第8話
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俺はずっと生きている意味がわからなかった。だから、いつ死んだって別にいいって思ってた。別にそれを隠してはいなかったけれど、わざわざ口外する事もなかった。時期がきたら、納得したら、そう思いながら、ただこの世界で生きていた。息をしていた。息をしないと、当たり前に生きる事さえ出来ないから。
きっと俺のこの考えは誰に止められても、説得されようとも、変わる事はない。ただ、自分の事で誰かが悲しむのが嫌だった。だから、独りでいい。孤独でいい。そう思っていたんだ。……けど、たまに寂しくなる。俺だって人間だから、それなりに感情はある。でも俺は、誰かに相談するよりも自分の中で解決してしまう性分なので、昔の彼女から、冷たい男だと罵られた事も少なくはない。
……逢坂、未奈都。彼女が俺の事を好きなのはちゃんとわかっていた。彼女はとてもわかりやすい性格でもあるからね。けど、気持ちには応えられない。俺はいつまでこの世にいるかわからないし、何より自分の事で精一杯な俺は、誰かを幸せに出来るとは思えなかったから。
だから、一言……俺は死ぬ前に一言だけ書いた手紙を彼女に送った。気休めにしかならないような、たった一言。何の確信もない、夢のような絵空事。あてにならない約束。それでも、彼女ならきっと喜ぶような気がした。しょうもない言葉だけど……きっと、嘘にしかならない言葉だけれど……俺にはそうする事でしか、彼女の傷を最小限にとどめる術を持たなかった。
それなのに、まさか追ってくるとは思わなかった。困ったような……少し、ほんの少しだけ嬉しいような……そんな不思議な感覚だ。
彼女に会えた事で、俺はふと色を思い出していた。空の色。山の色。海の色。街の色。この世界に暫くいたせいで、俺は色を忘れかけていたのだろう。
だけど、元の美しい色彩を恋しいとは思っても、生き返りたいとは微塵も思わない。
寧ろセカンドは、何故存在するのだろう? 折角色んな葛藤を乗り越え、死を迎えたというのに、俺はまだこのようなわけのわからない世界で生かされている。……まさか、サードやフォースなんて世界もあるんじゃないだろうな? それは流石にないか。
それにしても……死んだ先にある死の世界。正に負のスパイラルだ。けれど、何故か心が踊る。
此処では生きていてもいいかもしれないと思った。生きていけるかもしれないと思った。なんだかんだ言って、此処は居心地が良い。静かだし、他の人間は自分の事で手がいっぱいで、他人には無関心。それが妙に俺の心を楽にさせた。
今は未奈都が傍にいるけれど、彼女はきっと近いうちにいなくなるだろう。それまでは、この世界で彼女と過ごす最後の時間を、ただ純粋に楽しもうと思った。
「仙くん、そろそろ森に向かう?」
彼女は足を止め、森の方を指差しながらそう言った。
「そうだね。時間は有意義に使わなきゃ。これから先に何が起きるかわかんないし」
その時……俺はふと、誰かに見られているような感覚に陥った。……いや、今が初めてというわけではないか。先程から誰かの視線を感じる。ぞくりと悪寒を感じてしまうような、蛇のように執念深い視線。
そしてそれは背後から感じ取れた。俺は咄嗟に後ろに振り返る。視線の先には一人の女性の姿があった。さっきからの視線は、あの女性のものなのだろうか?
「……ねぇ。あそこに人がいる」
「人……? え、どこ?」
「あそこだよ。ほら、髪の長い女の人」
「……仙くん、何言ってるの? 冗談ならやめてよね。ただでさえシャレにならない世界にいるんだから」
彼女はそう言って怪訝な表情を浮かべる。彼女には、あの女性の姿が見えていないのだろうか?
「……未奈都、ちょっとここで待ってて」
「え? 仙くん!」
俺は彼女の言葉を無視し、視線の先にいる女性の元へと走った。俺達と同じで単にこの世界に招かれた者だったとしても、一応話は聞いておきたいものだが……未奈都には女性の事が見えていないみたいだった。それだけで、つい子供のように浮かれた気分になってしまうのも仕方がないだろう? あの女性は一体……そう考えるだけで、好奇心が膨れ上がるのが良くわかる。
ウェーブがかかった長い黒髪に、ぱっちりとした猫目が印象的だった。美人には変わりないが、見た感じ、少々きつそうな性格だろうなと無意識に分析を始めてしまう。俺の悪い癖だ。
警戒しているのだろうか? 近付く度に好奇心と警戒心が入り混じったかのような表情を見せる。しかし女性は、さっきから頻繁に爪を噛みながらも、俺から目を離そうとはしない。
全力疾走した俺は、浅く呼吸を吐きながら女性の前に立つと、ゆっくり口を開いた。
「こんにちは。ねぇ……君は一体、何者?」
俺のその言葉に、女性はわかりやすく顔を歪める。……しまった、言葉を選び間違えてしまったかな? 女は言葉の意味を、必要以上に深く解釈したがる。なので、言葉は慎重に選ばなければならない。非常に厄介かつ面倒な生き物だ。
「……あんた、いきなり失礼じゃない? 何者だなんて、あんたには私が幽霊にでも見えるってわけ?」
「あれ、違うの? 俺と一緒にいた子には君の姿が見えていないようだったからさ。じゃあもしかして、誰かの身体を奪った後の影、だったり……」
「はぁあ⁉ 誰が影よ、誰が! 私は浦木彩芽! あんたと同じ、ファーストからきた人間よ!」
浦木……【彩芽】?
俺は先程、彼女からその名を聞いたばかりだった。夜叉と同じ名前の【アヤメ】。
この人、千明くんの婚約者か……?
俺は考えをまとめようと暫く口を閉ざした。その態度にイラついたのか、彩芽は更に爪を噛んでいた。
爪を噛む癖がある人間の特徴は様々だ。爪を噛むというのはある種自傷行為と言えよう。ストレスで噛む事もあるが、愛情を欲していたり、恐怖心を無くす為に噛む事もあるようだ。
しかし、彼女はもういい大人。大人になっても噛むのをやめられないのは自制心が欠如している可能性があると、以前何かの本で読んだ事がある。
自分をコントロール出来ない、自分の思い通りにことを運ぶ事が出来ない。それがストレスとなり爪を噛むという行為に及ぶ……感情の起伏が激しそうなのは、一目見ただけで充分理解出来るしね。
――千明くんの名前を出すべきか、否か。
「……ちょっと! あんたさっきから私の事無視しすぎじゃないの⁉ ……もしかして、馬鹿にしてる?」
「ああ、ごめん! ちょっと考え事をしてたんだ。ちなみに俺は【あんた】じゃないよ。仙、穂積仙っていうんだ。仙人の仙でセンね」
「仙? 変な名前。 ……ま、いいわ。ねぇ、仙。あんたに何故私の姿が見えるのかはわかんないんだけど、見えたんだから責任持って色々と協力しなさいよね?」
彩芽のあまりの自分勝手さに、俺は思わず「ぷはっ」と吹き出した。本来、我儘な女はあまり得意ではないのだが、彩芽の表情から困惑と必死さを感じ取れたから、それが何だか可笑しくて、つい笑ってしまった。……少しの同情もあったのかもしれない。
今までずっと一人だったのだろうか? こんな世界でたった一人……誰にも気付かれず、過ごしてきたのだろうか? だとしたらきっと、辛かっただろうに。
「もう、仙くん! いきなり走ってどうしちゃったの⁉」
未奈都は俺の前まで駆けつけると、背中を丸め、呼吸を荒くしながら膝に手を置いた。
「未奈都! 待っててって言ったのに……大丈夫?」
「気になって待ってらんないよ! 仙くん、全然戻ってこないし……」
「ごめんごめん、ちょっと色々あってさ。しかし……何から、どういう風に説明したらいいだろう?」
少々困り果てた俺は「うーん……」と唸りながら、彩芽の方に目を向けた。
「……ミナト?」
突然彼女の名を口にした彩芽は、俯き……何やら考え込んでいるようだった。
……どうしたのだろう? そう思い、声をかけてみたが返事はない。考え事をしていると、周りの声や音が耳に入ってこないタイプのようだ。
俺はその隙に未奈都の腕を引き、彩芽からほんの少しだけ距離を取ると、彼女に小さく耳打ちをした。
「……未奈都、【彩芽】だ。君には姿が見えていないようだけど、ここに……多分、千明くんの彼女の彩芽がいる。自ら浦木彩芽と名乗ったんだ。俺には同名の赤の他人のようには思えない。それに、こんなに偶然【アヤメ】ばかりが現れたりするかな? 俺は千明くんの彼女に間違いないと思うんだけど……」
「えっ? 仙くん、それ……本気で言ってるの?」
「うん。ここに、確かに女の人がいるんだよ。信じられないかもしれないけど……」
俺がそう言うと、彼女はオーバーなくらい、首を横に振った。
「……信じる。信じるよ! 私、仙くんの言葉は何があっても信用するって決めてるんだから! それにこんな世界じゃ、もう何が起きても驚かないよ」
彼女は「へへっ」と可愛らしく微笑んだ。つられて俺の口角もキュッと上がる。
彼女のわかりやすい愛情表現は、どこか俺の心を穏やかにした。
素直に向けられる好意を迷惑だとは思わないし、嬉しいものに変わりはない。ただ、それらを受け止められるだけの器が、俺にはないだけなんだ。たとえその煮え切らない態度で彼女を傷つけてしまったとしても、俺にはどうする事も出来ない。俺には、彼女よりも何よりも……大切なものがあるのだから。
突然風が、森の方から強く吹き荒れた。
空を見上げるといつもより暗く、薄鈍色が消炭色に、空をより濃く染めていった。黒のインクが空より高い場所から垂らされていくかのように、じんわりと汚れた範囲を広げていく……
――不吉。その言葉が不意に頭をよぎった。
――混沌。その言葉が不意に頭に浮かんだ。
不安そうな彼女の横で、俺は柄にもなく、胸騒ぎを覚えつつあった。
「……ねぇ、仙」
いつの間にか、俺の真後ろで彩芽が睨みつけるように俺を見つめていた。眉間に深い皺を刻みながら、彩芽は吐き捨てるように言葉を放った。
「私、その女嫌。よそにやってくれない?」
「……え? いきなり何?」
「仙くん……?」
何が起こっているか、全く理解出来ていない未奈都は、困ったように首を傾ける。俺はそんな彼女を安心させるために肩にポンッと手を置くと、振り返り彩芽に尋ねた。
「それは何故?」
「……その女の傍にいると、何だかわからないけど苛々するの」
「意味がわからない」
俺は冷静に思ったままを口にした。彩芽はますます苛立ったように表情を歪める。……正直、美人が台無しだ。
「気に入らなければ君がここから去ればいい。俺は決して善人ではないからね。悪いけど君の指図は受けないよ。確かに君の存在はかなり気になるし色々と話を聞いてみたいとは思うけど、そう敵意を剥き出しにされてまで、君と一緒にいる意味を見出せない。誰か俺の代わりに君の姿が見える人間を捜すことだね。行こう、未奈都」
俺はそう言うと未奈都の手を引き、森に向かって足を進めた。
「は、はぁ⁉ ちょっとあんた、待ちなさいよ! ふざけんじゃないわよ! 私の姿はあんたにしか見えないのよ⁉ だからあんたは私に協力しなきゃ駄目なの! 決定事項なんだから!」
彩芽の怒涛の声が響き渡る。俺は大きく溜息を吐いた。いくらなんでも自己中心的すぎるだろう? あんなに我儘で自分勝手な女性が、本当に千明くんの彼女なのか……正直、自信が持てなくなってきた。非常に面倒臭い。
急に繋いだ手に力が込められたので、立ち止まり振り返ると未奈都が心配そうな顔で俺を見ていた。事情を把握出来てない彼女を、少々不安にさせてしまったかもしれない。……しかし、未奈都をよそにやれなどとよく言えたものだ。彼女に彩芽の姿が見えていなくて、本当に良かった。
「あっははは! よく言ったねぇ! 僕、笑っちゃったよ!」
手を叩く音の聞こえた方に素早く視線を移すと、そこには一人の少年が立っていた。
未奈都が驚いたように「影丸!」と叫ぶと、影丸と呼ばれたその少年は、「久しぶり」と、目を細めて妖しげに笑った。
烏のような漆黒色のローブに身を包んだ、中性的な美しい少年。年は、十代前半といったところだろうか……まぁ、あくまで【人】として見たらの話だ。実際は五百や千をとうに超えている可能性もある。
「アヤメ、駄目だよ~。そんなに怒りの感情を露わにしちゃあ。森が騒めき出したから、きっと君が原因だろうなって思って来てみたんだ」
少年はケラケラと面白おかしそうに笑った。彩芽は少年を睨みつけ、未奈都は困ったように俺と少年の顔を見比べている。
先程から動きを見せない、彼のだらりと垂れた腕。そして普通に機能しているもう片方の腕。その先を下りていくと、小さな手にしっかりと握られた黒い物体が目に入った。物騒で歪な形をした、映画等でよく目にするもの……拳銃だ。
俺も本物を見るのは初めてだが、不思議と恐怖などは感じなかった。
「やぁ。初めまして、セン。僕の名前は影丸。そして、ミナトをこの世界に連れてきてあげたのはこの僕。どう? またミナトに逢えて嬉しかった?」
「君が影丸……噂はかねがね聞いているよ」
「うわぁ、光栄だなぁ。その噂が良いものだといいんだけど♪」
そう言うと、一瞬で俺の目の前に移動した影丸は俺の額に銃口を向けた。
「か、影丸! 何するの⁉ そんな物騒なもの、早く下ろして!」
「ねぇ、セン。君さぁ……影蟲に会ったでしょう? 君からアイツの気配がぷんぷんするんだよ。実に不愉快だ。どうやら君にアヤメの姿が見えるのは、影蟲と接近したからのようだねぇ。影蟲に何をされたの? あ~、もしかしてアイツに抱かれちゃった?」
「馬鹿馬鹿しい。話にならないな」
俺は影丸のあまりに馬鹿らしい発言を軽くかわす。しかし、少年の突然の言葉は……目の前にいる二人の女性には効果抜群だったようだ。
彩芽は目を点にしてから俺に視線を移すと、まるで穢らわしい者を見るかのように蔑みの表情を作り、未奈都は真っ青になりながら、慌てふためいていた。
「あは! 冗談だよ~。勿論知っているさ。影からの報告でちゃんと把握してるからね。君、溺れたんだって? 黒海に。この世界の海はファーストにあるそれとはまったくの別物。黒海には沢山の影達がいてねぇ、奴等はヒトの身体を奪う為、海の底に引きずり込もうとするんだよ」
そう言ってケラケラと笑う影丸だが、銃口は今も俺を標的にしたままだ。
理由は定かではないが……影蟲と影丸は、どうやらかなり不仲のようだ。先程からビンビン感じる影丸の殺意が、それを物語っている。
「影丸、銃を下ろして。仙くんに手を出したら私……貴方の事、絶対に許さないから」
「ん~? 許さないって、どうやって? 無力で弱虫のミナトが、この僕に敵うとでもいうのぉ? ははっ、それは見ものだなぁ。けど……ま、いいや。ミナトはまだ必要だからねぇ~。一応、言う事を聞いといてあげるよ。……今はね」
そう言うと、影丸は銃を下ろす。その銃は即座に蛇のような形を変わると、草の中をクネクネと、素早く掻き分けていった。
「さてと……じゃあアヤメは、僕と一緒にきてもらおっかな~!」
「……はっ、何で私があんたと一緒に行かなきゃなんないのよ? 私は――」
「チアキなら、僕がすぐに連れてきてあげるよ。今、影音の奴と一緒に捜してる所なんだよねぇ~」
影丸がそう口にした瞬間、彩芽の言葉と動きがわかりやすいくらいにピタリと止まった。
……やはり、この【彩芽】が千明くんの彼女で間違いなさそうだ。
「アヤメさぁ、チアキに逢いたいでしょ? 同じ世界にいて……これ程まで逢えない二人も珍しいよねぇ? 誰かが逢わないように操作してるのかも! あはっ! 可哀想なアヤメ~」
「……あんたについて行けば、本当に千明に逢えるわけ?」
「そうだねぇ。僕について来たら、アヤメはチアキに逢えると思うよ。影音がチアキを先に見つけて殺してなかったら、の話だけどね!」
彩芽の表情が明らかに変わった。
影丸は恐ろしい形相をした彩芽を視界に入れながらも、まったく笑顔を崩さない。
「そんな事、絶対にさせない。千明に手を出したら、私がこの手で……あんた達全員、皆殺しにしてやる」
「お〜怖い。怖いなぁ、アヤメは。君のその猟奇的で狂気的な愛情は、まるで大蛇のようにチアキの全てを飲み込んでしまいそうだねぇ。けど、大蛇は君だけじゃないから、きっと共喰いは避けられない」
影丸の瞳がほんの一瞬だけ曇った。俺はそれを見逃さなかった。
後ろにいる未奈都がギュッと俺の腕を掴む。未奈都には彩芽が見えていないから、影丸の言葉だけで会話を推理しなければならない。けれど、大体は理解出来ているように思えた。
「チアキとアヤメ……君達は本当によく似てるよ。野心家で残酷で強欲なところがそっくりだ」
影丸は小さくそう呟くと、手を前に差し出した。
「とにかく、僕と一緒に行こうよ! ねっ? こんなところにいても君の存在は邪魔なだけ! ねぇ、ミナト。君は苦労した末にセンと再び出逢えたんだ。二人でいたいよねぇ」
「私は、そんな!」
彩芽はチラリと未奈都に視線を送ると、俺の腕を強く自分の方へと引っ張った。同時に未奈都が掴んでいた方の腕がするりと抜ける。
「……影丸、私はあんたと一緒には行かない。千明は私が必ず見つけ出してみせる。あんた達影共は信用出来ない。私は仙と千明を捜すわ」
夜叉が眠る森 夢空詩 @mukuushi
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