2・屋敷/ヒューイの部屋(昼)

ヒューイ「……はぁ」


 ヒューイはベッドの上に横たわる女性を見下ろした。

 生気の失せた顔。ぴくりとも動かない眉。唇は呼吸をやめている。


 ベッドの脇にあるサイドテーブルには聴診器などの医療用の道具が置いてある。

 それ等とヒューイの目の下にできたクマが、今までの彼の努力を物語っている。


 ヒューイは医者の卵だ。

 それも代々国を代表する医療関係者を生み出してきた名家の長男である。


ヒューイ「……なのに、自分のケツすら拭けないなんて、笑わせる」


 深くため息を吐いた。


 人を殺してしまった、それもこんなかけがえのない美女を。

 拭いようのない後悔。それにも勝る凄まじい疲労感が、彼を眠りに誘った。


 ……………………。

 …………。

 ……。


 頭の下に、ひんやりとした柔らかいものを感じた。


 雪原に倒れ込んだような冷たさ。

 しかし体温を奪われることに嫌悪感は無く、むしろそれに馴染んでいくような気さえする。


 目を開くと、昨夜の美しい女性がいた。

 彼女の光りを失った瞳がヒューイの顔を覗き込んでいた。


ヒューイ「……え?」


 驚きの声を上げ、すぐさま体を起こす。


???「……おはようございます」


ヒューイ「お、お前……生きているのか?」


???「はい」


 ヒューイは信じられない思いで女性の顔を見つめる。

 そして心臓音を確認するために、胸に手を伸ばし――


???「っ!?」


 破裂音が高く鳴り響いた。


ヒューイ「――っえ……?」


 頬を叩かれたのだ。


 痛む頬を押さえ、ヒューイは恐る恐る女性を見やる。

 女性は顔色一つ変えず、ヒューイを睨んでいた。


 冷や汗をかき、ヒューイは必死に弁明を試みる。


ヒューイ「す、すまん。ちょっと生きているか確認したくて……」


???「私はあなたを叩けるぐらい元気です。それで十分でしょう?」


ヒューイ「あ、ああ」


???「……でも、あなたは私の命を救おうと尽力なさってくださったのですね。それは感謝しております」


 深く頭を下げる女性。


ヒューイ「いや、それは俺のせいなんだ……」


 ヒューイは昨夜の出来事を女性に打ち明けた。

 深夜、ロンドン橋で彼女を車ではねてしまったことを。


???「そうでしたが。でも、あなたが私を救おうとしてくださったことに変わりはありません」


 そう言って微笑む女性の顔には、降り積もった雪を溶かす太陽のような温かさがあった。


 もっと彼女のことを知りたい、その想いがヒューイの口から出た。


ヒューイ「……名前を聞いてもいいか?」


雪花「……私は雪花せつかと申します。日ノ本の国から参りました」


 雪花。

 ヒューイの心に、彼女の名前が深く刻まれる。


雪花「よろしければ、あなたの御名前もお聞かせください」


ヒューイ「俺はヒューイ。苗字は好きじゃないから言いたくない」


雪花「そうですか。素敵なお名前ですね」


ヒューイ「あんたは変わった名前だな。東洋人とは何人か会ったことがあるが、そんな名前は聞いたことないぞ」


雪花「あなたこそ変わった御方です。英国の殿方は紳士という、礼儀正しい存在だとお聞きしましたが」


 胸を触ろうとしたことを皮肉っているのだとヒューイは気付き、苦笑が漏れた。


ヒューイ「俺はステレオタイプに収まるような連中とは違うってことだ」


 雪花は口元を隠し、くすりと笑い声を立てる。

 上品かつ控えめな笑い方は、英国淑女の華美なものとはまるで違う。

 ヒューイは胸に苦しさを覚えたが、不思議と嫌な感じはしなかった。


ヒューイ「ところで、さっきお前は何をやっていたんだ? 俺の頭を膝に乗せていたようだが……」


雪花「お体を悪くするような態勢で寝ていられたので、お布団にお運びしようかと思ったのです。けれどもどうしても体を持ち上げることができなかったので、失礼ですが近くにあった椅子を寄せて、私の膝でお休みいただきました。……もしかして、ご迷惑でしたか?」


ヒューイ「……いや、悪くなかった」


雪花「……え?」


 急に恥ずかしくなったヒューイは、慌てて話題を変えた。


ヒューイ「あー、いや。そういえばお前、東洋人なのに英語が上手いな」


雪花「父上が、英国の書物がお好きで。私にも英語やこの御国のことをたくさん教えてくださったのです」


ヒューイ「じゃあ、イギリスに来たのは観光のためか?」


雪花「はい。ですが今は、この御国に住まわせていただいています」


ヒューイ「そうか。なら、一ついいことを教えてやる。イギリスの真冬の深夜に、そんな薄着で出歩いてたら凍死するぞ」


雪花「お心遣い痛み入ります。でも私は大丈夫なんですよ」


 妙に力強い断定調に、ヒューイは首を傾げる。


ヒューイ「……どういうことだ?」


雪花「こちらのお話です」


ヒューイ「ふーん」

     ぐー……。


 言葉にかぶさるように、ヒューイの腹の虫が盛大に鳴った。

 あまりの恥ずかしさに彼は、火が出る勢いで赤面した。

 ただ雪花はいたって平然としていたので、彼は内心で胸を撫で下ろした。


雪花「お腹がお空きですか?」


ヒューイ「ああ。遅い朝飯、まあ昼飯にするが、お前はどうする?」


雪花「私はそろそろお暇させていただきます」


ヒューイ「まだ動かない方がいい。腹が空いているなら使用人に飯を持ってこさせるぞ」


雪花「いえ、そこまでしていただくわけには……」


ヒューイ「だったら寝てろ。分かったか?」


雪花「……はい、承知つかまつりました」


 ヒューイは雪花がベッドに入るのを見届けて、部屋を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る