サリユクカコカラニジムヤミ(2)


             ※


 屍鬼の迎撃から戻ったふたりを見て、それがしは身構えた。

 階段路を下りて来た瞑目のイクサ……ケン、その背には明らかに意識を失い脱力したテンが背負われていたからだ。


 何があった?

 よもや屍鬼に不覚を取ったのか?


 思わず〝こだま〟を握る手に力を込める。が、先んじて動いたのは、座していた蒼髪の猫姫様だった。

 寸前まで横に居たはずが、気づけばテンのすぐ横に立って顔を覗き込んでいる。


 ……さて、いつ立ち上がり、どう動いたのやら。


 常の飄々ひょうひょうとしておる姿に忘れがちだが、やはり神仏の端くれ……空恐ろしいことだ。

 そんな恐るべき冥府の姫神が、二刀流のイクサに触れる姿はいかにも心配そうに、あたかもか弱き乙女のようだが……まあ、懸想相手の危機なれば道理ではあろう。


 惚れた腫れたは、人も神も変わらぬか……。


 あきれ混じりのそれがしを後目に、猫姫様は、ほぅ……と、深い安堵の息をこぼす。


「……良かった。寝てるだけみたいとね」


「は? 何だそれは?」


 大事ないのは結構だが、なぜ唐突に寝入っているのだ?


「われが、テン氏に肉体の名を告げたのだ」


 応じたケンのひと言。

 その不可解な内容に、思わず「何だ、それは?」と繰り返す。

 だが、猫姫様の方は得心した様子で頷くと、ゆるりと歩んで壁際の縁台に腰掛けた。


「ケンさん、こっちゃ運んでくれんね」


 己の膝をポンポンと叩いて呼び掛ける猫姫様に、ケンは察した様子で近寄ると、背負っていたテンの身体を縁台に横たえる。瞑目のままで良く動くものだ。

 ……が、どうにも気配が重苦しいのは、テンを案じているのか、それとも単純に疲れているのだろうか。


「ふふ、どうも」


 猫姫は微笑み、テンの頭を膝に乗せた。

 後はもういつも通り。甘ったるい夫婦の戯れのごとく、膝に寝かせたテンの頭を愛しげに撫でている。

 それは妻が夫にというよりは、母が子の眠りを慈しむような優しげなもので、なれば……まあ、姉上に似ても似つかぬというのは、確かに酷評であったかもしれぬな。


 ……で、だ。


「肉体の名を告げた……とは?」


 根本的な疑問を投げ掛ける。

 応じたのは、こちらに向き直った瞑目のイクサ。


「テン氏の御霊が宿るのは、かつてこの隠れ里に在した者の肉体だ」


 懐かしむよりも、しのぶような声音だった。


「伊佐良木光彦……来光の兄であり、われが現世に黄泉返って最初に出会うた生者。瞑目のわれに現世の理を説き、書を読み聞かせて、知識をくれた。共に廃墟を彷徨い、この地下の隠れ里を見出し、共に童たちを守っていた…………恩人、いや、歳は違えど友と呼ぶべきであろうな」


 テンの肉体は、鬼火で編み上げたものではなく、現世で死した者の遺体である……とは、それがしも一応聞いていた。が、然して興味も無かったので詳しくは質さなんだが……。


「言っておくが、恐らくテンは……」

「ああ、承知している。テン氏が光彦を殺めて肉体を奪ったなどとは思っておらぬ。そもそも、それでは順序が通らない」


 まあ、そうだ。

 仮にテンの黄泉返りが、光彦とやらを殺めた上でだとしても、手を下したのは黄泉返ったテンではなく、黄泉返らせた黒羽根の姫であろう。


 あの黒姫様なら、有り得なくは無い……か?


 彼の黒羽根は気高いが、それ以上に純心だ。想いの成就の為ならば手段を選ぶまい…………否、やはり、そこまでの非道を為すとは考え難い。

 何らかの理由で死した光彦とやらの遺体を拝借した。そういうことだとは思うが……。


「一応、ウチが殺めたわけでもない。証明は出来んけどね」

「同時に、殺めたという確証も無い。疑う理由も、その振る舞いを窺っていた限りは、無い。ならば、今は卿らを信じよう」


 潔く受け入れるケンだが、猜疑さいぎが皆無とは行くまい。

 いずれにせよ、彼にとっては友人にして恩人たる者の凶事だ。

 閉ざした眼差しがどこぞを向いているかはわからぬが、心穏やかではないのだろう。


 暫時、哀悼のままに口許を引き結んでいたケンだったが、やがて、深い息を吐き出すと、ゆるりとした足取りでこちらに寄り来て、ドカリと胡座あぐらをかいた。

 電車の車体に背を預けて、再度、深い吐息をひとつ。


「彼は……光彦は、気持ちの良い若者だった。この地獄にあって、幼い妹を守り、縁無き童たちを見捨てず、あまつさえ、われのような得体の知れぬ亡者にすら、手を差し伸べて来た」


 瞑目のイクサは訥々とつとつと語り出した。

 特段、それがしに聞かせようとしているわけではあるまい。ただ、胸裡に淀んだ何かに堪えかねて、言葉に吐き出しているのだろう。

 なれば、それがしは黙したまま。

 対するケンは頷くように微かにうつむき、淀みをこぼし続ける。


「こんな状況だ。無論、そこには、われのイクサとしての力を当てにする打算もあったろう。われは腐っても武門の徒、光彦の眼を借り、死人の不死身に頼っての無様なれど、どうにか屍鬼どもと渡り合うことが出来たからな」


 護衛としての戦力……用心棒として、このイクサは確かに頼れる存在だろう。その気配、所作からも、尋常ならぬ業前を持っているのは、それがしにもわかるし、現にコイツは屍鬼どもを撃退している。


 この男は、とてつもなく強い。


 もし、開眼して対峙したなら、果たしてそれがしは渡り合えるのか……正直、自信が無いほどだ。

 テンもそう思ったからこそ、その戦い振りに興味を持った。


 ならば────。


「光彦とやらは、貴様の瞑目を……?」


「彼には、われが盲目ではないことは告げた。それでも、このすくたれた在り様に、一切何も言わなんだ。それどころか、率先して代わりに眼を務めてくれた。戦いの時も、常の生活でもだ。無知なわれに、彼は多くの書を読み聞かせてくれた」


「……それは、殊勝なことだな」


「うむ、ただ怖くて眼が開けられぬという腑抜けなのに……な。彼はただの一度たりとも、われのすくたれ振りを責めも咎めもしなかった。われが眼を開けさえすれば、日々の手間も減り、ましてや、避け得た危機も多くあったというに……」


 話に聞く限り、光彦とやらは随分と好青年だったようだ。

 掛け値無しの善人……なれば、話で聞いているだけのそれがしは、どうにも勘繰ってしまう。

 外面はどうあれ、内面はどうだったかなどわからぬ。本心では、このイクサの瞑目を腹立たしく思っていたかも知れない。

 荒廃し、屍鬼あふれた現世を生き延びるため、この瞑目のイクサを利用する。その為の御機嫌取りと奉仕、処世術だったのではないか?


 だが、だとしてもだ。それをおくびにも出さず、献身に努めていたのは事実だろう。

 守るべきかなめのために、身命を尽くす。

 それは強き在り方だ。

 伊佐良木光彦が善人であれ、それを装う狡猾であれ、いずれにせよ敬意に値する。


 ふん、我ながら、ヒネクレているな……。


 それがしは自嘲を噛み締める。

 だが、座したケンが噛み締めた自嘲と自責は、それがしとは比べようも無く重かろう。実際、うつむけた顔はハッキリと苦悶に歪んでいた。


「光彦が行方知れずになったのは、ひと月程前、物資の調達に出向いた折のこと。調達は、ずっと彼の役目だった。瞑目したわれでは探索は務まらず、他は幼い童のみゆえな」


 光彦が外回り。ケンが隠れ家の守り。

 まあ、必然の役回りだろう。


「夜明けと共に出立し、日暮れの前に戻る……それが常だった。それが夜になっても戻らず。夜が明けても戻らず、二日経ち、三日経ち、やがて、堪えかねた来光が兄を探しに地上へ出てしまった」


 当然、ケンはそれを捨て置いたわけではあるまい。が、他の童たちを残して後を追うわけにもいかなかったのだろう。そもそも、瞑目のままでは追いようも無い。


 幸いにも、あの幼女は無事だった。

 屍鬼に襲われはしたものの、隻腕のイクサ……カイナによって救われ、生還出来たそうだ。

 以来、カイナはここに住み着き、光彦少年の役目を引き継いでいるということらしい。


「カイナ氏は、物資調達の折にはいつも来光を連れて出た。兄を案ずるあの娘が、またぞろ無茶をせぬように、配慮してくれておった」

「……さて、彼奴はそれほど深く考えておるようには見えぬが。単純に、懐いている幼子の願いを聞いているだけではないのか?」


 思わず口を挟めば、ケンは微かに浅い吐息を返す。笑声とも溜め息とも判じきれぬそれは、どうやら自嘲だったのだろう。


「われは、そのささやかな願いすら叶えられぬ不甲斐無き身よ。しかも、その理由は、すくたれゆえに眼を開けられぬという無様なものぞ」


 こぼれた呻きは、苦渋で濁っていた。

 確かに、忸怩じくじたる思いはあろう。

 眼が開いていれば、ケンはすぐに捜索に行けた。

 それ以前に、眼が開いていれば、ケン自身が調達役を務められた。


 だが、それは結果論だ。


 ケンは眼が開かぬからこそ、因果に囚われた。眼が開いていたなら、端から現世に黄泉返ること無く、光彦とやらに出会えもしなかったろう。


 ケン自身、それは百も承知であり、当に思い知っていよう。

 その上で、それだからこそ、彼は己の顔を、閉じた両眼を、そこに刻まれた〝因果の銘〟を掻きむしる。


「……約ひと月。外を探すカイナたちも、光彦の行方をつかむは能わず。なれば、もはや生きてはおるまいと、そう覚悟していた」


 それはそうだ。それが道理だ。

 屍鬼が蔓延はびこるこの現世。戦う力を持たぬ民草が、予定の刻限を超えて戻らぬのなら、無事であると思うは楽観が過ぎる。

 屍鬼に襲われたか、イクサに斬られたか、あるいは、他の生存者に狩られたか……いずれにせよ、生存の可能性は限り無く低いだろう。

 それが道理であると、武人であるこの瞑目のイクサはようく心得ているだろうし、現に心得ていただろう。


「生きてはいまい……そう覚悟していた」


 繰り返した呟きは、沈み込むように重かった。


「覚悟していたのだが……さて、いざその死を知った今、どうにも四肢から力が抜けるようなのは、いささか心外であるな」


 ケンは、手にした太刀の柄尻を己の額に当てる。

 一度目は、コツンと軽く……。

 繰り返した二度目は、ゴツン! と、重い音を響かせた。 


「……何とも不甲斐無い、すくたれ者よ……!」


 呻きはゆるりと重く、再度、柄尻を強く額に打ちつける。

 それは先刻に心奥の淀みを吐き出したのに同じく、いや、なお苛烈に、今度は頭の中に渦巻く何かを叩き出そうとでもするように、力強く、打ちつける。


「われが生きたのは戦乱の世。人の命なぞまさに徒花あだばなのごとくであった。黄泉返ってからも、それは変わらず。元より、益荒男が人の生き死にに心惑うなど、笑止千万なり」


 だが────。


「散々に敵を斬り捨てて笑い、見知らぬ者の死は哀れみひとつで流しておきながら、身近な者を……味方を失うのは今でも心奥に刺さりおる! 度し難きは人の心か、あるいは武士の道か……」


 命に貴賎なし……とは、いずこの仏の教えであったか?

 まさに命に貴賎を計り、貴きの為に身命を賭し、それ以外を斬り捨てるを是とするのが武士の道。


 そんな武士たちの〝我〟を押し通す術が〝戦〟であり、それが渦巻きせめぎ合うのが〝戦国乱世〟という地獄絵図だった。


 それがしは、そんな乱世が気に食わず、それを終わらせるのだと宣いながら、槍を振るい、数多を斬り捨て続けてきた。

 乱世を厭いながら、その乱世にドップリと染まっていた。

 挙げ句に、死に絶えてもなお……こうして戦いの因果に囚われている。


 己の右手を睨む。

 甲に刻まれた〝焔〟の銘。

 散り際を弁えず、無様にくすぶり続ける無念の炎よ。


 座した瞑目のイクサが刻んだ〝見〟という銘が、いかなる因果なのかは知らぬ。知らぬが、それでも……。


「……ああ、まっこと、われは〝すくたれ者〟である……」


 項垂れた瞑目のイクサ。

 そのキツく閉ざされたまぶたから、雫がこぼれて落ちていた。


 涙だった。


 イクサは死人。痛みを忘れ、血流を無くし、温もりも失った。

 ……それでも、どうやら人の情けとやらは、まだ残っているようだ。

 まあ、それも道理だ。

 己の無力を呪い、満たされるぬ最期を嘆き、無念に駆られて因果に囚われたのが我ら〝ヨモツイクサ〟なのだから……。


 まったくもって、無様なこと…………だが、それでもだ。


「血も涙も無いよりは、上等というものだ」


 それがしは、思ったままに呟いた。

 死人となっても、まだ、己や誰かのために流せる何かがある。

 それは、武士として無様であっても、人としては確かな救いであろう。


「度し難い……などということはない」


 そう思う。

 だから、正直に断じた。


「……左様……か……」


 ケンは静かに頷いた。

 こぼれた涙を拭おうとはせず、ただ、さらに強くまぶたを閉ざそうと力むように、握った柄尻を額に押しつける。


「……左様……だな。友の死に涙する。確かにそれは、人の情けだ……何ら恥じ入ることは無い」


 ケンは噛み締めるように呟き、吐息をこぼす。

 それは先刻までの弱々しい溜め息とは違う。込み上げていた何かをねじ伏せるような、力強い息吹だった。


「……お心遣い、かたじけない……」

「……あぁ、いや……」


 居住まいを正して座礼してくるケンに、それがしは何とも応じることが出来ずに、それこそ無様に口籠もってしまった。


 ガラにも無い真似をした。


 所在無く頭を掻きながら、ふと見れば、縁台に座した猫姫が笑顔でこちらを見ていた。

 いつもの揶揄やゆするような笑みではない。穏やかな、それこそ、母が子を褒めるような、どこか誇らしげな微笑であった。


 それは、遠い記憶の彼方の微笑みと確かに重なって────。


 ……だから、なぜ、それがしは姉上を思い出す……?


 似ても似つかぬ……というのは酷評であるが、それでも、姉上とあの猫姫では大きな差異がある。容姿も立ち居振る舞いも全然違う。そもそも、姉上はあのように男に媚びはしない。あの猫姫が貞淑ならずとは言わないが、姉上の貞淑さには比べようも無い。


 やはり、似ているかというなら、全然似てはいないのだ。


 で、あるのに、こうも姉上の面影を追ってしまうのは…………それがし自身が、姉上を恋しがっておるということなのか……?


 度し難いというなら、これこそ度し難いことだ。


 それがしは意識して呼気を吐きつつ、瞑目のイクサに倣って、手にした長銃身を己の額に打ちつける。


 ゴンッ! と、響いた打撃音。


 死人ゆえ痛みは無いが、思いの外に強い衝撃だった。が、なればこそ腑抜けた思考を少しは叩き直せたような、そんな気がしたのだった。


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