第3話
3
「う……ん…………あ……れ、此処……は?」
仰向けで倒れていた私の視界を支配していたのは辺り一面の霧だった。
ゆっくりと身体を起こしてみるも、まだはっきりとしない頭と、焦点が定まらず安定しない視野は……その白い世界以外に、私に何の情報も与えてはくれなかった。
「此処は……どこ……?」
ようやく、全ての機能が活動を再開し始めたようだ。よく目を凝らして辺りを見てみると、私が今いる場所は、何処かの商店街のように見えた。薄暗く静まり返っているその商店街は、既に廃墟となったもののように思える。
瓦礫や木板で出入口が雑に封鎖されていた。
「……地元にある商店街とは何だか違う。かなり古びているようだし」
空は薄暗く、散らばる霧と飛び散る灰のようなものが……まるで粉雪のようにも、天から落ちて来た白い羽のようにも見えた。
――此処は一体、何処だ?
「私……確か、毒薬を飲んだ、よね……? けど、生きてる。今まで眠っていたところをみると……あれって単なる睡眠薬だったって事かな? それとも――」
普段、こうも一人でブツブツ喋っていると、決まって周りに変人扱いされてしまうだろうが……そんな事はどうでもいい。私は自問自答を繰り返し、何とか今のこの現状をまとめてみる事にした。
「睡眠薬だったって事は……眠っている間に私は此処に連れてこられた? あの、わけのわからない影に……?」
私が「う~ん」と唸っていると、微かに物音が聴こえたような気がした。耳を澄ませてみると、規則正しいリズムで土を蹴る音がする。
音がした方に目を向けてみると、少し遠くの方に薄っすらと人影が見えた。
それも数名、いや数十名か……もしかしたら軽く百をも超えているかもしれない。
私は即座に立ち上がり、ゆっくりその人影に近付くと……近くの電柱の後ろに身を隠しながら、そっと様子を伺った。
霧の中から次々と人が現れては、一列に並んで歩いていく。その姿からは全く生気を感じられない……まるで、幽霊の行進だ。
「人……? でも、何だか様子がおかしい」
真っ直ぐに前だけを見て歩いていく人達は、しきりに涙を流していた。大人も子供も老人も、男性も女性も。
それらは皆、無表情ではあったものの、私にはとても苦しそうに……悲しそうに見えた。
「……あれ? あの人、どこかで見た事がある。どこで見たんだっけ……?」
ここまで出てる。最近見た。絶対に見た。でもどこで……?
白髪交じりの灰色の髪。レンズの厚さが目立つ細いフレームの眼鏡。首の真ん中にある大きな黒子。
「――そっか! 朝の、テレビに出てる人だ。間違いない。けど……確か事故で亡くなったって、こないだニュースで」
その男は、いつもテレビで楽しそうに笑っていた。優しそうな笑顔がとても印象的だった。……だから、男がテレビの男と同一人物だと気付くのに少々時間がかかってしまった。今の男からは、絶望しか感じられない。
男は青白い顔をしながら、ヒョロヒョロと、脚を引きずるようにして歩いていた。
次々と続く行列の中には、見た事のある顔が少なからず存在した。それも、決まって既に亡くなっている顔触ればかりだった。それを見て、私は悟る。
「……此処は、本当に死後の世界なんだ。やっぱり死後の世界は存在したんだ! ……なら、きっといる。絶対にいる! 彼がこんな非現実的な事に対面しておきながら、さっさと成仏しているわけがない!」
不思議と恐怖などはなかった。それよりも彼にもう一度会う事が出来るかもしれない。その事に胸が高鳴り、恐怖など二の次、三の次へと追いやられた。
どうか、彼に会えますように。いや……きっと会える。
でなければ、毒を飲んでまで此処に来た意味がないではないか。私は彼に逢うまで、決して諦めない。
勿論、此処が死後の世界だとするならば……普通なら、彼はもう既に成仏とやらをしているだろう。あの列の終着点は、俗にいう天国や地獄かもしれないし。
けれど、彼はまだこの世界に存在している。そんな気がした。……ただの勘だが、予感とも言えなくはない。
とにかく不謹慎だが、私は……『どうか彼がまだ成仏していませんように!』などと、心の中で願いながら足を進めた。
少し距離を保ちながら、見つからないようにゆっくりと死人の後について行く。念の為に隠れているわけだが、はたして隠れる意味などあるのだろうか?
そもそも此処にいるという事は、私も死んでいるという事。ならば、堂々と行列に加わり、ついていけば良い話だ。
しかし、それをしないのは……自分の中で死んでいるという概念がなかったからだと思う。開いた手のひらはとても血色が良く、当たり前のように生を実感させた。
(……? あれ? あれって、もしかして)
亡者から離れているこの位置から、何となく確認が出来た横顔……それは私の、古くからの友人に酷似していた。
しかし、その男は高校を卒業したと同時に関西の方に越して行き、暫く続いていた連絡も途絶え、それっきり。百パーセント本人だと断言するには少々時間が経過し過ぎている。
高校時代、短期間だけ交際をしていた事もある相手なのだが、結局は互いに友人関係に落ち着いた。その頃は金色のサラサラした髪だったが、視線の先にいる男は黒髪でパーマ。単に顔が似てるだけでは判断のしようがなかった。
ただ、共通の友人が『こっちであいつに似た男を見た』と言っていたのを聞いた事があるので、もしかすると……知らない間にこちらに戻ってきていたのかもしれない。
だとしても、あいつが死んでいるなんて有り得ない。人類が滅亡しても、一人生き残っていそうな人種だ。きっと、他人の空似であろう。
「あいつの筈がないよね。あいつが、死ぬわけないもの……」
私は自分にそう言い聞かせると、尾行を再開した。知人に似た男の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
白い靄に包まれた道をひたすら歩き続けると、突然目の前に建物が現れた。
ここは、工場……跡?
商店街といい、工場といい……想像していた死後の世界とはまったく違う。
きっと、全国のオカルトや超常現象等の懐疑論者達も驚く事だろう。
この世界は、現実世界とほとんど何も変わらない。
歩く亡者達は工場横をすり抜けて、角を曲がっていった。私も急いでその後を追おうとしたのだが、突然誰かに左腕を引かれたので、驚いて後ろに振り返った。
「やぁ。来たんだね」
大きく真っ黒なローブを着た少年は、にこりと笑う。目線を下の方にずらすと、素足がひょっこりと顔を覗かせていた。色素の薄い肌の色は、土や泥のせいで少し薄汚れている。
「でも、ここから先は行かないで。今すぐルートを変えて欲しいんだ。この先には森があり、そこには夜叉が住んでいるから」
「夜叉……?」
「そう。僕らは彼女の事を、『アヤメ』と呼んでいる。殺すに女と書いて、『殺女』。憐れで哀しい女さ。森に入れば、君も彼女に殺されてしまうかもしれないよ」
少年は手を口元に運び、クスクスと笑った。
突然現れた少年の姿に少しだけ警戒してみるが、今すぐ取って食おうという感じでもない。
それに、どこか懐かしさを感じさせるその声は、『もしかしたら彼に会えるかも』と喜んだ反面、どうしようもない不安と話し相手が誰もいないという孤独が渦巻いていた私の心を、ほんの少しだけ落ち着かせた。
私は少年に問いかける。
「……殺す、って。私達はもう既に死んでいるんでしょう?」
「あははっ! 人にはね、実は二つの生命があるんだ。現世で死を迎えた後は、この世界での生が始まる。その二つを失って初めて、人は真の死を体験するって事! ちなみに」
少年はゆっくりと行列を指差すと、再び口を開いた。
「あの人達はね、もう二度生命を失ったんだ。だからああやってこの世界をぐるっと一周してから、森の奥にある沼に沈むんだよ。この世界に来て早々、アヤメに殺された者も沢山いる。まぁ、森に近付かない限り大丈夫だよ。……多分、だけどね」
少年の揃った前髪がさらりと揺れる。アッシュグリーンの髪色がこの灰色の世界で美しく際立ってみえた。
「人は二度死ぬと全てを失う。そうして……この世界からも消えるんだよ。いつか、全員が、ね?」
「貴方……私のところに来ていた影でしょう?」
「あれれ? 鋭いね。どうしてわかったの?」
そういって少年は、別段驚いた素振りも見せず口角を上げる。行列の最後尾は既に角を曲がっていて見えなくなっていた。
私は少年の瞳を見つめながら口を開く。光を持たない漆黒の眼孔は少しも揺れる事のないまま、じっと私を見返した。
「貴方、どんな姿の時でも笑う時に絶対左手で口元を隠すもの。そして右腕はいつもダランと下がったまま。……その右腕、動かないの?」
「……へぇ。よく見てるんだね。愛しい男の事しか見えていないと思っていたけれど、観察力は申し分ない。そう、僕のこの右腕は単なる飾りでガラクタでしかない。別に困りはしないけどね」
少年はちらりと右腕に目をやるが、すぐに逸らして再び私を見つめた。
「ようこそ、ミナト。人の云う死後の世界へ。僕らはこの地をセカンドと呼んでいるけどね」
「セカンド……? 二番目だから? 随分と短絡的な発想ね」
「そうかなぁ? シンプルでわかりやすいでしょ? ミナトが数時間前まで居た世界がファースト。孤独の世界さ」
「孤独の……世界」
「そう。あの世界で生きている全ての者は皆、孤独に苛まれてる。そしてそれは、あの世界にいる限りどうしようもない事なんだ。誰もが決して救われない。独りで生まれ、独りで死ぬ。人に殺され、人を殺す。勿論、肉体的にというわけじゃない。それよりもずっと厄介な精神的に、ってやつだね」
「なら、このセカンドは……一体、何の世界なの?」
私が少年に問いかけると、少年は眉を下げ、半ば呆れたように口を開いた。
「……馬鹿だなぁ、ミナトは。少し考えればわかる筈なのに。そう、セカンドは解放の世界さ。此処にいる限りは皆が自由に、全てのしがらみを捨て、おもうがまま生きられる。もう誰かの顔色を伺う事もない。我慢なんてする必要はない。何かに怯える事もないんだ。此処には筆頭者なんていないし、代表者なんて存在しないからね。此処は、皆が平等に暮らせる……とても優しい世界だよ」
「全ての人間が、何の我慢もせずに生きるだなんて……それじゃあさっき貴方が言ってた『人を殺し、殺される』にも充分該当するわよね。……勿論、肉体的に」
「そう、その通りだよ。君は賢いね、ミナト。けれど、人が人を裁くのは認めない。人を裁く事が出来るのはこの世界でたった一人……夜叉だけだ。夜叉だけが自由に殺生を行える。自由に好きな者を殺し、生かす。歯向かったり、他者を殺めた者は夜叉が罰する。それ以外の事なら自由にすればいい。けれど、いつかは皆……夜叉に『殺されたい』と願い、『殺してくれ』と懇願するだろう。なんだかんだ言って人は、孤独を愛する生き物だから」
私には少年のいう事がよくわからなかった。言っている事がイマイチ要領を得ないし、矛盾だらけのように感じられたからだ。そもそも、何故人が二度目の死を求めるのか? まぁ……自ら生命を断ち、此処に来た人達ならわからなくもない。死んだ筈が、目覚めるとこんな場所にいて、『二度目の生命が始まる』なんて言わた日には『ふざけるな』と憤慨する人も中にはいるだろう。しかし、それなら殺されるのを待つよりも、自分で死ぬ方が断然早いし、死ぬと殺されるとでは恐怖心も違うだろう。それなのに……何故、わざわざ頼むというのか。
夜叉とは、一体……
「僕、そろそろ行くよ。夜叉……殺女が寂しがってるといけないからね。そうだ、ミナト。君の想い人は随分とユニークな男だね」
「! 仙くんに会ったの⁉」
「彼はとてもこの世界を気に入ったようだ。それに、まだ夜叉にも殺されてはいない。そのうちにきっと会えるよ」
少年はそう言うと私に背を向け、左手を上げた。
「じゃあね、ミナト。精々、二度目の生を楽しんで」
「ちょ……ちょっと待って!」
私の声に振り返った少年は、目を丸くしながらこちらを見た。
「貴方……名前は? 名前は、何て言うの?」
そう尋ねると、少年は小さく笑いながら優しい笑顔を私に向けた。
「僕の名前は影丸。名前なんてものは本来持ち合わせていなかったんだけど、気が付けば皆が僕をそう呼んでいた。ふふっ、実は結構気に入ってるんだよ。どんな生き物も名を持ち、初めて生命を得る。特別なものとなる。誰でもない自分になる事が出来るんだ。……逆に己をその肉体に縛り付けてしまうのも、悲しいかな名というものなんだけどね」
「カゲマル……くん」
「影丸でいいよ、ミナト。じゃあ、今度こそ行くね。――バイバイ。どうせまたすぐに会う事になると思うけど」
影丸はそう言い残して、ゆっくり角を曲がっていった。きっと森に行くのだろう。『夜叉が寂しがっている』と言っていたし。
けれど……
「夜叉……? 何それ、わけわかんない。そんな者の存在を認めろっていうの……?」
――夜叉は人の生命を奪う。
その言葉が、私の耳から離れてくれない。彼は、仙くんは……本当に無事なのだろうか?
しかし、今の私には何の手がかりもない。この世界がどれ程の広さなのかも、検討すらつかない。
とにかく、何が起こるかわからないこの状態で闇雲に歩くのは得策じゃないと思った。
私は大きく深呼吸をした。死人の世界だというのに、空気が美味しいだなんて何だかおかしな話だ。
――雨の香りがする。気付けばポツポツと雨が降り出していた。静かな世界で唯一音を鳴らす雨粒は、何故か私の心を深く落ちつかせた。
ひんやりとした空気が、少し肌寒い。死んでいるのに寒いという概念があるのが不思議でたまらなかった。本当なら、死んでしまった私の身体は体温を失い、氷のようになっていてもおかしくないのに。
私は確かに、この世界で生きている。
この、セカンドと呼ばれる世界で。
「……仙くん、濡れてないといいけど」
とりあえず私は工場の中に入り、すぐ側にあった階段を登ってみた。そこら中の窓は割れていて外は丸見えだが、降り出した雨に打たれるよりはずっといい。
窓の外の灰色の空はどんよりとしていて、今の私の心境を物語っているようだった。私はカンカンと甲高い音を立てながら上を目指した。
「追ってきたはいいんだけど……これからどうしようかな。何の手がかりもないんだもの。雨だって降ってきたし、暫くここで雨宿りして時間を潰すしかなさそう」
私は、窓枠のすぐ側で三角座りをしながら、そこから見える景色を見ていた。ここは三階。目の前には真四角の穴が空いた空間。
「ここから落ちたら死ぬよね……多分」
そんな事を思いながらも、私はその空間に脚を放り出し、振り子のように揺らしてみる。あいにく脚はズンッと長く伸びていた屋根に守られていたので、少しも濡れずに済んだ。
空を舞っていた灰は、少し勢いが出てきた雨に掻き消され、その跡すら残す事はない。
此処は天国なのだろうか? それともやはり地獄なのだろうか? 私には、此処が地獄には思えない。けれど、天国だとも思えない。
此処は一体、何なのだろう?
「静か……何だかとても哀しくて寂しい世界。そりゃそうか。楽しい世界の筈がないよね」
彼は、この世界の事をどう思っただろうか?
この世界と彼は、何だかとても似ている。まるで、彼自身がこの世界を作り出したかのようにそっくりだ。そのせいか、この空を見ていると胸が苦しくて悲しくなる。
きっと、あの頃の彼の心はこの世界のように灰色で……ずっと、雨が降り続けていたに違いない。
それなのに、彼はいつでも本心を見せてはくれなかった。私も無理に聞き出そうとはしなかった。
雨に凍えて泣いているであろう彼に、傘を渡す事も出来ずにいたんだ。……いや、きっと私が傘を渡せたとしても、彼はそれを受け取りはしなかっただろうけど。
「結局、生命ってこんなに呆気なく終わっちゃうものなんだね。やろうと思えば誰でも簡単に死ねるし、人の記憶からもすぐに忘れ去られる。今まで生きてきた証なんて何も残らない。かろうじて残っていたとしても、それも長くは続かない。だって、それ以上にあの世界には人がいるのだから」
降り出した雨は、いつか止むだろうけど……この灰色の世界は、以前いた世界のような青々とした美しい空を生み出すのだろうか?
今の私には、この曇り空のような灰色の空が妙に心地良い。真っ黒なくらいに後ろ向きでなければ、真っ白なくらいに前向きでもない。
此処がどのような世界なのか、私にはまだわからないけれど……彼を失って、死人のように息をしていた世界より、よっぽどマシだと思えた。
私が彼と出会ったのは、もうすぐ冬も終ろうとしている頃。彼の最初のイメージは、優しくて、 親切で、明るく聡明な人。
でも蓋を開けてみたら、とても子供っぽい一面を持っている人だった。
私はすぐに彼を好きになった。私にはないものを沢山持っていた彼が、とても魅力的に思えたからだ。
『ミナトがそう思うのは、君が俺の事を好きだからだよ』
彼は私にそう言った。よく考えてみたら、単なる冗談だったのかもしれない。ノリだったのかもしれない。けれど私は自分の心の中をいとも簡単に見破られてしまったような気がして、思わず『そう。私、仙くんの事が好きだよ』。……そう返したんだ。
だからと言って何も変わりはしない。彼と私の道はいつだって平行線で交わる事も絡み合う事もない。
ただ互いにわかっているのは、私は彼が好きで、彼は私の事をそういう目で見てはいないという事だ。
それでも良かった。彼を好きになった事に後悔はなかったから。
彼は、他の誰よりも一生懸命生きている人だった。後悔のないように生きたいから、自分がしたい事、やれる事は何でも挑戦する。何を犠牲にしても、自分自身を犠牲にしても、頑張りすぎてしまう彼がとても痛々しく見える事があった。
イタイ。
彼はとても優しかったけど、私は彼のその優しさが好きではなかった。外から見ると羨ましく感じるその優しさも、中から見ると少々残酷なものだと感じる事が多々あったから。
クルシイ。
――そう、私は欲張りだ。とても。
好きでいられるだけで幸せ、と口に出してはみるものの、本当は彼の全てが欲しくてたまらなかった。
アイサレタイ。
言えない気持ちが膨らんで、醜い自分が顔を出す。卑しい。みっともない。……愚かだ。
ミジメダ。
こんな所まで追いかけてきた私を、彼は気持ち悪いと思うかもしれない。怖いと思うかもしれない。
ううん、彼はそんな人ではない。……けど、きっと困る筈だ。
キエテシマエタラ――
「……ははっ。何やってるんだろ、私。もういっそ、彼に会う前に夜叉に殺されちゃってもいいかも」
――おかしい。何かがおかしい。その事に気付いているのにネガティヴな感情を抑え込む事が出来ない。
気持ちが下降して闇に飲まれてしまう感覚。急に涙がポロポロと溢れ出した。思わず口を真一文字に噤む。うまく自分をコントロール出来ない。
ああ、どうしていつも私はこうなんだろう。
こんなんじゃ私、彼に嫌われてしまう。
こんな私なんて……
イナクナッテシマエバイイノニ。
そんな事を考えた時、突然後頭部に鈍い痛みが走った。どうやら背後から思いっきり頭を{叩}(はた)かれたようだ。
手加減なしで与えられた痛みは、私の隠していた本音、ネガティヴな思考を無理矢理停止させた。すぐ後ろから、少々訛りのきつい言葉が聞こえてくる。
「姉さん、あんた影に憑かれとるわ」
――影に、憑かれてる?
「うだうだ悩んどったらその身体、一瞬で奪われてまうで? 此処では弱い奴はすぐ闇に喰われてまうからな。どこぞのアホが、呑気に雨宿りしとるなぁって下から見えたから上がってきたけど、正解やったみたいやな。あんた、この世界に来たばっかりやろ? 何も知らんのやったらとりあえず警戒せぇよ。隙ありまくりなんやって、自分」
その不躾な男は、頭を押さえる私に気を使う事なくベラベラと話を続ける。確かにモヤッとした嫌な気持ちは一瞬にして晴れてしまったが、今度はこの言われっぱなしに対する苛立ちをどうも抑えきれそうにない。
「それはどうも、ご忠告ありがとうございました!」
私はキッと睨みつけながら、男の顔を見た。
「え……?」
そこにいたのは、先程行列で見かけた知人によく似た顔の男だった。よく似た、というか……目の前で見てみると、似てるどころの問題じゃない。
そこにいたのは間違いなく、正真正銘【世白千明】本人であった。
「……千明? あんた、千明でしょ⁉ 私の事わかる⁉」
私の言葉に、目の前の男は目を丸くした。
「……お前、もしかして未奈都か?」
「そうだよ、未奈都だよ! 逢坂未奈都!」
千明は、思わず耳を塞ぎたくなるような大声を上げながら、私の両肩を強く掴んだ。
「おーっ! おまっ、めちゃくちゃ久しぶりやんか! 元気にしてたんか⁉ 何や、めっちゃ地味になりよるからわからんかったわ」
「いやいや、あんた今まで何してたのよ⁉ 引っ越してから、いきなり連絡通じなくなるし……皆心配してたんだよ?」
「あー……ちょっと色々あってな。和歌山の方で暮らしとったんやけど、実は二年前にこっちに戻ってきとってん」
そういうと千明はにへらっと笑った。この、思わず力が抜けてしまうような笑顔はちっとも変わっていない。
突然の再会に張り詰めていた空気や心が緩んだような気がした。目の前には懐かしい顔。この静かな世界で、それがどれ程心強いかわかるまい。
「しかし、影に取り込まれそうになっとる馬鹿女がお前やとはなぁ。気ぃつけなあかんで? 此処ではいつ何時も油断は禁物やからな」
千明の大阪弁とは少し違うそれは、私の知っている千明とは異なっていて、何だかとても新鮮だった。
口の悪さは言葉遣いが変わろうが以前のままに違いないが。
「……そんな事より、何で千明がこんなところにいるのよ?」
「いやいや、それはこっちの台詞やって。お前何でこんなとこにおんの? 何で死んでもたん?」
千明の鋭い眼光が私に向けられる。私はふぅっと溜息を吐くと、すぐ隣の床をトントンと叩いた。
「とりあえず座りなよ。ちゃんと説明する。私だって聞きたい事は沢山あるんだから」
私がそう言うと、千明は何も言わず豪快に地べたに座り込んだ。
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