お誕生日屋

桜枝 巧

お誕生日屋

 兄は数分遅れてやってきた。

「もっと早くに学校を出る予定だったのだが、串馬先生に捕まってしまって、な」

 午後九時過ぎ。遅めの新歓らしい隣のテーブルは、賑やかさを増していた。

 誰かの誕生日らしく、店内放送を掻き消して歌が響く。


 ハッピー・バースディ・トゥー・ユー

 ハッピー・バースディ・トゥー・ユー


 兄はその様子に少しだけ目を細めた。やってきた店員には、スクリュー・ドライバーとマルゲリータを注文する。

 こちらのテーブルには、半分ほどになったモヒートがグラスに水滴をつけているだけだった。

 二人用の机はがたついていて、兄が椅子に腰を下ろすと微かに揺れる。スーツのネクタイを緩めてから、彼はやっとひとつ、深い息を漏らした。


「串馬先生。この間写真見せただろう、前髪を横一直線にばっさりと切った……ほら、これをもらった」


 「やる」と言わんばかりに手渡された薄緑色の紙袋の中には、ファンシーな丸い玉が二つ入っている。大きさは手のこぶしほど。

 私は鼻で笑ってしまう。

 可愛らしい流行りのバスボムは、あまりに兄に似合っていなかった。そもそも、彼はカラスの行水なのだ、バスタブにつからない。

 一度兄と校門前で話しているのを見たことがあるが、大したことはない女のようだ。

 紙袋を床に落としたのを横目に、兄はからから笑い声を立てる。


「お前、たまに怖い顔するよなあ。おれを永遠に独身でいさせる気かよ」

 私は「兄さんにはお似合いだよ」とグラスに口をつけた。


「お前は? 例の彼氏はどうなった」

「来月にはプロポーズしてくれるんじゃないかな」

「そういうとこあるよなあ、お前。何でもかんでもうまくこなしやがって……郵便局の仕事も順調なんだっけか」


 そう言いつつも、彼は妬むような表情を一切見せなかった。

 代わりに兄は、運ばれてきたオレンジ色のカクテルを持ち上げる。「乾杯」の合図だ。

 口端が上がれば、優しい笑みがそこに浮かぶ。

 しかしその瞳孔は、祝福と悔恨が入り混じった黒を作り出していた。


「…………」


 私は口をつぐんだ。

 まだ兄は、十数年も前の事を気にしているのだ。

 ポケットに軽く触れて、中に入っているものを確かめる。なんてことないかのように「うん。事務だからね、ミスらなければ平気」と答えた。


「それがすげーんだってば。……ほら」


 兄に促され、私は自分のグラスをそっとあてる。カチン、とガラス同士がぶつかる心地よい音がした。

 彼は一度唇を噛んでから、その台詞を口にする。


「誕生日おめでとう、かおり」





 兄は小学六年生の春頃、「お誕生日屋」をしていた。


 依頼があれば放課後駆け付け、誕生日会にお邪魔し、手を叩きながら歌を歌う。そんな仕事だ。

 依頼者は兄の同級生からお年寄りまで様々だ。兄のクラスメイトの姉弟に付いていって、プレゼントの文房具を選んだこともある。

 商売と言っても、子どもがやりそうな「ごっこ」に近く、お駄賃はキャンディやスナック菓子の小袋といったささやかなものだった。

 当時小学三年生だった私は、ケーキの端を分けてもらえることもあって、いつも兄の「仕事」についていった。

 プレゼントを選ぶのは得意だったし、彼よりも上手に歌を歌った。

『いいか、おれたちは仕事で来ているんだ』と兄は常々父の口調を真似て言った。


『お誕生日じゃない日をお祝いすることがあるのなら、お誕生日はもっとにぎやかにお祝いしなくちゃいけないんだ』


 兄は、読んだ本の影響を受けやすかった(そして時に本文の意図を間違って解釈していた)。

 大真面目にぴんっと人差し指を立て、正しくないものなんてないかのように宣言するのが、彼の癖だった。


『おれたちは、世界中のお誕生日を幸せにするシメイを背負っているんだぞ』


 彼の言葉は難しかったが、何か大切な仕事であるらしいことは当時の私にもわかった。そんな重大な「シメイ」を持った兄をかっこいいと思ったし、それを手伝う自分を誇りに思っていた。

 



 ある時は、アパートに一人で住む男を祝った。

 まだ防犯意識よりも近所づきあいが重視されていた時代であったために、引き受けることができた依頼だったと思う。我ながら、危ない橋を渡っていたものだ。


『僕の誕生日を、祝ってくれませんか』


 近所の大学生らしい男は、帰り道を歩いていた僕らにそう声をかけた。

『実は、明日が僕の生まれた日なんですが、だれも祝ってくれる人がいないんです。ケーキも、プレゼントもないけれど、それでも誰かに、おめでとう、くらいは言われたいんです』

 小学生に対して敬語を使う、気弱そうな学生だった。顔だちをよく覚えていないが、頭は酷い天然パーマがかかっていた。

 兄は一度ランドセルを背負いなおしてから、はっきりと『もちろんですとも』と言い切った。


『おれたちは、どんな誕生日も見逃すことはありません。安心してください、立派なお誕生日にしますから』


 次の日、兄と私は、家にあった一口サイズのチョコレート・パイと蝋燭を大量に抱えて、男のアパートに向かった。男の年齢分すべての蝋燭を挿してから、男がライターで火をつけた。

 二十数本の蝋燭を抜いたチョコレート・パイたちは、まるで隕石が降ってきた月の表面みたいになっていた。それでも男ははらはらと涙を落した。

 兄は『これ以上の幸福はない』と言わんばかりに大きな声で歌った。私は音程を合わせるのに必死だった。


 ハッピー・バースディ・トゥー・ユー

 ハッピー・バースディ・トゥー・ユー


 男は私たちに、コンビニエンスストア限定のチョコレート菓子を一箱ずつくれた。

 家に帰りついてから、勝手にチョコレート・パイを持ち出したこと、知らない男の家に上がり込んだことで両親に叱られたが、兄は晴れ晴れとした顔をしていた。


『母さんたちが怒っているのもわかるよ。でも、きっとおれは正しい。だって、あんなに喜んでいたんだもの』




 兄と私の「お誕生日屋」は、六月の終わりごろまで続いた。

 「お誕生日屋」はそれなりに繁盛していた。私と兄は毎日のようにどこかの家で蝋燭を立て、歌を歌った。

 その日は、特別な日だった。兄は『かおりの生まれた日なんだから、とっておきのお誕生日にしなくっちゃね』とあちこち走り回っていた。


 母に頼み、蝋燭は「9」にかたどられたものを買ってもらった。プレゼントは最後まで内緒にされた。

 夜、家族だけでやるパーティの他に、夕方クラスメイトを集めた誕生日会が企画された。ミニゲームやおしゃべりするためのネタなど、兄は綿密に計画を練った。


 そして当日の放課後――

 兄と、私だけが、ぽつんと飾り付けられたテーブルに座っていた。


 考えてみれば、当たり前の話だった。

 放課後、ほとんど兄にくっついて回っていたのだから(しかも依頼者が私のクラスメイトであることはほとんどなかった)、クラスメイトとの交流はかなりか細いものになっていた。

 「小六の兄にくっついて、おかしなことをしている女子」という噂すら流れたと、後に聞いた。

 兄は健気だった。

 やや外れた音程で一人歌を歌い、夜にはきちんと蝋燭を吹き消した。私は終始うつむいていたが、兄は笑顔だった。ほんとうに楽しそうに、『お誕生日屋』としての役目を果たした。

 しかし、兄がそれ以降、『お誕生日屋』の依頼を受けることはなかった。

 彼は家に籠り、勉強に励んだ。元々頭は悪くなかったため、公立大を卒業するところまでこぎつけた。

 今は中学校の臨時採用講師として、社会を教えている。

 私は、そんな兄をずっと見てきた。





 運ばれてきたマルゲリータは、味が濃すぎて食べられるものではなかった。一枚だけ私が食べ、兄が残りを食べた。

 兄はオレンジ色のカクテルをぐびぐび飲んだ。

 はっきりとした顔立ちに反して、彼は味覚が幼いままだった。ビールや焼酎、日本酒といったものは飲めず、ししゃもや貝類の苦みもダメだった。そのかわり、ハンバーグやコロッケ、オレンジジュースなどを好んだ。


「相変わらず兄さんは子どもだねえ」


 ちっとも変っていないよ、と続けようとして、口をつぐむ。

 それは、ただの私の願望だ。

 頬をマルゲリータで膨らませた兄は苦笑しながら、私の頭をテーブル越しにくしゃりと撫でた。

 「お前の方が子どもだろう」とでも言いたげな、チョークの粉で荒れた手だ。

 私はうつむいてそれを受け入れる。

 隣の席が一段と騒がしくなる。どうやら、向こうのグループはお開きの時間になったようだった。

 椅子から立ち上がる音、お札を数えるかすかな音、そしてまだ収まることはないおしゃべり。


 ……十数年前の「お誕生日」の後も、私が兄を嫌いになる事はなかった。「お誕生日屋」にくっついていくことはなくなったし、他の友だちとも遊ぶようにはなったが、変わらず兄を慕い続けた。

 理由は自分でもわからない。

 あれだけ衝撃的な出来事であったはずなのに、記憶が曖昧になっている。

 家がどんなふうに飾り付けられていたか、どんなお菓子を用意していたか、プレゼントは何だったか、すべてが薄皮一枚を隔てたようにぼんやりとしているのだ。

 覚えているのは、吹き消される直前のやや溶けた「9」の蝋燭と、下手くそな兄の歌、それから彼の満面の笑みだけ。


 兄はどうして、あの日笑っていられたのだろう? 今でも引きずるくらい、彼にとっても、否、彼にとっては私以上に残酷な出来事だったはずなのだ。

 大学生たちが店を出て行ってしまうと、途端に店内はがらんどうになってしまう。やっと、BGMにジャズピアノが流れていたことに気が付いた。


「お前は要領がいいからなあ」


 いつの間にか口の中のものをすっかり飲み込んでいた兄が呟く。

 やや首元が赤い。

 眉間には皺が寄り、視線は斜め下に向いている。


「にいさん、」

酔っているの、と尋ねようとして遮られる。


「でもなあ、おれはお前の兄さんなんだ。いいか、大切なのは、『世界中のお誕生日』なんかじゃなくて、お前の誕生日なんだよ。ああ、身内一人笑顔にできなくてどうするんだ、笑って、笑ってくれよ、おれは正しいはずだろう、畜生……」


 そのまま兄はテーブルに突っ伏してしまう。

 私は、何も言うことができなかった。

 グラスを傾け、モヒートの最後の一口を流し入れる。温くなったライムの酸味が、柔く脳を刺激した。


 兄はちっとも変っていないのだ、という願望が、頭を再びもたげる。

 この人はいつまでたっても、他人のことしか考えていない。世界中を、或いは妹である私を、一心に見つめている。

 何が正しいのかは私にもわからない。兄が諦めてしまった『世界中のお誕生日』を祝うことだって、大切な『シメイ』だったはずなのだ。


 ……でも、なにも、自分の誕生日を祝っちゃいけないなんてシメイはないでしょう、兄さん。


 あの日、偶然私と同じ誕生日に生まれた兄のもとにも、クラスメイトは誰一人として現れなかった。

 「寧ろ迷惑だ」とか、「図々しい」とか、嫌な話も沢山聞いた。「あなたの兄さん、少しおかしいんじゃないの?」と言われたことすらある。兄の耳に入っていたかは定かでない。

 彼は何を思って、二人きりの誕生日を笑顔で過ごしたのだろう? 

 保身のため?

 私のため? 

 喉の奥がきゅうっと詰まる。


 自身の誕生日に対して酷く無頓着になってしまった兄は、顔だけを起こして「ああ、その紙袋のやつ、お前が使っていいから。そっちの方がいいだろ」なんて言う。

 私は誕生日プレゼントなのだろうその袋を、軽く蹴った。かさり、と小さな音がしただけだった。

 兄を見る。

 小学生の頃の面影は、もうほとんど残っていない。声も低くなり、背も伸びた。私だって随分と変わってしまっただろう。

 お互い、すっかり大人になってしまった。


「でも、あなたはちっともかわらない」

 私は、何かを呪うようにそう呟いた。


 息を吸う。

 久しぶりだったから、うまく歌えるかは不安だった。

 唇が震える。

 兄が不審そうな顔をしてこちらを見ている。

 私は一度強く目をつむってから、口端を思いっきり引き上げた。


「ハッピー・バースディ・トゥー・ユー

 ハッピー・バースディ・トゥー・ユー

 ハッピー・バースディ・ディア・兄さん」


 ハッピー・バースディ・トゥー・ユー


 声は酷くかすれて、最後の一音は立ち消えになってしまう。すぐにBGMのピアノに掻き消され、茫然とした表情を浮かべる兄と、私だけが残された。

 私はポケットから、ぐずぐずに溶けたチョコレート・パイを取り出した。

 兄の目が見開かれる。

 何かを言いかけた唇は、彼が視線を逸らすとともに閉じられた。

 強情な人だ。


「兄さん、依頼だよ。私たちは『世界中のお誕生日』を祝う使命があるんだ。手始めに、祝ってもらいたい誕生日があってね。いいかな?」


 微笑みかけた私に、兄は目を逸らしたままだった。

 アルコールが回ったのか、それとも別の理由があるのか、顔が赤く染まっている。


「改めまして誕生日おめでとう、兄さん」


 誕生日を祝う時は、とびきりの、これ以上ないくらい幸福そうな笑顔で。

 兄が教えてくれたことだ。

 彼は自分の頭をがしがしと掻いた。それから、今にも消えてしまいそうな、小さな低い声で呟く。


「……お前は、本当に要領の良い奴だよ」

「兄さんは本当に、不器用だねえ」





 【引用】

  Mildred J.Hill & Patty S.Hill 

         ‘Happy birth day to you’

(今回は林原めぐみ氏が歌う日本語版を引用している)

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