コトワリヲムシバムコトワリヲ(6)
連想して思い出したのは、かつての記憶。
父、宮本武蔵が、半ば戯れに試みたことがある稽古の光景だ。
秋の森林、絶え間なく舞い落ちる木の葉を次々と斬り払う。
無数に落ちる葉が風に踊り、無軌道不規則に舞い散っているのを、ひたすらに斬り続ける。
当然、全てを斬れるわけもない。たたでさえ風に舞う木の葉は、薙ぎ払う剣風にさらに乱れ暴れ、まともに刃を当てることすら困難。それでも、一枚でも多くを斬り捨てる為に、太刀筋を
ひたすらに、ただ、ひたすらに、周囲に刃を走らせる。あたかも斬撃で旋風を巻き起こすかのように────。
旋風剣。
なるほど、確かに、その名のままであると、自分は今まさに眼前で吹き荒れる光景に感歎を抱いた。
無数の斬光が、幾何学模様を描いて空を裂く。
そこに飛びかかってきた屍鬼。描かれた斬撃の一閃が、その肩口を斬り裂いた。
瞬間、太刀が腰溜めに引き戻される。
切っ先を前にした刺突の構え。放たれた片手平突きが、屍鬼の心臓を貫いた。
踏み込んだ体勢を直ぐに整える瞑目のイクサ。蒼い鬼火を噴いた屍鬼が燃え尽きるより先に、再び斬光の幾何学模様が描かれる。
舞い散る木の葉を斬り続けるような、迅速にして鋭利な剣閃。
しかして、当然ながら、この場に木の葉など舞ってはいない。振り放たれる刃は鋭くも、ひたすらに空を裂くのみ。
次に迫る屍鬼との間合いは約五メートル。
ケン殿は踏み込むことなく留まって、斬撃を振るい続けている。
刃が届くわけもない。それでもなお、存在しない敵に挑むように、何も居ない空間を引き裂き走る剣閃。
刃は通路の四隅を斬り裂き、眼前を薙ぎ払い、返すように斜めに斬り上げたところで、ようやく間合いに飛び込んできた屍鬼を捉えた。
鋭い斬撃音。直後に連なった刺突音。
線から点へ、一瞬で切り替わった太刀筋が、屍鬼の心臓を突き貫いて討ち倒し、蒼い鬼火が噴き上がる。
何が起きている?
それと同時に、ケン殿は左手に握った鞘を、己が左方に突き出す。
ジグザグの斬撃は空振り、鞘もまた左の壁と床を打ちつけたのみ。
一見して無意味な挙動。
だが、瞑目のイクサは一向に構う風もなく、右手の太刀を振りかぶり、左手の鞘で中空を薙ぎ払う。
そこに飛び掛かってきた狗号屍鬼。
払った鞘がその横面を打ち据え、引き戻された太刀筋が瞬時に走り、狗号屍鬼の胴体を突き上げた。
深々と貫いた刃は、しかし、心の臓をわずかに逸れている。ならば、狗号はその殺意の勢いを留めることなく牙を剥き、ケン殿の肩口に喰らいついてきた。
鋭利な牙が左肩に突き刺さる。
ケン殿はわずかにも怯まず、左手に握った鞘を狗号と自身の間にねじ入れる。突き刺したままの太刀の柄に、ねじ込んだ鞘を交差させ、大きく体をひねった。
喰らいつく狗号を背負い投げるような挙動。交差した鞘が
狗号の身体が、鬼火になって舞い上がる。
ケン殿は床を踏み締め向き直り、再び左手をひるがえした。
カカンッ! と響いたのは、鞘が通路左側の壁と床を立て続けに打った音。ケン殿は摺り足でやや右へ移動、通路中央にて右半身に構えると、改めて右手の太刀を大きく振りかぶった。
そこに迫る新たな屍鬼。
今度は一体ではない。二体が左右に並んで同時に……いや、その後方からも続々と迫っている。
群れを為した波状攻撃。
彼ほどの武人なれば、瞑目のままでも、迫る無数の気配は感じ取っているだろう。が、瞑目していてはその攻撃軌道はもちろん、数も位置取りも捉え切れまい。
だからなのだろう。おそらくは、それを瞑目のままに捉えるために、右手の太刀を速く、広く、振り放つ。
斬撃が空を裂く。袈裟懸けに一閃、水平に一閃、そこから斜めに斬り上げた三連目の剣閃が、右から迫る屍鬼の腕を、そして正面の屍鬼の顔面をまとめて斬り裂いた。
ケン殿の両手が瞬に閃く。
同時に放たれた左右の刺突。太刀が右方の屍鬼の心臓を穿ち、鞘が正面の屍鬼の胸を打突して押し留める。
重ねて閃いた右手、連に突き出された切っ先が、引き戻された鞘と入れ替わりに屍鬼の胸を貫いた。
眼にもとまらぬ二連突き……否、鞘も入れれば実質三連だ。
牽制ではない殺撃としての刺突を、高速で放つ。まるで講談の一幕だ。
そもそも、太刀造りとは斬撃特化の仕様である。ただの刺突ですら為すのは難い。にもかかわらず、この瞑目のイクサの刺突は精妙にして神速。それはあの
馬鹿げている……!
貫かれ蒼く燃え尽きる二体の屍鬼。
その蒼炎を突き抜けて迫る、さらなる屍鬼ども。
しかし、瞑目のイクサは瞑目のままに、右手の刃を振り放つ。
速く、広く、斬撃を走らせる。
幅約四メートル、高さ約三メートルの地下通路。その中央に陣取り、左右上下、そして前方の全てを、的確に迅速に閃き走る太刀筋は、さながら空間に張り巡らされた斬撃の結界だ。
ならばそれは、敵を
敵を捉えるための斬撃。
敵が刃の結界に触れたなら、その斬撃越しに位置取りを瞬時に定めて、斃すために狙い撃つ。
これは、そういう戦法であり、剣技であるのだろう。
時折振り放たれる鞘打ち。
最初は、床や壁を打つ音の反響で敵の位置を読んでいるのかとも思ったが、違う。あれは太刀筋の及ばぬ死角を補うと同時に、己の立ち位置や向いている方向のズレを確認するための行為だ。
閃く斬光は絶え間なく、蒼い炎が次々に燃え上がる。
相手の姿はもちろん、周囲の状況も視認出来ない中、それでも迫る屍鬼たちを着実に斬り伏せ続ける瞑目のイクサ。
武術には〝型〟という概念がある。
相手を想定し、状況や戦況を仮定し、それに対する立ち回りの手順や流れを形式化したもの、それが〝型〟だ。
将棋の定石にも似た概念。攻防の予定調和……身もフタも無く言い切れば、舞踊の〝振り付け〟と同じだ。
このように武器を持ち、こうして構え、こう足を運び、こうやって打ち込み、そこからこう返す…………あらかじめ決まった動作を反復し、身体に覚え込ませることで、考え悩むことなく、それぞれの局面にて最善の挙動で動けるように練り上げるための術理。
次にどう動くべきか? どう避けるべきか? どう打ち込むか?
あらかじめ決まっているなら、思考の過程を簡略し、迷いを消せる。挙動の無駄を殺せる。あらかじめ決まっているなら、その動きの流れを修練できる。
無論、それは、連続した動きをただ形式化したものではない。
この構えの相手には、こう打ち込めば、こう動くので、こう返す。あるいはこう動かれたなら、別の〝型〟に移行する……というように、複数の〝型〟を、どの手順で、どのように繋げるかが追求されている。
詰まるところ武術とは〝型〟の構成と派生、その組み合わせであるとも言えよう。
可能な限り少ない手順で、いかに多くの、そして、有効な選択肢を取り得るか……。単純性と汎用性に秀でた術理、それが優れた〝型〟であり、それを体系化したものが〝流派〟というものだ。
なれば、極論的に言って、もしも究極の〝型〟というものがあったならば、それを行使するだけで戦いに勝利できるだろう。
あらかじめ最善の挙動で、最高の位置取りで、最上の結果にたどり着く流れが出来上がっているのだ。ならば、戦いは始まった時点で勝利しているも同義。敵がどう動こうが関係ない。
それこそ、見えていようが見えていまいが関係無いだろう。
詰め将棋のように相手を追い込み、叩き伏せることが可能だろう。
もちろん、極論だ。
実際には万能の型など存在しない。
実戦はそれこそ型に
だからこそ世には多くの〝型〟があり、〝流派〟がある。
だが、もしも戦いの条件を限り無く狭く、限定化して絞り込むことが出来るなら、それに合わせた〝型〟という勝利の方程式は、必勝に近い水準で成立し得るだろう。
眼の前に繰り広げられている光景は、恐らくはそうして研ぎ澄まされたひとつの極みであろうと思われた。
通路の幅、天井の高さ、音の反響、振るう太刀の長さ、鞘の長さ、己の四肢の長さ、踏み込む距離、斬り込む距離…………そんな数多の情報を統計し、試行錯誤し、実践錬磨した果ての絶対防衛方程式。
この場所で、彼が、あの刀を持って屍鬼を迎え撃つ。
その為だけに先鋭特化した〝型〟────。
一本道で、飛び道具を持たぬ相手が、真っ直ぐに本能で挑み掛かって来るからこそ成立する戦法であり戦術。
理屈は、実に単純で明確だ。
だが、実行するのは口で言うほど易いものではない。
振るう全ての斬撃に必殺の剣気を込め、その上で、刃が敵を裂こうが打とうが、空振りになろうが、必ず絶対に振り抜いて、決して壁や床や天井に当てることなく、その上でなお滞りなく、絶え間なく、斬撃を振り放ち続けなければならないのだ。
ハッキリ言って、無茶としか言いようがない。
ただでさえ、絶え間なく斬撃を放ち続けるという無茶。さらに、敵が見えない以上は斬り込む角度を選べず、刃筋の立てようがないという無茶。
実際、ケン殿は幾度も太刀筋がブレ、立ち位置がズレ、敵を斬り抜き切れず、仕留め損ね、太刀筋は滞っていた。
流麗とはほど遠い立ち回り。
だが、だからこそ凄まじい。
この瞑目のイクサは、その上でなお、鞘打ちや体術で間合いを調節し、刃を振り抜き、体勢を整えて、幾度でも仕切り直している。
通路に怒号が響き渡った。
迫る巨躯の屍鬼、亜号。
ケン殿の斬り上げた刃が、その巨体を斬りつける。
だが、力士のごとき重厚な圧力は留まることはなく、振り下ろされた豪腕がケン殿を張り飛ばした。
大きく吹き飛ばされたケン殿は、壁面に叩きつけられながらも、その壁面を蹴りつけ、反動のままに身をひるがえす。
さながら三角飛びのごとく宙を舞い、左手の鞘を順手に握り直して薙ぎ払った。
大振りの鞘打ちが、亜号の胸元を打ち据える。
衝撃の手応えで敵の体勢を読み、間合いを測り、右手の太刀を振りかぶった。
「残酷、御無礼!」
唱えた声は重く、斬撃一閃。
大気が唸るほどの勢いで叩き落とされた剛剣が、亜号の巨体に真っ向から斬り込み、股下へと抜けた。
頭頂部から走った亀裂が、歪にひきつれながら割れ走り、分かたれた巨体が左右に違えてグラリと揺れる。
それは見紛いようもない一刀両断。
片手で振るった太刀で、あの亜号の巨躯を、真っぷたつに斬り裂いてしまった。
〝……片手では、肉は斬れても骨は断てぬぞ……〟
脳裏によみがえったのは、誰かの言葉。記憶によみがえるのは、かつて片手の斬撃を亜号に押し止められた無念。
「……馬鹿な……」
思わず、呻きがこぼれ出た。
割られた巨躯が左右に開いて燃え上がる。
渦巻く蒼炎を突き抜け、着地した瞑目のイクサ。彼は素早く左手の鞘を振り、壁と床を打って位置を測る。
立ち上がったその場所は、始まった時と全く同じ場所。
再び斬撃の結界を振り放とうと身構える彼に、自分は戦慄に震えながらも、どうにか声をしぼり出した。
「終わりだ。……もう、屍鬼は残っていない」
ケン殿がビタリと制止する。
「……
彼は頷くと、太刀をくるりと回して逆手に握り、左手の鞘に収めて身を起こした。
闘気を静めるように、大きな深呼吸をひとつ。
さすがに疲労の色は濃い。だが、そこには特別何かを成し遂げたという気概も感慨も見て取れない。
いつものように、己の務めを果たした……そんな様子だった。
自分は、確かな昂揚と焦燥を自覚しながら────。
ゆるりと向き直った彼の胸元に、拾い上げた衣服を押しつけた。
「
ケン殿は丁寧に一礼し、衣服を受け取り身に纏う。
この場に立ち、屍鬼が現れてから五分少々か……。その間に斬り伏せた屍鬼の数は、屍号が七、狗号が五、亜号が二、計十四体。
正直、尋常ではない。
戦慄をもって、そう思った。
限定空間での〝型〟に嵌めた戦法。肉を切らせて骨を断つ場面も少なからずあれど、それでも、視覚を閉ざした状態で多数の屍鬼を屠り去った事実は凄まじい。
そして、何より尋常ならずはその太刀筋。
右手の太刀を、左手の鞘を、あたかも手脚の延長のように操る、その絶技めいた振る舞い。
講談に語られるような眼にもとまらぬ連続突きなど絵空事……そう思っていた。八津島星護の刺突は、レイピアという特殊な刀剣をもってこそだと思っていた。
だが、眼前のこの男は、刺突に不利な太刀造りにてそれを為した。
それだけではない。そう、彼は、片手の斬撃で、自分の両手に勝る斬撃を放って見せたのだ。
「どうやら、卿に観戦を赦したは失敗であったか……」
ケン殿が静かに笑んだ。
虚空を向いたままに告げられたそれは、それでも確かにこちらに向けられたものだろう。
「そのように剣気を向けられても、われは応えることは
いかにもやれやれと肩をすくめられたところで、自分の右手が腰の
意図せず、無意識に刀に手を伸ばしていたようだ。
何とも、未熟な在り様である。
「……すまない。あなたの剣があまりに凄まじきゆえ、我知らず武芸者の血が騒いだようだ」
「ふむ、いつの世でも、われら
それは嘲りであり、同時に自嘲でもあろう。
なれば、彼もまた少なからず、自分と同じ昂揚をその身に持て余しているようだ。
叶うなら、互いの剣の業、存分にぶつけ合いたいものを……!
「あなたの眼が開かぬのが、残念だ」
「…………」
しみじみと嘆息した自分に、ケン殿はしばし無言を返す。
どうしたのだろう?
死合いを望む自分にあきれた……わけではあるまい。
ならばいったい……。
「……テン
差し出された右手。
良くわからぬが、拒む理由は無い。
自分は差し出された彼の手に、己の手を重ねた。
特に力を込めるでなく、ただ、当たり前の握手の形。
友好の確認? それにしては唐突だ。
自分は疑念のままに首をかしげる。が、対するケン殿の方は、何かを得心した様子で静かに頷いた。
「……眼を閉じ、光を感じられずとも、音に聞き、肌に触れ、匂いを嗅いで世に関われる。……で、あるからな、テン氏よ。卿がイクサであり、非凡な業前を備えし益荒男であるのは、眼で捉えずともようわかる」
だが……と、瞑目のイクサは、その閉ざした眼でこちらを睨む。
「われは、卿の声を知っている。触れたこの手の感触を知っている。その匂いを知っている。卿とは別人でありながら、同じである者を知っているのだ」
自分と同じ……だと? それはまさか────。
「その者の名は、
ゆるりと告げられた名前。
ゆるりと告げられたはずなのに、それは頭の芯にズキリと響いた。
……ああ、知っている……。
自分は、その名前を、その少年のことを、既に知っていたかのように、思い出していた────。
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