第5話


「うわぁ……!」

 大きなステーションの前にある噴水の中心部には、二人の幼い天使が向かい合うような形で手を取り合い、水の中からは小さな鳥が顔を覗かせていた。

 非常に精巧に作られた石像だ。思わず見惚れてしまう程に……

 あれは、幸せの青い鳥をモチーフにして作られたのだろうか? 天使に、青い鳥……薄暗く廃れた景色の中、唯一その噴水だけがこの世界で生命を宿しているような、そんな気がした。

 しかし……

「誰もいないね」

「あれぇ? おかしいなぁ。確かにここには人がめっちゃおったんやけど……」

 千明は首を傾げながら、「う~ん」と唸る。ここに人がいない事は、千明にとってかなり予想外だったようだ。

 普段なら、この場所には沢山の人達が集まっていて、賑わいを見せていたのだろうか? ……いや、賑わっているという事はないか。何故なら此処は死後の世界なのだから。元の世界の広場などとは違うのだ。

「……ここ、駅だよね。電車には乗れるの?」

「封鎖されてるし無理やろな。あったとしても既に壊れてるやろ」

 確かに千明の言うように、駅の入り口は派手なバリケードで封鎖されている。これを突破するのは、かなり至難のように思えた。……それに見た感じ、杭で打ちつけられた木板を外し、置かれている重機を退け、有刺鉄線を全て除去したところで、内部に何か重要なものがあるとは思えないし、彼が中にいる可能性はゼロに等しい。骨折り損のくたびれもうけなのは目に見えている。

「は~、また振り出しかぁ。そう簡単にはいかない事ぐらい、わかってはいるけど……やっぱりダメージ大き――」

 私がそう口にしようとした瞬間、突然大きな手が私の口を塞ぎ、無理矢理その場に座らされた。

「シッ、静かにしろ。……影音がおる」

(影音……?)

 千明の手から解放された私は、千明の視線の先にいる一人の少女に目を向ける。

 そこにいたのは肩にかかるかどうかの長さでアッシュブルーの髪色をした少女だった。影丸と同じように黒いローブを着ているが、影丸とは違い、腕は両方とも機能しているようだ。その証拠に、その両腕は……幼い少女には不釣り合いな、大きくて斬れ味の良さそうな鎌をしっかりと握りしめていた。

「なに、なに、なに! あれ何なの⁉」

 私は焦りながらも小声で話す。

「あいつ頭イかれてんねん。しつこく俺の事付け狙うんよなぁ。モテる男は辛いわ」

「はぁ⁉ そんな事聞いてないんだけど!」

「言ってないもん」

 思いっきりぶん殴りたい衝動に駆られたが、今はそんな事を言っている場合でもなさそうだ。私はしゃがんだまま千明の袖を引き、ゆっくりと元来た道を引き返そうとした。

「戻るん?」

「あっち行くと見つかっちゃうでしょうが! あの子、明らかにあの鎌凶器として使ってるよね⁉ ほら、ブンブン振り回してるもん……見つかったら殺されちゃうよ!」

「大丈夫やって。この世界で人を殺せるんは夜叉だけや。このままやり過ごしたらい――」

「チアキ、そこにいるんでしょう? ワタシ、追いかけっこもそろそろ飽きてきちゃった」

 聞こえてきた可愛らしい声に対し、私の背筋はぞくりとした。何故ならば、少し遠くに離れていた筈の少女の声が、私達が背を向け隠れている壁のすぐ後ろから聞こえてきたから。

 千明は「はぁ……」と溜息を吐くと、立ち上がり、少女の前に姿を現した。私も千明について壁から顔を出す。

 とても美しい少女が目の前にいた。少女はまるで人形のように……その美しい表情を一切崩す事なく、私達をじっと見つめている。

「影音~、お前ほんましつこいわー。何でそこまで俺に執着すんねん? 他の奴らは自由に行動してるやん! 申し訳ないけど、俺も見境がないわけやなくてなぁ、あいにくお前は俺の許容範囲外やねん。だからもうちょっと大人になってから出直してきぃ……」

 千明がそんな軽口を叩いたと同時に、千明を目がけて容赦無く鎌が振り落とされる。千明は寸前のところでそれを避けると、即座に私の後ろに隠れた。……男の風上にも置けない奴だと心の中で思いながらも、私は少女の攻撃にすっかりびびってしまい、今にも腰が抜けそうだ。声など出る筈もない。

 少女は再び口を開く。

「……馬鹿なの? ねぇ、馬鹿なの? ワタシ、貴方みたいな男が一番嫌いなの。自惚れないでくれるかしら? 何度も言うけれど、夜叉が貴方を呼んでいる……早く来なさい。抵抗するなら、これで貴方の脚を斬り落とす」

「かーっ。小さいのに言う事もやる事も怖いわぁ。悪いけど俺な、捜してる人がおるねん。そいつは残念ながら森にはおらんのや。だから森には用がないの。あ! あと、こいつも人を捜しとってな。お前知らんか? 仙っちゅー男や!」

 千明はいきなり、私の背をぐいっと前に突き出した。

「貴女……確か影丸のとこの新入りね」

 そう言うと、少女はじっと私を見つめる。

「あ、あの……」

「……貴女はまだ要らないわ。どこへでも好きな所に行くといい。けど、チアキ。貴方は絶対に逃さない。四肢を切り裂いてでも夜叉の元に連れて行く。貴方は危険……生かしておくわけにはいかない。早急に二度目の死を迎えるがいいわ」

 千明が私の後ろから更に一歩、後ろに下がった。……こいつ、絶対私を置いて逃げるつもりだ。目に見えている。

 だって千明は昔から、自分が一番大切なんだから。

「ちょお待って。マジ待って。一旦落ち着かん? お互い勘違いや思い違いもあると思うんよなぁ、俺」

「待たない。時間がない。本当にふざけた男ね。馬鹿なフリをしているけれど……一体その頭の中ではどれ程の事を考え、計算しているのかしら? 本当に恐ろしい男……」

「いや、買いかぶりすぎやって! 俺はただのアホや! ……すまん、未奈都! 俺まだ死ぬわけにはいかんねん! あとは自力でその男を捜してくれ」

 そう言って千明は一人走り出す。『この、最低男!』と罵ってやりたいところだが、千明は生命を狙われている立場だ。見逃してもらえた私とはわけが違う。

 影音と呼ばれた少女は、一瞬顔を歪ませると私の目の前から突然消えた。そしてすぐに少し離れた場所から、「ひゃあ」と情けない男の声が聞こえてきた。

 影音がいなくなった事で、まるで金縛りが解けたかのように動きを取り戻した私は……取り敢えず千明が走っていった方角に急いで向かった。


「千明!」

 声がした方に走って行くと、霧の中に三つのシルエットが見えた。尻餅をついている影、鎌らしき物を振り上げている小さな影、そして、その鎌の柄の部分に手を伸ばし掴んでいる、背の高い影。

 私はその霧の中へと一歩踏み出す。すると、穏やかな声が耳まで届いてきた。

「こんなの持ってちゃあ危ないよ~。これは人を傷付ける道具だ。君には似合わない」

「――貴方は」

 少女は、突然現れた青年の顔をじっと見つめた。茶色の猫っ毛で優しそうな顔をした青年は、その視線にとびっきりの笑顔で応える。

「ねぇねぇ、君! 俺ね、夜叉に用があるんだ。良かったら、そこまで俺を案内してくれないかな? 森を行くにも話し相手がいる方が楽しいし! この人を追い回すのは別に後でもいいでしょ? ――ねっ?」

 この暗い世界に差し込んだ、お日様のような光。そんな印象を持つ青年は鎌からそっと手を離すと、無邪気に笑いながらそう言った。暫く黙って青年を見ていた少女は、小さな溜息を吐きながら……ゆっくりと口を開く。

「……いいわ。チアキ、命拾いしたわね。この人に感謝なさい。取り敢えず今は見逃してあげる」

 そう言って影音は鎌を引っ込めた。あれだけ執拗に千明の生命を奪いたがっていたのに……彼は一体、何者なのだろう?

「わっ、ありがとう! ――あのさ、ついでに図々しい事言っちゃうけど、少し彼らと話がしたいんだ。悪いけど、もうちょっとだけそこで待っていてくれるかな?」

「……ワタシね、この男の顔を見ているだけで殺したくなるの。だから、先に森の入り口で待っているわ」

 少女はそう言うと、重そうな鎌を地面に引きずりながら歩いていく。その姿はやがて霧に隠されてしまい、あっという間に見えなくなった。

 影音がいなくなった事でようやく緊張が解けたのか、一気に力が抜けた私は……「ふぅ~」と深くて長い溜息を吐いてから、その青年の元に駆け寄った。

「あ、あの! 助けてくれてありがとうございます!」

「んー? いや、いいよ。困った時はお互い様ってね! へへっ」

「……聞いた~? そんなところで無様にへたり込んでる千明くん。本っ当~に素晴らしいよね! どっかの誰かさんとは違って」

「……お前、絶対根に持ってるやろ? あの場合しゃあないやん! 俺殺されるとこやったんやぞ⁉」

「呆れた! あんた、自分が良けりゃあそれでいいわけ⁉ 最低っ!」

「ふはっ! 仲良いんだね、二人共。あっ、手を貸すよ。起き上がれそう?」

「……あぁ、悪いな。サンキュー」

 その太陽のような青年は千明に手を差し伸べる。千明は青年の力を借り、ゆっくりと立ち上がった。

「君……千明くん、って言うんだ。いやね、君がどことなく俺の知ってる女性に似ててね。……うん、雰囲気が瓜二つだ。だから、何だか他人には思えなかったんだよ」

「ふ~ん? それって兄さんの女かなんか? 女に似てるって言われるんも中々微妙な感じやけど……まぁええわ! 助けられたわけやし。ほんまありがとうな!」

「あの……貴方、名前は? 貴方も死んでしまったんだよね」

「うん、交通事故でね。えっと、名前は……うん! もう死んじゃってるしね。名前なんてなくていいや! 正義の味方Kとでも呼んで」

「あ、あはは。K……くんね」

「何か……兄さんも相当の変わりもんやなぁ。変な奴しかおらんのか、この世界は」

 目の前でケラケラと笑う青年は、確かに少し変わっている。けれど、何故か憎めない。その優しい笑顔から人柄の良さが滲み出ているから。そしてそれは、どこか仙くんに近いものを感じた。……まぁ、彼はここまで爽やかではないのだけれど。

「……じゃあ、そろそろ行こうかな。多分、俺はもうこの世界にはいないから、次に何かあっても助けてあげられないからね? くれぐれも気をつけて」

「えっ、じゃあ……貴方もしかして、夜叉に殺されにいくの⁉」

「ん~。そう何回も死ぬのは嫌だなぁ。夜叉さんに、殺さずこの世界から出してもらえるように頼んでみるよ。俺ね、人を捜しているんだ! やっと逢えると思っていたんだけど、そう簡単にはいかないようでさ。ははっ。けど……これでいい。再び彼女を見つけ出すまで、俺の物語は終わらないのだから。とにかくここにはいないみたいだし、もっと色んな世界を回ってみるよ」

「そっか、貴方も人を捜して――」

 その時……急に私の頭の中で、先程の千明の姿と言葉が思い浮かんできた。


『悪いけど俺な、捜してる人がおるねん。そいつは残念ながら森にはおらんのや。だから森には用がないの』


 ……そういえば、さっき千明も人を捜してると言っていた。ならばやはり、千明の死因は自殺? けど、何だろう……違和感を感じる。


「そっか、君も誰かを捜しているんだ。無事に逢えるといいね」

 そう言って、青年は優しく笑った。――不思議。これから夜叉に会いにいくのに、怖くないのだろうか? 寧ろ、何だか嬉しそう見える。青年はまるで、この世界そのものを楽しんでいるように見えた。

「……君も、何かの目的があるからあの少女に付け回されているんだろうけど……油断は禁物だよ? ――ね、世白千明くん?」

「――え? あんた、何で俺の苗字……あれ? 俺言ったっけ?」

「やっぱり、ね。ははっ、何という運命の巡り合わせかな? きっと全ては最初から繋がっているんだ。この狭い箱庭の中で沢山の物語が行き交い、混ざり合っている。これは始まりなのか? それとも終盤なのか? 過去、現在、そして未来が繋がって……新たな最終章が始まる。あ~! もう! その場に立ち会えなくて本当に残念だよ」

「? ……貴方、何言って?」

「そうだ! ねぇ、君の名前は何ていうの?」

「お、逢坂……未奈都……ですけど」

「じゃあ、みぃちゃんだね! 実はさ、君も凄く知り合いの子に似てるんだ。たった一度、落し物を拾ってくれただけで、その子は俺の事を知らなかったけれど……繋がりはとても深くてさ。出逢うべくして出逢った存在だった。一見弱々しくみえるけど、本当は誰よりも芯の強い女性だ。優しく愛情深く、人の闇を溶かす……俺はね、この世界では君もそうであって欲しいんだ。……みぃちゃん。強い心を持ち続けて。この世界は、君が思っている以上に悲しくて、残酷な世界だ。そして君達は、多分まだ……」

「――おいっ! 兄さん!」

 千明が大声を出して、青年の言葉を遮る。その千明の表情から、焦りと怒りが見て取れた。

「ふははっ、ちょっと余計な事を言い過ぎちゃったみたいだね。ごめんごめん! そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、千明くん。俺、もう行くしさ! ……みぃちゃんも、頑張るんだよ?」

 そう言うと、青年は私の頭にポンッと手を置いた。

「え……?」

 ――冷たい。まるで氷のように冷たい。

 ……あれ? またしても違和感が、だって……え? でも、それじゃあ……

 私は咄嗟に千明の方を見るが、千明はそっと私から目を逸らした。

「最後にもう一つだけ……千明くん。音だけでなく蟲には気をつけるんだよ? 君からは蟲の存在が色濃く感じるからさ。あれに取り込まれてしまうと本当に厄介だからね? ちゃんとわかっていると思うけど。――さようなら。今日ここで君達に会えて、本当に良かった」

 そんな意味深な言葉を残し、青年は霧の中へと消えていった。

「何やねん、あいつ……一体、どこまで知ってるんや」

「……ねぇ、千明」

 苛立ちを隠せないように、前髪を乱暴にかき上げる千明に声をかけた私は、スッと右手を前に差し出した。

「手、貸してくれない?」

「はぁ? 何で?」

「繋ぎたいから」

「あほか。気持ち悪い事言うなよ。うわぁ……俺、今鳥肌立ったわ」

 そう話す千明の事など無視し、私は無理矢理千明の手を思いっきり引っ張った。不意を突かれた千明は、余程驚いたのか……「うわぁ!」などと大袈裟な声を出す。

「……やっぱり。千明、どうして隠すの?」

「何が⁉ いや、俺マジで意味わからんのやけど」

「じゃあ、質問を変える。 ……私達って、本当に死んでいるんだよね?」

 私がそう言うと、明らかに千明の顔色が変わった。やはり、千明は何かを隠している。

「さっきの人の手……まるで氷みたいに冷たかった。けど、私の手も千明の手も温かい。まるで生きていた時と変わらない」

「……それで?」

「私ね……それについて少し考えてみたの。私の手が温かいのは、まだこのセカンドに来たばかりだからなのかなって。けれど……それだとずっと前からここに来ている千明の手が温かいのはおかしいよね」

 私がじっと千明を見つめると、千明は……今度は逸らす事なく、目を少しだけ細めて私を見返した。

「もしかして、私達の手が温かいのは何か理由があるのかもしれない……けど、今の私にはそれがわからない。だから、どうしてもその考えに行き着いてしまう。私達はまだ生きて――」

「死んどるよ」

 興味がなさそうに……吐き捨てるように……千明が私に言う。横を向くその瞳は、この灰色の世界よりもずっと暗く、淀んで見えた。

「俺らは間違いなく死んどる。手が温かい理由は、別に大した事やない。温度に差がある事をわざわざ言わんかったんは、ただ単にお前に変な期待を持たせたくなかったからや。ほら? 現にお前は今、この世界には生きてる人間と死んでる人間がおるっちゅー仮説を立てたやろ? 期待したやろが? お前の意中の相手も、もしかしてまだ生きてるかもしれんってな。淡い期待や望みはさっさと捨てる方がいい。余計辛い想いをする事になるで?」

 千明の言いたい事は何となくわかる。だって私は、この考えが頭をよぎった時……確かに期待してしまっていたから。私が仙くんに逢って彼に触れた時、彼の温もりを感じる事が出来たなら……私は彼の死自体を疑い、彼が死んでいるという事実を正面から受け止められなくなるだろう。一緒に、もう一度一緒に……元の世界に戻りたいと願う筈。

 私が彼と生きていきたいのはこんな哀しい世界じゃない。こんなに寂しい世界じゃない。

 元いた、緑の美しい……青い空の下なのだ。

 ……しかし、千明ははっきりと断言した。私達は間違いなく死んでいると。ならば、次に千明に聞きたい事は……

「千明……あんたは一体、誰を捜す為にここに来たの? 誰に……逢いたいの?」

 千明は、「やれやれ」と言ったように溜息を吐くと、ゆっくり口を開いた。

「彩芽っていう女や。俺の……一応彼女。いや、婚約者とでもいった方がいいんかな?」

「――アヤメって、もしかして夜叉の事⁉ 確か影丸が夜叉の名前は殺めると書いて女……殺女だって!」

「……違う。夜叉はまったくの別人や。偶然おんなじ名前なだけ」

「別人……ただ、同じ名前なだけ……?」

「おう。こっちは彩るに芽って書いてアヤメや。同じでもおかしくないくらい、そこら中にありふれた名前やろ? 珍しくも何ともないわ」

 まぁ……確かにアヤメという名前自体、そう珍しくはない。それに、さっき千明を襲った影音という少女……夜叉が千明の彼女なら、千明の生命を奪おうとする少女の事を、きっと止める筈だ。

 そして、千明がわざわざ私に嘘を吐く必要なんてない。……やはり、夜叉と彼女はただ名前が同じだけ。何の関係もない赤の他人なのだろう。

 ……しかし、人の生命を奪うといわれている夜叉と同じ名前だなんて、彼女もあまり良い気分ではないだろうな。

 彩芽さん……千明の婚約者、か。


「納得したか?」

「うん、まぁ……一応ね。それにしても、あの千明がまさか婚約してたなんてね」

「……ああ、婚約っていっても、ただの名ばかりやと思うけどな。てか、【あの】は余計」

 千明は頭を掻きながら、不満を私に漏らす。でも、これでようやく納得がいった。

「じゃあ千明は、その彩芽さんに逢う為にこの世界に来たんだね。……なんだ、それじゃあ私と一緒じゃない! いや、違うか。二人は既に両想いだし、婚約までしてるんだもんね」

 私が「ウンウン」と頷きながら千明の肩を叩くと、千明は気怠そうな顔で、小さく溜息を吐いた。

「……けど、千明も大切な人を失ったんだ。辛かったよね。私が言うのも何だけど……こんな世界まで追ってきてしまうだなんて、並大抵の想いじゃ無理だよ」

 私がそう言うと、千明はゲラゲラと声を上げて笑った。

「千明……?」

「ははっ! ほんまお前の頭ん中はお天道さんやな! 誰が後を追ってきたって言うた? 俺の方が彩芽より先に死んだかもしれやんって、そうは思わんの?」

「……え? じゃあ、彩芽さんが千明を追ってここまできたって事? でも、探してるのは千明の方なんだよね?」

「さて、それはどうでしょう? 最初に言った通り、そこはまだ内緒って事で! ……ほら、男はミステリアスな方がかっこいいって、俺言うたやろ?」

「……意味わかんない。あんたと話してるとほんと疲れる」

 私は呆れながらも近くにあったベンチに腰を下ろす。臀部から伝わるひんやりとした冷たい温度に、私の身体はブルッと震えた。

 この世界の【もの】は、どうしてこんなにも冷たいのだろう? 元の世界では、そろそろ夏も終わりに近付き、ようやく冷房を使わずとも良い季節になってきたというのに。

 しかし、だからといって真冬のように寒いというわけでもない。私が触れた人や物が、まるで氷のように冷たいというだけで、気温がそこまで低いというわけではないのだ。

 ……でも、嫌でも頭をよぎる。いつか、私のこの身体も体温を失い、歩く屍のようになってしまうのだろうか?

 黙り込む私の横で、千明は鼠色の空に目を向けたまま、そっと口を開いた。

「……なぁ? 俺が昔、何でお前と別れたか知ってる?」

「はい? 何でいきなりそんな昔の話を……」

「ええやん。ちょっと昔話に付き合えよ?」

 千明がにへらと無邪気に笑うので、私は仕方なく千明の昔話とやらに付き合う事にした。

「……確かあの時は、千明が他の女の子と浮気したからだよ。きっと千明は最初から私の事なんて好きじゃなくて、やっぱり友達の方がいいと思ったから別れたんじゃないの?」

 私はそう言いながら、隣に座っている千明の腕に軽く肘打ちを食らわす。けれど千明は、特にリアクションを取る事もなく話を続けた。

「俺な、友達の事は絶対に裏切らんって決めてんの。何があってもピンチの時は助けちゃる。守ったる。……お前をこのまま俺の女にしとくんは惜しいと思ったから、俺わざと浮気して別れたんやって」

「あの……意味がわかんない。ようするに千明にとっては、彼女より友達の方が上って事?」

「そ。女の事は俺、簡単に裏切れるよ? だって信用してへんもん。……けど、友達の事は絶対に裏切らん。お前の事をこの先裏切りたないから、俺お前と別れたんやし」

「……いや、浮気した時点で充分裏切ってるよね、それ」

「でも、お前もそれに納得したから、俺らは別れて友達に戻ったんやろ? ほならお前も、俺にそこまで本気やなかったって事やん」

「う、う~ん……」

 ――千明の事は確かに好きだった。一番気が合ったし、一緒にいると楽しくて楽だったから。……けど、千明に浮気されて一番最初に頭に浮かんだ言葉は、怒りや悲しみの言葉などではなく、『またか』の一言だった。

 だって、千明は昔からそうだった。女の子大好き人間だったけれど、決して誰にも本気にならない。

 好きだけど疲れる。好きだけどしんどい。それなら……友達でいる方が全然いい。

 だって千明は、友達にはいつも優しかったから。


「……あとな、俺が彩芽を捜してる理由は、お前みたいにお綺麗なもんやないねん。俺はこんな奴やから、誰かへの想いなんてもんでこんなとこに来たりはしやん。俺は俺のしたい事をする為にここに来たんや。お前もよう知ってるように、俺ってほんま自分勝手な人間やから」

 千明は私の頭をくしゃりと撫でる。そんな千明の顔は、少しだけ哀しそうに見えた。


「ちょっと失礼しますよ。お二方」

 突然背後から聞こえてきた声に、私達は急いで振り返る。そこには中性的な顔立ちをした美しい男の人が立っていた。黒の着物の上には紅色の羽織。赤い紐で、高い位置に括られた亜麻色の長い髪。現在では、あまり見かけないような風貌をしている。

 そのあまりの美しさに、思わず目を奪われていると、千明が小さく口を開いた。

「影蟲……」

「捜しましたよ、千明さん。本当に貴方って人は……目を離すとすぐにいなくなってしまうんですから。三度の鈴が鳴り終える程度の時間ですら、じっとしていられない。行動的なのは良いのですが、貴方の場合、あまり動きまくると殺されちゃいますよ? 私の可愛い子供達にね。――初めまして。未奈都さん、でしたよね?」

「えっ? どうして私の名前を……」

「あぁ、私一応ここの管理を任されておりましてね……取締役みたいなものでしょうか? 影蟲と申します。以後お見知りおきを」

「影、蟲……さん……」

 ――【蟲】。先程青年が言っていた、音と蟲。それって、もしかして……影音と、この影蟲という名の男の事ではないのだろうか?


『最後にもう一つだけ……千明くん。音だけでなく蟲には気をつけるんだよ? 君からは蟲の存在が色濃く感じるからさ。あれに取り込まれてしまうと本当に厄介だからね? ちゃんとわかっていると思うけど』


 あの青年の言葉を信じるなら、この影蟲と呼ばれる男は危険な筈。……けれど、あまり恐怖を感じられない。寧ろ、とても優しそうで……影丸や影音に比べると、一番話が通じそうな相手に思えた。


「何やねん、お前今までどこに行ってたん?」

「色々と準備をしていたのですよ。でも、それももう終わりました。……さぁ、千明さん。私と一緒に行きましょう。貴方がいないと何も始まらない。アレの愚痴も、私一人では手に余るのですよ」

「は? ちょっと待ってや。俺、こいつの捜してる奴を見つけたらなあかんねん。まだええやろ?」

「捜し人、ですか。ふむ……」

 影蟲はそう言うと、背後から私の目の前に、スッと移動をした。そして暫くの間、私の目を逸らす事なく見つめると……やがて、狐のように目を細めてニコリと笑う。

「……あぁ、成る程。わかりました。では、私が彼女を彼の元へと送って差し上げましょう」

 影蟲は私に左手をかざし、何やらまじないのようなものを唱え始めた。……すると、建物の後ろやベンチの裏側、草の中などからザワザワと小さな黒い影達が集まり、私の足をすくいにかかる。

 私はバランスを崩して、その塊の上に尻餅をついた。

 ニュルッと伸びた細い尾、ふわふわの毛の感触……間違いない、これは鼠だ。

「おい! 乱暴な事はすんなよ⁉」

「ふふっ、千明さん。私が女性に危害を加えるだなんて、そんな事をするわけがないでしょう? 男性はいつだって、女性には紳士的に振る舞うものですよ?」

「……どーだか。鼠の形をした影共に、女を担がせて運ばせるやなんて……紳士どころか野蛮人もいいところや」

 呆れた顔をした千明の横で、影蟲は愉快そうにクスクスと笑った。

「……では、これでどうでしょう? ファーストでは、確かこんな物語が存在しましたよね? 魔法の力で、かぼちゃを食べていた鼠は馬となり、そのかぼちゃは馬車となった。――さぁ、この世界での灰被り姫? それらが貴女を、必ずや王子の元へと連れて行ってくれるでしょう」

 影蟲がパチンと指を鳴らすと、その小さな影達は一瞬にして形を変える。座り心地のよい座席に、小さな窓。私は窓から顔を出し、外から自分を乗せているものの確認をした。……これは、カボチャの形をした馬車か? 前方には黒いシルエットの馬らしき生き物がいて、砂を脚で蹴っている。

 千明は大きく溜息を吐きながら、私の元にゆっくり歩いてきた。

「――未奈都。影蟲が送るって言うなら間違いないわ。仙って奴にもすぐに会えるやろ。なんか、何の役にも立てんくて悪かったな」

 柄にもなくそんな事を言う千明に、私は妙な違和感を覚えた。千明は、一度した約束は必ず守る。こんな風に誰かに任せて、中途半端に終わらせてしまうような男ではなかった筈だ。


***


「千明、もういいよ……こんなの絶対に見つかんないって。これで見つかったら奇跡だよ」

「馬~鹿。男はな、いや……俺は一度した約束は絶対に破らねぇの。これ、当たり前の事な。自分の言葉に責任持てねぇようなら、簡単に約束なんてすんじゃねぇよって話だろ? 俺、そんな無責任な男にはなりたくねーんだわ」

「そうじゃなくてさ! 私がもう、寒いし恥ずかしいし、早く帰りたいんだって~……ほら、歩いてる人皆クスクス笑ってるし!」

「はぁ~? んなの勝手に笑わせとけばいいじゃん? 周りの目なんて関係ねぇだろうが。ほら、無駄口叩いてる暇があるなら、とっとと手を動かす! 見つかるまで帰らねぇからな? 覚悟しとけ」

「そんなぁ~」


***


 当時お気に入りだったストラップを、川の中に落としてしまい……しかも、それがかなりレアな物だったから、中々諦めがつかなくて……仕方なく私は、靴と靴下を脱いで、水の中を探す事にした。

 秋も終わり、冬が始まろうとしていた季節。冷たい水の温度は、私の身体だけでなく、心までひんやりとさせた。それに加え、周りからの容赦ない笑い声が胸に突き刺さる。まるで見世物にでもなったような気分だった。

 そんな時……偶然そこを通りがかった千明が橋の上から、『おーい。手伝ってやろうか? 清水のおばちゃんのとこの焼きそばパン三つで手を打ってやるよ』とか言って、探すのを手伝ってくれたんだっけ。

 あの時、私がどれだけ止めても、見つけるまでは絶対に諦めなかった。……思い出してみれば、他にもそんな出来事が多々あったような気がする。

 暫く会っていない内に、千明は変わってしまったのだろうか? それとも……

「ねぇ、千明……千明も一緒にいこうよ。仙くんの事、紹介するよ」

 私のその言葉に、千明は首を横に振った。

「……悪い。俺、やらなあかん事があるから、お前と一緒には行けやんわ。それと……出来ればお前とは、もうこの世界で顔を合わせたくないから、最後に言っとく。こんな世界でやけど、俺な……久し振りにお前に会えて良かったわ! 助言しといたる。お前、もうすぐ最大の幸せを味わえるわ」

 千明はにししと歯を見せて笑うと、わしゃわしゃと私の頭を掻き回した。

 ――最大の……幸せ……?

「じゃっ、達者でな! ほな、影蟲。俺らも行こか」

「はい。では、未奈都さん……お気を付けて」

 影蟲がそう言うと、黒い馬はヒヒーンと声を上げ、一目散に走り出した。……千明と影蟲の姿が、私からどんどん遠く離れていく。

 最大の幸せ、か――

 きっと……もうすぐ仙くんに逢えるから、その事を言っているんだよね? 

「そうだよね? 千明……」

 馬は休む事もなく走り続ける。灰被り姫……シンデレラは、王子に逢う為に城へと向かう。深夜0時までというタイムリミットを迎えるまで、魔法はかかったままだ。

 ――このセカンドでは、魔法が解けてしまえばどうなってしまうのだろう?

 私は不安定な馬車に揺られながら……ただひたすら、そんな事を考えていた。

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