サンゼンセカイヲイヌクナハ(6)
※
橋のたもとに至る前から、すでに自分は全力で駆けていた。
左手で腰の大小を押さえながら、ともかくも全力で駆け抜ける。
敵の射に当たれば終わり。否、かすっただけでも終わるだろう。
サダメが持つ〝
それが尽きる前に、何としてでも駆け抜けねばならない。
約三百メートルほどの大橋梁。その先にそびえる高層ビルの五階、向かって左端の窓を眺めやった。
ここからでは、その窓の輪郭を見て取るのがやっとだ。
まして、自分たちが陣取っていた廃ビルはさらに後方、サダメはそこから真田の構える場所を正確に視認していたのだから、つくづく、弓兵の眼力というのは凄まじい。
無論、それは単純な視認だけでなく、位置取りの理念や射線の道理、銃撃の火線からの推測などを踏まえ、総合的に読み取り判じた結果なのだろうが、それでも、そこには射手ならではの〝見〟があり、〝観〟があるのだろう。
木を見て、森を観よ。森を見て、木を観よ────。
〝見〟は眼で得る全て────。
〝観〟はそれ以外で得る全て────。
観と見というふたつの視界、それをもって世界に臨む。どうやら、それが〝みる〟ということだ────。
〝観見ふたつ〟
二天を一と唱えた我らが兵法、その奥義に通じる言葉。
理屈はわかる。
だが、ならばそれを実践するにはどうすれば良いのかは……正直、わからない。
サダメ、オヌシはわかるか?
真田信繁、オヌシはどうだ?
自分はわからない。
わからないが、ああ、それでもだ。
あの八津島星護との死合いの局面にて、自分は確かに〝みて〟いたのではないか? と、そんな気がしていた。
あの時の感覚を思い出そうとする。
だが、そもそも思い起こそうにも、脳裏に残る感覚は淡雪のように儚くこぼれて……闘っていた時の感覚自体が曖昧にかすんでいる。
彼方のビルを見やる。
未だ狙い撃たれてはいない。
敵は今でもあの五階端の窓に居るだろうか?
すでに位置取りを変えている可能性は高い。
だからこそ、サダメは後方のビルの頂に陣取った。橋を対岸から狙い撃てる地点を可能な限り広く捉えられるように────。
橋の三分の一辺りまで至った。
まだ撃たれない。
刻限に現れぬ自分にあきれて立ち去った?
そんなわけもあるまい。
今朝方の言動からして、ヤツはおそらく黒羽根の姫よりこの場を守らされているはずだ。引き受けた役目を放り出せるようなら、始めから因果に囚われもせず、イクサに堕ちてもいないだろう。
ならば、絶対に仕留め得る必殺の距離に寄るまで待っているのか?
橋の半ば……距離約百五十メートル、そこで命中精度は跳ね上がると雲井殿は言っていた。
橋に並ぶ支柱、丁度半ばの辺りを支えるひときわ太い鉄柱が見える。
そこまであと二十メートルほど、
あと十メートル、
五、
一、
越えた────だが、撃たれない?
なぜだ!?
疑念が心中に渦巻き、思考を掻き乱す。それは四肢に伝わって、ほんのわずかにだが、疾走する体幹が乱れる。
ひとつひとつは微かなブレ、それらが連なり重なって生まれたわずかな失速。それはわずかな、けれど、致命的な刹那の惑い。
視界の上方で、何かが煌めいた気がして顔を上げた。
朝方に真田が陣取っていたビルの、そのふたつ隣、崩れかけ斜めに傾いた高層ビルの、その屋上の縁に煌めいた光。
重い銃声が、黄昏の空に鳴り響いた。
※
そもそもオレもテンのヤツも、敵の真田
位置がバレたら普通は移動する。
陣取る候補が二箇所ないし三箇所程度しかないなら、同じ位置にひそむことで裏をかけるかもしれないが、あれだけ高いビルだ。しかも周囲にも多くの建物が並んでいる。
移動して居場所を眩ませる方が上策だ。
ついでに言えば、テンの野郎がわざと刻限に遅れたのも、多分、効果はない。
戦場では、数日どころか一ヶ月以上待ち呆けるなんて常のことだ。
まして、ホムラはこの橋の番人として陣取っている。つまり、もともとから来る者を待っている状態なんだ。
たかが半日、平然と構えているに違いない。
……だから問題は、今現在どこに陣取っているのか? その一点だ。
屋上部の縁から、橋梁の先を見通す。
橋を射角に捉えるだけなら、対岸に並ぶ多くのビルが該当する。
弓のように曲射ができぬ以上は、直線上だ。
壁越しに撃ち抜くとしても、長距離ならば標的を視界に捉えられる位置に居る必要はあるだろう。少なくとも、計算と直感で射線と位置を読み取って撃ち込めるほどの腕はないはずだ。
「……そのはずだよな。こないだオレを撃ち抜けたのは、近間だったからだよな……」
だから、少しでも狙いがつけ易い有利な高所に陣取るはずだ。
今、オレがしているように、橋上を直線で狙えるビルのどこかに潜んでいるはずなんだ。
けど、条件を満たす狙撃地点は多すぎて、絞り込めない。
だから、見通して、見渡している。
弓を構え、矢を番えて引き絞り、対岸に並ぶビル群に、懸命に視線を巡らせている。
テンの野郎は……じきに橋の半分に至ろうとしてる。けど、まだ一発も狙撃されていない。
「……どこにいる……?」
焦燥が、オレをジワジワとさいなんで────。
ふと、視界の中で、何かが煌めいた。
水面が陽光を弾くようなまばゆい煌めき。
銃器に着けてるスコープとかいうやつが反射した? なら、そこにヤツがいるということか!?
朝方にヤツが陣取っていたビルの二軒隣、斜めに傾いたビルの屋上部、そこに眼を凝らして見れば……居た! 赤備えの武者野郎!
オレは素早く動き、引き絞った
大きく傾いた屋上部、筒状のスコープを覗き込み狙いを澄ましているホムラの姿。
長大な銀色の狙撃銃〝
その銃身が、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「……ッ!?」
オレが射を放ったのと、重い銃声が黄昏に響き渡ったのは同時に、瞬を挟んで傍らを衝撃が駆け抜けた。
半ば倒れ込む形で床に伏せたオレは、そのまま横に転げてとにかく位置を移す。
……撃たれた? オレが? 伏兵を読まれてたのか?
だから迫り来るテンをウカツに狙撃せずに探っていたのか?
微かに、足元を影が走る。
見上げた空の彼方を旋回する黒い鳥が見えた。
再度の銃声とともに屋上の縁が砕け散り、オレの数メートル横を衝撃が駆け抜ける。死角に伏せているオレの位置を、明らかに把握して狙ってきている。
こっちの位置は筒抜けってか? 冗談じゃねえぞ!
こちらが射た一矢は外れてるだろう。……当然だな。いくら狙い通りに飛ぶ矢でも、そもそも狙いが狂っていては意味がない。
頼みの〝
ともかく、上空から丸見えのここはマズい!
オレは階段室に飛び込み、転げ落ちるように階下に下った。
二階層下、橋を望む窓のひとつに張り付き、外を窺う。
橋の向こう、傾いたビルの屋上、微かに動いた影。
階下に下りた様子は鴉に見られただろう。もう狙撃を妨害とか言っていられない。
仕留めるしかねえ! 再び位置を探られるその前に!
オレは二本目の〝
向こうの銃口は……まだこっちを捉えてはいない!
「
〝────オヌシは何者だ────〟
唱えようとした祈願は、脳裏に響いた冷たい声に阻害された。
ああ……チクショウ!
こんな時にまで邪魔すんじゃねえよ!
イラ立ちは、構えた弓手を微かに震わせた。
ほんの微かなブレ、だが、射撃においては致命的なブレ。長距離となれば露骨なまでにハッキリと、放たれた〝
……二射目も、やっぱり外しちまった。
当然、赤備えのイクサはその射線に気づいて銃を構える。
〝……名乗らぬなら、捨て置く。己が何者かすら主張できぬなら、そいつは本当にただの雑兵だ……〟
テンの言葉が、御大将の声でオレの脳裏に響いていた。
……ああ、そうだよな。オレは名乗れなかった。つまり、ただの雑兵ってこった。けど、そんなことは、ずっと昔から思い知ってたさ……。
彼方で銃火が弾け、銃声が轟く。
すぐ傍らの壁が砕け散り、凄まじい衝撃がオレを吹き飛ばした。
石造りの床に強かに叩きつけられる。
もちろん痛みなんかねえ。被弾したわけでもないから、どこも傷めちゃいない。衝撃で多少痺れてはいるが、四肢は動く。眼も見える、音も聞こえるし、握った弓も健在だ。
だが────。
脳裏と胸裡の深奥で、重たい何かがオレの動きを阻害する。
握り締めた最後の一本。
射れば射たままに真っ直ぐ飛ぶ反則の鏃。
〝
以前に一度だけ試しに射った時に、思い知った。
性に合わねえ────。
射れば当たる鏃なんか、性に合うものか……と、そういうことにして二度と使わないと決めた。
だが、違う、それは本当は違う。
〝……三本コッキリだ……〟
そう警告してきた頭巾の店主。
違うんだ。関係ない。何本あろうと変わらない。
だって、オレは、オレの放つ矢は────。
オレは当てられなかった。
射れば真っ直ぐ飛ぶ鏃なのに、いや、だからこそだ。
以前に射た〝
いつものように、いつもと同じに、狙いを逸れて飛び去った。
射れば真っ直ぐに飛ぶ鏃、それが外れる。なぜなら、オレの狙いがズレているからだ。
あの時、海原に揺れる扇を彼方に望んで絶望した時からずっと、オレの狙いは致命的にズレている。もうずっと、狙った場所に違わず当たったことなんてないんだ。
いつだって狙いはズレ続けていた。
ただ、それを鏃の機能で誤魔化してきただけだ。
散弾で、爆裂で、軌道操作で、誤魔化し続けてきた。
でも、ダメだ。
〝
わずかなズレは、彼方に届く時には致命のズレ。オレは、遠くの的を射ることは絶対にできない……!
わかっていた。
わかっていたのに、何で、オレは────!
銃声が轟き、壁が砕ける。
オレのすぐ横を衝撃が吹き抜け、右のこめかみから蒼い火花が吹いた。
ハハ……、惜しいじゃねえか日ノ本一の兵さんよ。
良く狙ってやがる、さすがは英雄様だ。わずかの間に、とんでもねえ上達振りだ。
……ああ、何でオレは、こんなイカレたヤツらに挑んだんだろうな。
本当に、名もない雑兵の分際で、何で────。
「……何をしている……早う、仕留めよ……」
かすれた声が聞こえた。
蒼く燃えるこめかみに触れる指先の感触。
背後に立つ少女の気配。彼女の濁った囁きが、耳元で咎めてくる。
「……鏃は、まだ……残っておる……だろう……」
壊れた舌が紡ぎ出す、切れ切れの呻き。
ああ、確かに残っている。最後の一本……だが、オマエだけは知っていただろう! わかっていただろう!
オレには、あの的は射抜けない!
項垂れたオレに、少女のかすれた呻きが問い質す。
「……オマエは、何者か……?」
何者か? 何者なのか?
そんなこと問われても応えようがない。
オレは御大将や、天下無双や、日ノ本一なんてヤツらとは違う。英雄ではないオレには、名乗る名なんてない!
だからこそ、オレは────。
「……オマエは、〝サダメ〟だ。それが、オマエの……名前だ……」
「……何言ってんだ。そりゃあオレが刻んだ因果だ。呪いだ。オレには名前なんて……」
名前なんてない。
誰も名付けてくれなかったから……。
親も知らず、友もおらず、ただ、ただ、弓を手に生き延びた果てに源氏の雑兵となったオレには、名乗れる名前なんてなかった。
影姫のオマエは知っているはずだろう?
そんな惨めな男の無様な生涯を、知っているはずだろう?
この名もない怨霊を冥府で拾い上げてくれたオマエだけは、承知しているはずだ!
気難しい影姫様は、あきれの溜め息も浅く、オレの傍らに回り込む。
「……オマエは、〝サダメ〟だ。オマエの名前だ……」
もう一度、念押すように繰り返しながら……。
スズメの
「……私は……影姫として……サダメ……オマエに、命ずる……定めた狙いを……必ず射抜け……オマエは、私が選んだ、私のイクサ……」
酷使し過ぎた声音がかすれて軋む。口の端から鬼火の蒼血をこぼしながら、スズメは真っ直ぐに窓の外を睨みつけていた。
「……オマエの一矢は……三千世界の全てを射抜く……」
だからこそ、オマエを選んだのだ……と、そう言い聞かせるように、スズメは声を振りしぼった。
……言い聞かせてるのは、オレにか? それとも、オマエ自身にか?
どっちにしても、無茶言うなってんだ。
我が影姫様は、相変わらずこちらには
冷たく引き結ばれた表情は、射るべき彼方だけを睨み据えたまま。
それでも、その小さな双手はギュッと力を込めてオレの手を握り締めてきた。
そこにこもる感情が、どんなものかはわからないが……。
「……射よ……早う仕留めねば、先に進めぬ……」
「……はいはい、承知しましたよ、御姫様」
オレはイラ立ちのままに立ち上がる。
どいつもコイツも、好き勝手なことばかり……冗談じゃねえんだよ。
窓辺に立って、彼方を睨む。
斜めに傾いたビルの屋上、赤備えの射手は未だあの場に居座ったまま。
銃声が轟き、傍らの壁が爆ぜる。
オレは構わずに弓を構えて、矢を番えた。
最後の一本、外せば終わり。
ま、そもそも当たるわけがなかったんだから、最初から終わっていたわけなんだが。
それでもオレが弓を構えて陣取ったのは……やっぱり、心のどこかでは信じたかったんだろうな。
今度こそ当てられるはずだ。
的を射抜けるはずだ。
因果を、断ち切れるはずだ……と、そう信じたかった。
オレは弓の腕なら誰にも負けないのだと……!
「……はーあ、無様だ。本当に、情けねえよなあ……」
自嘲の溜め息は、響いた銃声に掻き消される。
……ったく、パッパカ無駄に撃ちまくるんじゃねえよ下手くそが!
当たらねえんだよ、テメエの射撃なんか!
「……当たるものか。自分の敗北を得物のせいにするような甲斐性なしの狙いなんざ、当たるわけねえ……」
ゆるりと矢を引き絞る。
射れば狙った場所に飛ぶ鏃。
その狙いを真っ直ぐに定める。
照準の先は、遥か彼方、同じくこちらに狙いを定める赤備えのイクサ。
「当たるわけねえんだ。テメエの弾も、オレの矢も、果たせぬ無念に泣きわめきながら定めた無様な狙いが、当たるわけがねえ!」
そんな道理もわからないから、オレは今もなお局面の一矢を外し続け、オマエは扱えもしない得物にすがりついて足掻いている。
再度の銃声、すぐ左側を撃ち抜く衝撃。
オレはもうそんなものには欠片も意を介さない。意に介してたまるものかと、ただ、真っ直ぐに鏃の先を相手の眉間に定めて告げた。
「銘の通りに熱く燃え過ぎたな。〝
引き絞った矢を射て放つ。
高速で回転しながら空を裂き走る〝
真っ直ぐに一直線に飛翔した鏃は、彼我の距離約三百メートルを瞬時に
貫いて────。
その射線上の標的を穿ち抜いた。
……だが、それは狙った赤備えの眉間ではなく、構えた銀銃〝谺〟の銃身。得物が砕ける衝撃に仰け反るイクサを彼方に眺めながら、オレはウンザリと溜め息を吐き捨てる。
「……ほら見ろ、やっぱり外れだ」
まあ、関係ない。どうせ同じ、立ち上がって三本目を番えたあの時点でもう、オレの役目は完了していた。
要するに、あの赤備えは伏兵のオレに構い過ぎた。
「……あとは英雄様同士、勝手に
……もう、後は知らねえ。
オレは脱力のままにその場に座り込んだのだった。
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