第3章 去リ逝ク過去カラ滲ム闇

サリユクカコカラニジムヤミ(1)


 魂の記憶と、肉体の記憶が、重なりブレる。

 認識が混ざり合い、主観と客観が交錯する。


 自分は彼なのか? 彼は自分なのか?


 わき上がる回想は衝動にも似て止めどなく、怒濤のように脳裏を埋め尽くして、瞬く間に意識を染め上げた。

 痛みなのか衝撃なのかわからない感覚が疼いている。

 視界は激しく弾け続けていて、眩しいのか暗いのかわからない。

 鼓膜をつんざくような耳鳴りは、響く轟音ゆえか、あるいはあまりの無音に苛まれているゆえか────。


 彼が……オレが……どこに居て、どうなっているのかも判じきれぬ明滅の渦に翻弄されながら…………。


 ただ、繋いだ小さな手だけは、絶対に放すものかと、身命に刻んだ。


 世界は変わり果てていた。


 世界は朽ち果てていた。


 世界には見知らぬ何かがうごめき、見知った全てをむしばんでいた。


 瓦礫の中を、ひたすら逃げる。


 繋いだ手の温もりをよすがに、生き延びる。


 牙と爪で引き裂く何かが居た。


 鉛と鋼で猛り狂う誰かが居た。


 空を覆うように燃え上がる朱い炎と、渦巻き淀む蒼い炎を見た。


 地を揺るがすようなたくさんの叫声を聞いた。


 安らかに眠るのではない……苦悶と絶望に歪んだ終わりを、たくさん、たくさん、見ることになった。


 現実感が無かった。


 そのようなものが世にあることを知らないわけもなく、歴史の中でそれはどこにでも繰り返されていて、今も同じくどこかで確かに起きていた事なのかも知れないけれど…………。


 それが触れ合うほどの身近に、我が身に降り掛かるなんて……。


 既知から逸脱し過ぎた阿鼻叫喚は、まるで絵空事のように遠く、現実感を欠いたまま…………それでも、確かに心身を刻み、苛み続けていた。


 地獄だった。


 世界は、確かに地獄になっていた。


 それでも、どうやらオレは生きていて、そして、この手には大切な誰かの小さな温もりがあった。


 ならば────。


 その温もりを守り抜くのが士道だと、出会った瞑目めいもく益荒男ますらおは頷いた。


 だから────。


 オレは、地獄を歩いた。

 くずおれずに歩いた。

 この手に繋いだ小さな温もりを守るために、歩いた。

 やがて、地獄に取り残された他の温もりたちに出会い。互いに手を伸ばし合い、ともに歩いた。


 出会ったのは温もりばかりではない。

 凍てつくような憎悪にも会った。

 焼け爛れた悪意にい、燃え上がる憤怒にもった。


 世界は歪み、人も歪んだ。

 そんな歪みと対峙し、残された新たな温もりに触れ、時に失いながら、そうして、オレたちは確かに生き延びていた。


 それは平穏とは程遠く……。

 それでも、守り抜くべき新たな日常だった。


 傍らに並ぶ小さな温もり。

 残された最愛の家族。

 新たに繋いだ温もりもあたたかいけれど、オレにとっては、その小さな温もりこそが変わらずに、一番大切な守るべきよすがだった。

 その温もりのために、オレは生き延びていた。

 その温もりがあるから、オレはいかなる辛苦にも耐えられた。


 だから────。


 地獄に臨まねばならぬ時、その温もりを伴うことは避けたかった。

 守るべきものを、危険にさらすわけにはいかない。

 生きるため、生かすため、オレは幾度も地獄を彷徨さまよわねばならず。その度に、繋いだ手を放さねばならなかった。


 温もりの守りを、瞑目の益荒男に頼んでの探索行。


 そうして、あの日のオレはひとり、地獄を歩んでいた。


 日々の糧は常に不足していた。掻き集めるために彷徨うしかなかった。


 いつものことだった。


 いつもしていることだった。


 お天道様が輝いている内は、地獄の鬼はうろつかぬ。ならばそう危険もあるまいと思っていた。


 油断していた。

 忘れていたのだ。


 鬼は、地獄から来たものばかりではないということを…………。


 愚かなオレが最後に垣間見たのは、黒い人影。


 禍々しくも漆黒を纏い、長い黒髪をたなびかせた、美しい影。


 美しい人だった。


 美しい貌、美しい瞳、美しい声、美しい仕種……全てがあまりにも美しく在り過ぎて────。


 何だかとても、背筋が凍った。


 オレは自分は……こんなに美しい闇を見たことがないこの美しい闇を知っている


 美しいその人は、美しい白貌を艶やかに歪めて微笑んだ。


『……土は土に、灰は灰に、塵は塵に、在りし場所より、御許へ還ろう。我らの祈りは、必ずや〝天〟へと届く……』


 美しいその人の右手には、美しく煌めく白金の一刀。薄闇の中、それは夜空に煌めく三日月のように、淡く澄み渡る。


『……さあ、喜びを、分かち合おう……』


 囁きは優しく、溶け込むように静かに響く。

 閃いた月光が、オレの……自分の……心の臓を貫いた。


 鼓動が激しく脈打ち、たぎった血潮が喉元に迫り上がる。

 激痛という衝撃が、深紅の塊になって口からこぼれ出る。


 弾ける明滅。


 鳴り響く静寂。


 寸前まで足掻き悶えていた血流と鼓動が、力尽き衰えていく。


 大きく仰け反るように倒れ込みながら、オレは、世界の全てが急速に冷えて凍りついていくのを感じていた。


 ────重なりブレていた認識の片面が欠け落ちた────。


 の過去はドロリと混ざり合い、現在のが少しずつ形を取り戻して行く……。


 死に逝く彼の記憶……。

 この肉体の記憶……。

 血肉に刻まれた過去の残滓に翻弄されながら、自分は……天のイクサは抱いた疑念を振り絞った。


 物資や生存者を探して廃墟を探索していた少年、伊佐良木いさらぎ光彦みつひこ……。


 彼は、この肉体のかつての主は、見知らぬ何者かに出会い、殺された。


 しかし、新たに肉体に宿った自分は知っている。


 宮本みやもと伊織いおり貞次さだつぐは、この漆黒纏う誰かを知っているのだ!


 だが…………!


 自分はこの闇色を知っているのに……思い出せない!


 回想は、記憶と認識の狭間にたゆたうもやのような何かに阻害され、茫洋ぼうようと霞んでいる。

 思い出そうとすればするほどに、その靄は濃く、深く、淀む。


 それはまるで、思い出すことを自我が拒んでいるかのように……


〝……オヌシは、誰なのだ……ッ!?〟


 限りなく自問に近い詰問。

 自分は渦巻く困惑と猜疑さいぎに苛まれながら、そのを睨み続けていた。



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