夜叉が眠る森
夢空詩
第1話
1
女は男と一緒に暮らしていた。とても仲が良く、周りからも評判の良い二人だった。年頃の男女という事もあり、そろそろ結婚の話もちらほらと出始めていて正に幸せの絶頂期だったとも言える。
季節は夏。それも既に後半に差し掛かり、何だか少し物悲しく感じる季節へと変わる。夏の終わりは、虫が重なり合うように音楽を奏でる静かな秋を連れてくるだろう。……とは言え、まだまだ暑い。感傷に浸るにはどうやら少し早いようだ。
「少し飲みすぎたかな……? 気持ち悪っ」
女は仕事が終わると、同僚との付き合いで駅の近くにある店に飲みに行っていた。
フワフワとした頭で若干フラつきながら歩く。そうして、愛しい男が待つ家へと帰るのだ。
外灯の灯りに照らされたアパートの前につくと、ドアの前に小さく黒いモノが落ちている事に気が付いた。
{蝉}(せみ)が死んでいる。その蝉の身体には大量の{蟻}(あり)が群がっていた。自然の摂理とはいえ、見ていて気分の良いものではない。
しかし疲れていた女は、気持ち悪く思いながらもそれを避けて家に入る。中には男の姿はなかった。
どうせすぐに帰ってくるだろうとベッドに倒れ込むと、女はいつの間にか眠ってしまっていた。
鳥のさえずりで目が覚める。女は目を擦りながら辺りを見回してみたが、男はまだ帰ってきていないようだった。
今日はお互い休みだから、一緒に映画を見る約束をしていたのに……
女はゆっくりと玄関のドアを開けると、表にそっと顔を覗かせた。
相変わらず蝉の死に蟻が群がっている。女は深く溜息を吐く。けれどそのまま放置しておくには見栄えも悪いだろうし、愉快でもない。
女はそれをスコップですくい、土の方に移動させようとした。その瞬間、蝉は羽を広げ、懸命に飛び立った。
――生きていたのか。その事実に大変驚かされたものだが、それよりも、生きていた蝉に大量の蟻が群がっていた事に、身体がひんやりとさせられた。
生きている状態で蟻に襲われていた蝉は……どのような気持ちだったのだろう?
そんな事を考えていると、自宅の電話が鳴り響いた……
***
心臓に針金がグルグルと巻かれているように、チクチクと傷む。向きを変える度に食い込んでいくものだから、ナイフよりよほどタチが悪い。
その針金はこの命までは奪いはしないものの、色んな方向から女の心を傷つけ、苦しめ続けるのだ。
解決策などない。解放される他ないのだ。けれど『解放されたいのか?』と問われると、女は首を横に振る事しか出来なかった。
何故なら、痛みを感じる事でこの想いが本物なのだと実感する事が出来るから。もう既にこの世からいなくなってしまった男が、今も女の中で生きていると。
けれどやはり、きついものはきつい。
記憶を手繰り寄せ、男との想い出に浸るも虚しいだけ。月日が流れれば記憶は劣化していき、次第に『あれ? 本当にそんな事があったのだっけ?』などと、確証の持てないものへと変化していく。女はそうなってしまうのが嫌だった。怖かったのだ。かと言って、このままの状態で過ごしていける程強いわけでもない。
忘れていく事が出来るからこそ人は生きていけるものなのだけれど、『彼を忘れてしまうイコール私の存在もこの世にないのと同じ』。女はそう考えた。
もう既に限界は近い。いないものだと言い聞かせるには、男の存在は大き過ぎたのだ。
女の中での男のスペースは大部分を占めている。男が不在となった今、そこから流れ出るドロドロとした醜悪なものは、近い内に女を真っ黒な泉の中に引き摺り込み溺死させてしまうだろう。……いや、窒息死か?
――肉体の死が先か、精神の死が先か。
「見てらんないわね。ほんっと馬鹿な女」
(……ああ、またか)
女の身体から出た液状の黒いものは、女の身体から離れると、いつものように形を作っていく。
それはまるで、影のようだった。
かといって、女と同じ姿で同じように動くわけではないので、影人間とでも言えば良いのだろうか?
ちなみに今日の影の形は女性のシルエットのように思えた。影の髪はとても長く、腰付近でユラユラと揺れていたから。
昨日は男性だった。一昨日は{蠍}(さそり)だった。その前は確か……{蜥蜴}(とかげ)だったっけな。
とにかく女は、目の前に立ちはだかるいつもの【幻覚】に対し、苛立ちを隠せないように大きな溜息を吐く。
影はクスクスと笑いながら女に言った。
「惨めで哀れで救いようのない女ね。何をそんなに悩む必要があるの? 貴女の悩みなんて本当にしょうもなくって薄っぺらい。コピー用紙のようにぺらっぺらだわ」
影は女を一瞥すると、更に言葉を続けた。
「辛くて苦しいと嘆くなら、自分の胸にナイフを突き立ててみれば良い。――ほら、それでお終い。貴女はその苦しみとやらから一瞬で解放されるでしょうよ?」
そう言った影の手から、真っ黒な刃物が生み出される。
――これで胸を突き刺せと? 馬鹿馬鹿しい。誰かに言われて命を落とすなど馬鹿げている。それも、人ではないバケモノのような存在の言葉だ。耳を貸す必要もないだろう。
「あら? 使わないの、それ? ま、良いけど。その歪んだ醜いものを全て外に出さないと、普通の死なんかよりも恐ろしい死が貴女に襲いかかるわよ? 自分の顔、よく見てみたら? ……酷い顔。幽霊にでも取り憑かれてんじゃないの」
「……幻覚なら黙っててよ。あんたなんかに用はないの。悪いけど、一人にしてくれない?」
「あらそう。なら良いわ。けど私、忠告してあげたから。後は勝手にどうぞ。では、御機嫌よう」
影は再び液状に姿を変え、{蛞蝓}(なめくじ)のようにノロノロと自分が存在した跡のみを残して、何処かに行ってしまった。
女は深い溜息を吐くと、たった一人の観客が立ち去った後のこの部屋で、小さく呟いた。
「……もう限界。きっと、いつまで経っても私の心は貴方に囚われたまま。まるで、首に見えない鎖をかけられ、飼いならされた犬も同然。……逢いたいよ。千明」
女はふらりと立ち上がると、裸足のまま表に飛び出した。夏の陽射しがとても眩しく、アスファルトの熱が女の足に暑さと痛みを与えた。灼熱の太陽の下、空っぽになった女の身体は、ただひたすらに願う。
――溶かしてしまえ。――消してしまえ。
幻覚など見えてしまう私の頭はとうにおかしい。気でも狂っているに違いない。生きていようが、死んでいるも同然だ。
女はふと一週間前に見た蝉の事を思い出した。生きたまま身体を弄ばれた蝉。
痛かったでしょう?
気持ち悪かったでしょう?
恐ろしかったでしょう?
「あんなに苦しい思いをしてまで、あの蝉は生きたいと思ったのかな? ……きっと、死ぬ方がよっぽど楽だよね」
『あの蝉は、まさしく私自身だ』、女はそう思いながら、近くにある陸橋の階段を登り、手摺りに手をかける。美容院に行く気力も湧かず、無造作に伸び切った黒髪は向かい風に揺らされ、視界を狭めた。
「……もういいや。疲れた。バケモノの思い通りになるくらいなら、いっそのこと」
そう呟くと女は、流れるように走り続ける車達の中へとその身を投げた。
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