第6話
6
「ーーねぇ、未奈都。もしも変えられるとしたら……君は、過去と今と未来。どれを変えたいと願う?」
緑の海原に寝転んだ私達は、互いに淡いブルーの空を見上げながら、ひとときの会話を楽しんでいた。ふわふわとした緑のベッドに暖かい気候。草は悪戯に頬をくすぐり、柔らかな風は優しく髪を揺らしていった。
私は彼からの質問に「うーん……」と頭を捻らせながら、ゆっくりと口を開く。
「やっぱり……過去、かな?」
「それは、どうして?」
「だって過去を変えてしまえば、今だって……未来だって変わるでしょ? 一石二鳥からの、一石三鳥!」
私は寝転んだ状態のまま、Vサインから指を一本追加したスリーピースを作る。そしてそれを、空に向かって高く上げながら「へへっ」と笑ってみせた。
「……そうかなぁ? 過去が変われば、今の君はいなくなってしまうかもしれない。そうしたら、君と俺は……今こうして、こんな会話すらしていないのかもしれないよ?」
「う~……それは困る」
「素直でよろしい」
彼はゆっくり身体を起こすと、しょぼくれる私の顔を見て、クスクスと笑った。その笑顔があまりに眩しすぎて、私の胸は大きな高鳴りをみせた。
見上げると、彼の優しい笑顔……
見下ろす彼の瞳には、きっとトマトのように顔を真っ赤にした私の姿が映っているに違いない。
私は何だか気恥ずかしくて、素早く身を起こした。
「じゃあ、仙くんは? 仙くんは、過去と今と未来……どれを変えたいと思うの?」
「俺? 俺は……そうだなぁ。――未来、かな?」
「どうして未来?」
「……それは秘密」
彼は口元に一本だけ指を立てると、柔らかく朗らかに笑ってみせた。
――私が彼とこうしていられるようになってから、もう一年が経とうとしていた。彼とこんな風に話している時間だけが、私にとっての至福の時で……この世界に存在する苦しみや悲しみ、沢山のしがらみから解放される、唯一の時でもあった。
「あ。未奈都、これ……すっごいいい曲」
いつの間につけていたのだろう? 彼はイヤホンの片方を外して私の左耳につけると、小さな声で口ずさんだ。耳に流れる大音量の音楽より、彼の口からこぼれるその小さな歌声を拾ってしまうのは何故だろう?
イヤホンから聴こえてくるその曲も、彼の歌声も……とても優しく、美しくて大好きだった。
――恋とは不思議だ。彼の言葉一つで、私は簡単に一喜一憂してしまう。笑ったり、不貞腐れたり、悲しんだり……しかしその全てが、私にとって幸せな事のように思える。
……けれど、やはり苦しい。
未来で彼とこうして過ごしているのは、私じゃないかもしれないから。そんな未来なら……私、要らない。
私は自分に自信などないのだ。それに永遠に続く想いなんて、この世界にはきっと存在しないと思う。
ならば、私のこの気持ちは永遠ではないの? と聞かれると……答えは『NO』だけれど。
だって私は彼の事を考えただけで、この場に涙の泉を作ってしまうくらいに彼の事を愛しているもの。
これが所謂、矛盾というわけだ。昔の人達は、本当に上手い言葉を作ったと思う。
「――仙くん。大好きだよ」
私は彼の首元に手を回し、ギュッと強く彼を抱きしめる。……ちょうど曲は、素敵な恋の歌。けれどそれは、悲しくも報われない恋の歌でもあった。
彼に、私の想いが届いてたかはわからないけれど……彼は私を優しく包み込むかのように、そっと抱きしめ返した。
「……知ってる」
何だか泣きそうになった。
突然、私の目の前に現れた彼。
突然、彼の目の前に現れた私。
彼と出逢えた奇跡が、運命などではないとしたら……きっとこの世界に、運命なんて言葉は存在しない。
それ程までに彼は、私の深い部分にまでその存在を残し、一瞬にしてこの心を奪っていった。
私の事を好きでなくてもいい。……だからお願い。私から離れないで。このまま離さないでいて欲しいの。
たとえ彼の気持ちがどうであれ、私は彼がいないと……きっと駄目になってしまうから。
「……ふふ! 仙くんに抱きしめられるの、私凄く好き。何だか凄く安心するの」
泣きそうになるのを懸命に堪えながら……私は彼の、少し癖のある髪を優しく撫でる。彼はその手を取り、私を見つめながら、そっと呟くように言った。
「うん。じゃあ、ずっと抱きしめていてあげるよ。それで君が壊れてしまったとしても、ずっと」
……ああ、とても好き。
彼のこの温度も、言葉の使い方も……全てが大好きだ。
今まで沢山の恋をしてきたけれど、これ程までに人を好きになったのは初めてだった。
もしこの世の中に惚れ薬なんてものがあったとして、他の人を好きになるよう操作されようとも、私には何の効果も持たないだろう。
それほどまでに、私は穂積仙が好き。
「……ずっと一緒にいてね?」
その言葉に彼は答える事なく、私を抱きしめる腕に更に力が込められた。
……いつもの事だ。
わかっているのに同じ事を聞き続ける私は、きっと性格が悪いのだろう。
答えないのが、その答え……
きっと彼は、いつか私の前からいなくなってしまうのでしょう。
――初めて出逢ったあの日。貴方はこの草原で、気持ち良さそうに眠っていましたね。私が現れた事にも気付かず、ぐっすり熟睡していたっけ。
空が、とても似合う人だと思った。
緑の木々が、とても似合う人だと思った。
そうやって彼は、私の人生の中に……いとも簡単に侵入しては、そこに居場所を作っていったんだ。
彼は私に、陽だまりのような温もりを与えてくれた。
なのに……私は彼に、何かしてあげる事が出来たのだろうか?
***
「ん……あれ……私、寝ちゃってた……? 馬車も馬も見当たらない……どこからが、夢だったんだろ……」
目が覚めると、私はバス停のベンチの上で横になっていた。目の前には海が広がっている。
荒い波の音に誘われるように身体を起こした私は、ゆっくりとそちらに足を運んだ。
大きな波が、テトラポットにその身を激しく打ち寄せては、またひっそりと小さくなって戻っていく……
白いような黒いような空。灰色のような墨のような海。まるでモノクロ写真でも見ているかのように、色を感じられない。
「……哀しい海。そして、寂しい世界。ここにいたら、いやでも気分が沈んでしまう」
暗くて底の見えない……哀愁を漂わせる海面は、まるで私達の終わってしまった生命そのものだ。
「セカンドなんて世界……どうして存在するんだろう。人の生命なんて一つで充分。二度も苦しみを与える必要なんてないのに」
……けれど、その世界のお陰で私は彼に逢う事が出来るのだから、何だか皮肉な話だ。
私はゆっくりと沿岸を歩いた。海が見えるといっても砂浜があるわけではない。停泊している漁船が見える。どれもこれも薄汚れていて、ガタがきているのが一目でわかった。使われる事のない幽霊船の集まり。……ここは港だ。
コンクリートの上でカツンカツンと音を鳴らす。船一号、二号、三号の横を覗き込むが誰もいない。四号、五号、六号の近くにも誰もいない。
……けれど、十一号の付近で物音が聞こえたような気がした。次第に小さな鼻歌が聞こえてくる。それはどこか懐かしい、儚くて美しいメロディー。
私の心臓が、止まってしまうんじゃないかと思った。
私の終着点に今、辿り着いたような気がしたから。
私の足は、その声に誘われるように動き始める。
私の唇が、無意識に同じ音色を奏でる。
行き着いた先に見える後ろ姿。鼻歌がピタリと止んだ。それと同時に、私の口からも音が消えた。
大きな背中は海面から目を逸らし、ゆっくりとこちらに振り返る。私はそれと同時に声をかけた。
「仙くん、久し振り」
「……未奈都?」
振り返った彼の姿は、以前とまったく変わりない。
彼は私の姿を視界に入れると、ほんの少しだけ気まずそうに笑った。
「どうしてここに? ……駄目でしょ? こんなとこまで追いかけて来ちゃ、まったく君は」
一歩ずつ、彼と私の距離が狭まる。
「まぁ来てしまった事は、今更何を言ったって変えられないか。……久し振りだね、未奈都。また君に会えるだなんて思いもしなかったよ」
彼が私の頭にそっと触れる。冷たすぎるその手に、涙がじんわりと込み上げてきた。私はそれを隠すように、彼に強く言い放った。
「『駄目でしょ?』じゃないよ! 久しぶりに逢えたのに、どうして仙くんはそんなに普通なの! 人の気も知らないで」
「え~⁉ そんな事言われても……」
「感動の再会とかないわけ⁉ 『逢いたかったよ、ハニー』くらい言ってもよくない!?」
「『あいたかったよ、はにー』」
「……もういいです。っていうか、一体ここで何してたの? 仙くん、一人?」
「あ~、それは……ここでの生とはどんなものなのかとても興味深くて、色々と調べてるうちに他の人達は皆どこかに行っちゃったみたいで、俺だけここに置き去り。ま、それでもいいか~なんて思って魚の生態でも調べようと思ったんだけど、海真っ黒でしょ? 全然見えなくてさ。しかも俺泳げないし。で、これからどうしようかなぁ~なんて思ってたとこ」
そう言うと、彼は子供のようにケラケラと笑った。……生きていようが死んでいようが、何ら変わる事なく彼は彼のままだ。私は呆れたように笑う。随分と久し振りに交わされる会話の筈が、まるで昨日の事のように思えた。
「……で、結局仙くんから見たこの世界は、一体どんな世界だったの?」
「それがね、元の世界とあんまり何も変わらないんだよなぁ。正直もっと凄いの想像してたんだけど、大した事なくて拍子抜け。何だかあんまり面白くもないし、一言文句でも言ってやりたい気分」
明らかにがっかりして項垂れている彼を見ていると、何だか昔に戻ったような気持ちになれた。あったかくて、愛おしくて、どうしようもない。
けど……
「仙くん。私、ここに来て……その、迷惑じゃなかったかな?」
彼は私の問いに、頭を押さえながら「ん~」と唸ると、やがてゆっくりと口を開いた。
「馬鹿だなぁ~とは思うけど、迷惑なんかじゃないよ。しかし……本当に馬鹿だなぁ、君は。何も俺の為に自分の生命を犠牲にする事はないのに。何て言えばいいのかわからないけれど、申し訳ない気持ちになるよ」
そう言った彼の顔を何となく直視する事が出来ず、私は視線を地面に向けた。……申し訳ないのはこちらの台詞だ。
私が暫く黙っていると、頭上から彼の優しい声が降り注いだ。
「未奈都。少し話をしようか? 自らの意思で生命を絶った俺とは違い、君は俺に逢う為、自分の生命を棄ててまでこの世界にやってきた。なら、君と俺には何らかの違いがあってもおかしくはない。色々と知りたいんだ。だから……君が見てきた事、感じた事を教えて欲しいんだよ」
「仙くん。……うん、わかった!」
私は彼に、今までこの世界で起きた事の全てを話した。彼は興味深そうに私の言葉に耳を傾ける。影丸の事、影音の事、千明の事、不思議な青年の事、そして……影蟲の事。
しかし夜叉の事だけは、実際まだ会った事がないので……取り敢えず周りから聞いた事だけを口にした。
「影丸と影音……知らないなぁ。けど、影蟲は知ってる。ちょっと色々あってね、別に大した事じゃないんだけど。あ、あと! あの癖のある関西弁の青年は君の友人だったんだね。世間は狭いというか、何というか……けれど、何故か運命めいたものを感じさせられるなぁ。ここで君達が出逢った事に、何か特別な意味があるのかも」
「特別な意味、かぁ……」
「まぁ、夜叉については少し誤解がありそうだけどねー」
「夜叉⁉ もしかして仙くん、夜叉に会った事があるの?」
「うん、会った。とても穏やかで優しい人だったよ。それに美人だし。俺には彼女が恐ろしい存在には思えなかったよ」
美人という言葉にチクリと胸が痛んだが、私は何も気にしていない素振りで会話を続けた。
「そうなんだ。私この世界にきてから、夜叉について物騒な話しか聞いてこなかったから、何となく恐怖の対象として見ていたんだけど」
「それは良くないね。まずは何でも知ってみないと。何なら今から会いに行ってみる?」
「夜叉に⁉ ……けど、夜叉の森はここから随分離れてるよ? かなり長い時間馬車に乗っていたような気がするもの」
「夜叉の森は全ての森と繋がっているんだよ。だから、夜叉に会いたいと願いながら歩くと、やがて向こうの方から顔を出すだろう」
パラパラと舞い散る灰が、突然の潮風に吹かれてふわりと奥に飛ばされる。目で追ったその先に見える森林。……近くはないが、そう遠くもないようだ。
私は振り返り、彼を見る。彼は私を見てにんまり笑うと「面白くなってきた」と、まるで子供のようにはしゃいでみせた。
「……そうだね。仙くんを捜すのに必死で、すっかり頭から抜けちゃってたけど、私もこの世界の主に会ってみたいかもしれない。ちょっと怖いけど」
「大丈夫。何も怖くない」
「うん。仙くんがいるし、平気」
――そう。不思議な話だが、彼が傍にいてくれるだけで、私はどんな困難にだって立ち向かえるような気がするのだ。こうやって、冷静に話してはいるものの、私の心臓は生きている時と同じように、大きく音を鳴らす。けれど、とても穏やかな気持ちだ。
この灰色の世界に、薄っすらと色がつき始めたような気がした。
「それと……もう一つ気になる事が」
「ん?」
彼は私の頬にそっと手を添えた。
「……本当だね、温かい。その千明くんも、こんな風に温かかったんだよね? これが何らかの理由で死んでしまった側と、死者を追いかけてきた側の差というのなら、千明くんもまた君と同じで、後から来た者なのかも」
「どうだろ……? 正直、千明の事はよくわからないんだ。彼女を追って生命を落とすほど、情熱的に誰かを愛せるような人間には思えないんだよね。現にそれっぽい事も言っていたし。それに千明の話を聞いてると、どうも追いかけてきた側ではないような気がする。けど……それだと仙くんの言う、後から来た者の体温が高い説は成り立たない」
「うーん」
「先にこっち側にきた俺を彼女が追いかけてきたとは思わないんだ、みたいな意味深な事も言ってたし……けど、彼女を捜してるのは千明の方なんだよ。そこがわけわかんないんだよね。それだと普通、彼女が千明を捜してる筈でしょ? それに、先にこの世界に来たのが千明なら……どうして死んでしまったんだろう? わかっているのは、あいつは自分で死ぬような奴ではないって事くらい」
「なら、自殺ではなく不慮の事故。……あるいは、誰かに殺されたとか? 例えば、そう……その彼女に」
「なっ……! 殺された⁉」
「うーん、それでも辻褄が合わない。先に死んでしまった彼が、彼女に復讐する為にここに来るのは不可能だ。先に死んじゃってるわけだしね。では、彼女が先に死んでいたら? それじゃあ彼女に殺されたという説が成り立たない。しかし彼の体温が高かった事から、シンプルに後から来たと考えるのが自然。ならやはり純粋に、何らかの形で生命を落としてしまった彼女に会う為、影達のいう通りにし、この世界にやって来た…………いや、どうも腑に落ちない。彼の言葉から、どうしても良い意味での再会を願っているようには思えないし……」
彼はブツブツと一人呟きながら、グルグルと周囲を歩き回る。……そうか。彼に言われるまで思いもしなかったが、死には、事故死、病死、自死の他にも、【殺人】というのも含まれるのだ。
けど……
「千明が、誰かに殺された……?」
衝撃を受けずにはいられなかった。だって、あの千明が……? 昔からよく知ってる友人が、殺された? しかも彼の推理では、千明を殺したのが彼女……? それはいくらなんでも、話が飛躍しすぎてはいないか?
「……辻褄を合わせる事が出来る一つの可能性は見出せたかも。けど、まぁ……この話は少し置いておこうか。真実がどうかなんて、俺達が今どれだけ仮説を立てたところで、本人に聞かなきゃわからない話だ。……未奈都、大丈夫?」
「大丈夫……ちょっとびっくりしてしまっただけ。私ではその考えに至らなかったから。千明が誰かに殺されただなんて」
「あくまで仮説に過ぎないからね? だから、そんなに気にする事でもないよ」
「うん……そうだよね。何にせよ、本人に聞かなきゃわからない事だもんね」
そうは言っても、気になってしまうのは仕方のない事だ。だって千明は大切な友達だから。しかし、今……私がこの場でどれだけ悩んでいても無意味でしかないという事はちゃんと理解していた。わからない事をグダグダと考えているよりも、本人の口から聞く方が断然早いし、正確なのだから。
「……ねぇ、未奈都。千明くんって不思議な人だね」
「えっ?」
「ノリが良く場を和ませてしまう雰囲気を持ちながらも、一線先には決して踏み込ませない圧力を感じる。あの笑顔の裏で、一体どれ程の思考を巡らせているのだろう。実に興味深いよ」
彼は新しいオモチャを貰って喜ぶ子供のように、無邪気に笑った。……確か、影音も同じような事を言っていたっけ?
けれど、私から見た千明は、そんなに難しい事を考えているような人間には思えなかった。二人とも、少々千明を買い被りすぎているのではないのだろうか? ……それとも、私が浅はかなだけなのだろうか?
「……あ、そうだ! 私からも、一つ質問していい?」
「ん? どうぞ?」
「仙くんは影蟲に会った事があるんだよね? 彼を見てどう思った? さっき話した不思議な青年は千明に、『蟲には気をつけて』と言っていた。けれど私が見た限りでは、特に嫌な感じはしなかったし、寧ろ話のわかる良い人のように思えたから」
「ようは、『彼は悪か?』って事?」
「……うん」
「ん~……それは俺には答えられそうもないなぁ。俺には、君にとっての悪というものがどのようなものなのかがわからないから」
彼はそう言うと、苦笑いを浮かべた。
「君の思う悪と俺の思う悪が同じとは限らないだろ? 例えば君にとっては悪だとしても、俺にとっては悪ではないかもしれない。勿論、逆も然り。……でも、どうだろう? 俺から見た彼の印象は素直で無垢、そして強欲でもある。だからこそ簡単に悪になり得るのかもしれないね」
「素直で無垢なのに……悪?」
「純粋なものほど、たちが悪かったりするものだよ。ほら、子供と同じさ。悪気や悪意がない分、とても厄介じゃない? それに、まわりが悪だと認識していても、自分自身は悪だとは思っていない。いや、それどころか自分を正義だと信じて疑わない。正義と悪は、いつだって表裏一体なんだよ」
――黒よりも白の方が恐ろしい。
昔、彼が言った言葉を思い出した。
『人のイメージとは恐ろしいもので、白は潔白、黒は邪悪の象徴だと思いがちだけど……実は違う。この世界で一番恐ろしいのは白なんだ。元々白だったものが黒に染まってしまった時……それが一番恐ろしいんだよ』
元々黒だったものは、白を混ぜると灰色になり、黒以外の色を持つ事が出来る。まだ取り返しがつく。しかし、白を拒絶し黒を受け入れた白は、深い闇のような漆黒を生み出し、やがてそれは取り返しのつかない惨劇を引き起こすだろう……か。彼の言う正義と悪もまた、同じ事なのだろう。
「そもそも、人が生きる世界に悪ではない者なんて存在しないと思うんだ。それに……君にとっての俺も、もしかしたらとんでもない悪人なのかもしれないしね」
彼はそう言うとニコリと笑った。……確かに私にとって彼は悪人なのかもしれない。私の気持ちを知っていながら、決して振り向いてはくれないもの。
やはり貴方は風のような人だ。近付こうとすると逃げていき、触れようとするとすり抜けていってしまう……
「行こう、未奈都。こうしてる間も惜しい。俺達が動かなければ、いつまでたっても話は進まないのだから」
そう言って、手を差し伸べる彼。私はそっとその上に手を置く。触れる指先はまるで氷を掴んでいるように冷たいけれど、私の体温は確かに上昇していた。
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