第2話


 風の通り道を行けば……もう一度、彼の元へ辿り着けるだろうか?

 そんな事を考えながら、私は柔らかく生暖かい風に包まれ、まだ明けたばかりの空を一人ぼんやりと眺めていた。

「……綺麗」

 誰に言うでもなく、無意識に口から出た言葉に、小さな溜息を吐く。

『溜息を吐くと幸せが逃げていってしまう』というのが真実ならば、私は一生不幸のままだろう。

 いつからこんなに自虐的になってしまったのだろうか? まぁ、答えは言わずともわかっているのだが。


 私には、とても好きな人がいた。

 多分この先、私の前に彼以上の人は現れないだろう。そう断言出来てしまうくらいに、私は彼の事が好きだった。

『何故、好きか?』と尋ねられても、恐らくちゃんとした理由を答える事など出来ないし、『どこが好きなの?』と聞かれ、『全部』だなんて……それこそ適当にも聞こえるような言葉で簡単にまとめてしまえるような、単純な気持ちでもなかった。

 私にとって彼の存在は、この世で生きていける理由そのものだったのだから。

 まぁ、今更私がどう思おうが……やはり無意味で無価値な事に変わりはないのだけれど。


 私は再び朝焼けの空に目を向け、思った。

 彼と共に朝を迎え、この空を二人で見上げる事が出来ればいいのに……

 きっと彼は優しく笑いながら、色んな話を私に聞かせてくれる事だろう。私はその声に耳を傾ける……それだけで私は、この先一生分の幸せを手にする事が出来るんだ。……そう思えてならなかった。

 彼の話を聞くのが好きだった。どんな話も私の中にはない、新鮮かつ魅力的なものばかりだったから。

 小さくて狭い私の世界は、本当にちっぽけで……『外に出たい』と叫んでみても周りの壁が邪魔をして身動き一つ取れやしない。

 押しても引いても意味はなく、壊せるような道具は一切見当たらない。私はいつものようにヒッソリとその場にしゃがみ込み、一人涙を流すだけだった。

 彼は、そんな私の小さな箱をノックして……広くて美しい草原へと、私を連れ出してくれたのだ。

 どこまでも続く青い空が、『この世界は果てしないのだ』と教えてくれる。

 私はいつも思っていた。目の前にいる彼の世界は、どれ程までに広いのだろう?

 とにかく、好きで好きでたまらなかった。けれど、どれだけ想っていても……叶わない事もある。

 だから私は、『たとえ想いが繋がらなくとも別に良い。この想いは永遠に、あの狭い箱の中に』。そう思っていたのだ。

 それなのに、彼は死んでしまった。誰にも何も告げず。たった一人で、ひっそりと……

 私が彼の死を知ったのは、手紙が届いたからだった。


 差出人、穂積仙。

 宛先、逢坂未奈都。


「……本当に、一生逢えなくなっちゃったんだね」

 私はそっと呟いた。


 彼は雲のようにのんびりとした性格で、太陽のようにいつも眩しく輝いていた。

 広い海や空、山のように寛大で、大らかだった。人々の心を魅了する美しい花のように、社交的で魅力的でもあった。

 彼の言葉は、美しく穢れのない水のようだった。私はこれ程までに、美しく……心の奥にまで染み渡っていくような言葉を知らない。私は彼といる時だけは、素直に、無邪気に笑う事が出来たんだ。

 しかし、そんな彼は……時に冷静な月のように物静かに思考を巡らしては、遠くを見つめている事が多かった。


『自分が、何処に立っているのかわからなくなる』


 そう呟いた彼に、私は気の利いた言葉一つかけられずにいた。

 この時から既に、彼が何処か遠くに行ってしまうんじゃないかと不安に思っていたのだが……いくら何でも遠すぎやしないか?

 もはや別世界、意思の持たない拒絶だ。

 ようするに私は二度と、彼には逢えない。


 今、彼がいるであろう世界。真実だけを見据える彼の、その瞳に映る世界は……一体何色をしているのだろうか?

 私は思った。彼のいる世界に行きたいと。彼が見ている世界の住人になりたいと。今まで、何度そう願っただろう。

 この世界の汚さも醜さも、綺麗さも美しさも、彼となら全て知っていける。そんな気がしていた。

「……わかっているよ。いくら思っても無駄だって事くらい」

 だって全ては、儚く消え去る夢まぼろし。見えないものに縋り付き、信じていたって……彼がそこにいないと意味がない。

「でも、じゃあ……私のこの想いは、一体どうすればいいの? どうして、いつもいつも私を置いてどこかに言っちゃうの? 貴方にとって私の存在ってなんなの……」

 私は決して賢くはない。けれど、そこまで馬鹿でもないと思う。とんでもなく優秀か、とんでもなく大馬鹿者なら、これ程までに苦しまずにすんだのだろうか? 中途半端が一番厄介でタチが悪い。立ち直る為の知恵を見出す事も出来ず……かと言って、全てを簡単に忘れてしまえるくらいに楽観的にだってなれる筈がないのだから。

「忘れられるなら、全部忘れてしまいたい」

『そんな事は到底無理だ』そう理解していながらも……私の口より勝手に飛び出ていった言葉は、自由気ままに宙を浮遊した。

 叶わない恋心に、『忘れなさい』と時間が語りかけてきて……もう二度と逢えない距離に、『諦めなさい』と心が諭す。

 そのせいか、彼を想って泣く事も少なくなった。……単に涙が枯れ果ててしまっただけかもしれないけれど。

 私は決して強くない。かと言って……全てを投げ出して逃げてしまう程、弱くもなかった。しかしそれは、あくまで彼が傍にいてくれたからだ。

 彼のいないこの世界は、完全に色を失った。

 私は今すぐ全てを捨て、この地より消えてしまいたいと思い始めていた。

「……私がどれだけ救われてきたか、貴方にはわからないでしょう? 貴方が何気なく発した、特に意味など持たないであろう言葉も……私には、いつだって特別だった。貴方が忘れてしまっているような、些細な内容でも……私の中にはしっかりと刻み込まれていたんだよ。それなのに貴方は、伝えたくても伝えられない……そんな遠くに行ってしまった」

 ――もう二度と、逢えない。


「ねぇ、仙くん」

 貴方は今でも、旅をしていますか?

 この地から離れた今、何に囚われる事なく、貴方は貴方らしく過ごせていますか?

 貴方が今いる世界は、貴方が望んだ通りのものでしたか?

 そこでは、貴方を苦しめるものはありませんか?

 ……出来る事なら、貴方のいる場所まで行って貴方に触れたい。思いっきり貴方を抱きしめたい。

 仙くん。貴方に出逢うまで、私はきっと……愛する意味をはき違えていたの。

 今まで沢山の恋をしてきたし、愛するという言葉の意味だって、自分なりにわかっていたつもりでいたけれど……それは全て間違い。勘違いだった。

 貴方と出逢い、私は初めて愛を知ったのだから――

 馬鹿みたいだけど、私ね……貴方に逢う為に生きてきたんだって思うの。

 毎日が精一杯だった私は、ただ美しいものを美しいと思う事すら出来ずにいた。何もかも、そこに有るのが当たり前だったから。

 けれど貴方に出逢ってから……空も、雲も、星も、山も、海も、全てが美しく見える。

 雨も、虹も、花も、草木も、月も、太陽も、涙が出るくらいに美しくて、朝も、昼も、夕方も、夜も……この世界は、沢山の美しさで溢れていたんだ。

 ――それなのに。

「どうして……死んじゃったの?」

 止められなかった。いや……知っていたとしても、私はきっと止めなかっただろう。

 彼が決めた事に口を出す権利など、私にはない。

 どれ程悲しくても、どれだけ辛くても……彼が悩み、苦しんだ末に選んだ道を、私は受け入れる事しか出来ないのだから。

 それに逆の立場なら、私は必ずこう思う。

 いくら周りの人達を泣かせてしまう事になろうが……止めないでいて欲しい。

『生きていけるなら生きていた』、……ただそれだけの話。


「――やぁ、調子はどうだい?」

 突然背後から聴こえてきた声に、私は構う事なく空を見つめ続ける。

「なんだい、つれないなぁ~」

 その黒い影は、素早く私の膝の上に飛び乗ると、ゆっくりくつろぎ始めた。

「今日は……猫、なのね」

 私の膝で、影はわざとらしく「ごろにゃん」と喉を鳴らす。

 昨日は老婆だった。その前は大きな蛙。その前は鳶だ。この影の正体を勿論、私は知らない。けれど、あまり気にとめてはいなかった。こうやって、突然現れては話しかけてくるけれど、特に不快な気持ちになる事もない。

 流石に最初は驚いたが、次第に私は『もしかしてこれが、イマジナリーフレンドというものなのか』などと考え始めていた。悲しみに耐えられなかった私自身が、自分を慰める為に空想の友人を作り出したのだと。それならば、この影は紛れもなく自分自身。拒絶するのも、あまりに素っ気ない話だ。

 しかし、この【友人】は……あいにく、私を慰めたりはしない。寧ろ、死を勧めるような言動がとても多く見られた。

「愛しい男に会いに行かないのかにゃ? 酷くやつれた、醜い顔をしているにゃ」

「……そのわざとらしい話し方やめない?」

 私は深く溜息を吐く。影猫は膝からピョンと飛び降りると、振り返りこう言った。

「ミナトは逢いたくないの? 誰よりも愛しくて堪らないヒトに」

「そんなの、会いたいに決まってる」


 私はいつも思っていた。

 風になれば、彼の元に行けるだろうか?

 あの高い山を越え、どこまでも続く広い海を渡り、空中を泳ぐように進んでいけたなら。

 途中、美しい花に目を奪われたりもするだろう。大きな樹の上で昼寝をしたりするかもしれない。

 そして目が覚めた後、一面に広がる美しい黄昏に激しく心を揺さぶられながら……私は星降る夜空を、まるでピーターパンのように自由に飛び回るんだ。

 そして、最後にはきっと……彼を見つけ出してみせる。


「無理無理無理」

 私の思考を読み取ったのか、影猫は呆れたように言った。

「ミナトは本当に夢を見過ぎだね。この世界はそんなに美しくない。君が風になろうが、彼の元には辿り着けない。君が彼に逢う為には、僕の言う通りにして死ぬか、自分自身で死ぬか。どちらしかないんだよ」

「結局のところ、どっちも自殺じゃない」

「いや、全然違う」

「……意味がわからない」

「要するに希望を抱いて死ぬか、絶望のままに死ぬか、って事さ」

 影猫は私に向かって何かを投げてきた。私はそれを上手くキャッチする。開いた手の中には……歪な形をした錠剤が、一粒転がっていた。

「何これ……毒薬?」

「……あぁ、そうさ。ほら、ロマンチストな姫君。ロミオとジュリエットのように愛する者の為、毒薬を飲み干してごらんよ? あ、毒薬を飲んだのはロミオだっけ? ……いや、待てよ? 最初に飲んだのはやっぱりジュリエットだ。……まぁ、そんな事はどうでもいいや。じゃあね、ミナト。――幸運を祈るよ」

 影猫はそう言うと、開いていた窓から飛び降りた。未奈都は急いで窓の下を覗き込んだが、影猫はもういなかった。

「希望と絶望……か」

 白雪姫が食べた毒林檎が本当にあると言うのなら、今すぐ私の手に。

 その実の一欠片たりとも残す事なく、飲み込んでみせるから。

「そうしたら、私はもう一度……貴方に会えるのかな?」

 もしかしたら、貴方はもう……何処にも存在していないのかもしれない。

 それならば、愛を知ってしまったばかりに消えてしまった人魚姫のように……今すぐ私を泡の姿に変えて欲しい。

 もしそれが可能なら、これ以上悲しみの涙に溺れる事なく……私はこの世界から、簡単に消えてしまう事が出来るのに。

 私はぼんやりとそんな事を思い浮かべながら、小さく口を開いた。

「本当に貴方は、いつだって罪作りな男です」

 窓から入り込む風がふわりとカーテンを揺らし……私の髪まで、巻き込むようにしては優しくさらっていく。

「せめて、夢の中だけでも貴方に逢う事が出来たら……私は貴方にとびっきり熱い珈琲を淹れてあげて、貴方には私に、とびっきり甘いココアを淹れてもらうのに」

 私は、スカイブルーのペンキが一面に塗りたくられ、白い絵の具で綿菓子が描かれたアーティスティックな空を見上げながら……そう呟いた。

「そもそも……貴方に出逢えた事自体、夢のまた夢。はたまた奇跡か。私はずっと、幸せな夢を見続けていただけなのかもしれないね」

 そんな戯言を一人、口にしながら……私は、この壮大な空に彼への想いを乗せた。


 ――強がっているだけで本当は弱い彼と、弱いけど本当は強い私の最後の繋がり。

 この世界はきっと、ファンタジーな展開など望めない。夢を見すぎる人々にとって、この世界は残酷過ぎるまでに正直だから。

 ――ならどうする? 答えは一つだ。

「……飲んでやろうじゃない。林檎じゃなくても私にはこの毒薬がある。騙されたっていい。どうせこのままじゃ、私は生きていけない」

 私は私の手の中で握られていた、毒と名の付いた錠剤をジッと見つめた。

 ……いつか、届くだろうか?

 私のこの想いが、貴方に届くだろうか?

 机の上に置かれた彼からの手紙に目を向けると、嫌でも内容を思い出してしまい、胸が鈍器で殴られたように痛む。きっと今の私は、苦虫を潰したような苦渋の表情を見せているだろう。

「あの得体の知れない幻覚の言う通りにしてしまう私を、皆が馬鹿だと口にするでしょうね。でも……ただ無駄に死んでしまうよりは、一つくらい縋れるものがあったっていいでしょう? 可能性が万に一つでもあるのなら、私はそれにかけてみる……」

 私はそっと目を閉じると、勢いのままに錠剤を口の中に放り込んだ。

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