止まる。そしてその紅き眼光を、自身の忌々しき渾名あだなを吐き捨てた者の方へと向けた。そこにいたのは、犬面兜フンドスカルに付けた面頬甲バイザーを押し上げて話す帝国下級騎士の三人組。本来ならばグリューネヴルム帝室を護る責務のある帝国下級騎士が、彼に対しては憎悪や侮蔑、そして恐怖の色を隠そうとしない。

 

「なぁ、あの鷲の紋章って……」

「帝室の翠鷲紋よ! でも……」

「あいつ、皇族の癖にだぞ!?」

「金髪碧眼の帝室に生まれた、魔族の血を持つ偽皇子だ!」


 下級騎士の一人が叫んだ一言を聞いて、周囲の人々がディアークの方を見る。そしてコットにあしらわれた翠鷲の紋章から、ディアークが帝室の人間であることを認識する。それから彼が持つ〈魔族の黒髪カタストローフェ・シュヴァルツ〉を目の当たりにして、驚愕するのだ。

 この大陸では別に黒髪が珍しいわけではない。実際にディアークを取り囲むように集まった人々の中にも、黒髪を持つ者は何人もいる。しかし黒髪を持つその人が皇族であるとなると、話は別だ。グリューネヴルム帝室の男系に属する者たちは男女関係なく、全員が金髪碧眼を特徴として持つ。母が黒髪であろうが金髪であろうが、生まれてくる子供は皆が金色の髪をその身に宿して生まれてくるのだ。

 つまり、このディアークという少年は完全なる異端。それ故に、ルミエルド大陸をかつて襲ったといわれる〈魔族〉の生まれ変わりとされ、六歳の時には帝位継承権を剝奪された上、皇帝や妃・兄・姉妹と共に暮らしていた帝城からも追放された。そして十三歳になった今でも、一度ひとたび外に出れば人々から奇異の目に晒される。


「賢帝の顔に泥を塗る異端者め!」

「お願いだから、帝都に災いをもたらさないでちょうだい!」

「魔族は既に滅んだのだ! お前などに帝国の平和が壊せるものか!」

「災厄の皇子は此処ここから立ち去れ!」


 帝位継承権は喪失したとはいえ皇族としての身分は失っていない為、監視役としての従士団が付けられ、ディアークに直接危害を加えることは許されていない。だが、人々の憎悪が視線や陰口だけで終わるはずもない。少年の周りにできた群衆が口々に彼に対して思い思いの言葉を吐き捨てるように紡いだ。

 ディアークはそれらを振り払うように、前方の群衆を押し退けて走り去った。漆黒に染まった髪をそよ風になびかせて、彼は目的地をただひたすらに目指す。

 充血したかのように紅い瞳は、泣いているわけではなかった。なれど、ただ通りを歩くだけで侮蔑の言葉を浴びせられる彼の心が荒涼と共に在ることは事実であった。もっとも、齢十三の彼にとっては七年間も受け続けた仕打ちではあったが。

 ……ディアークはそれからまた幾度となく、背中越しに自らに向けられた憎悪や恐怖といったものを聞かなかったような振りをして、通りを走り抜けていった。

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