第3話
三
私と白兎は今、豪華客船の一室にいた。――時は、ほんの少しだけ遡る。
あれから、黒兎を置いて私達が向かった先は……以前のように美しい海ではなく、朽ちて廃れ切った海の前だった。
彼と双子達を捜し回っていた時には、確かになかった筈なのに……海岸には、目を見張るくらいに立派で巨大な船が停泊していた。
不気味すぎる仮面をつけた者達が一斉に、妖精【ティターニア】を出迎える。
ティニアと彼は大勢の仮面達を従えて、どこかに歩いて行ってしまった。
結局彼と私は、言葉を交わすどころか……一度も目を合わす事がなかった。
「こちらへ……」
私と白兎は一人だけ残った仮面に案内されて、二人とは逆方向に進む。案内された場所は、洋風の……とても可愛らしい部屋だった。
仮面は私達が中に入ったのを見届けると、すぐにその場から立ち去った。
「酷い……酷いよ、シロくん……! 最低だよ」
私は白兎の胸板を、ドンドンと力無く叩く。
「……泣かないで、ミズホ。お願いだから」
「ソウくんの、彼の目の前で……あんな事をするなんて……」
白兎は私の手首を強く掴みながら、ジッと私を見つめ、やがて小さく口を開いた。
「あそこでああしなきゃ、黒兎が殺されていた。それに……きっと君も」
「え……?」
「……あいつ、ソウには【ちゃんと言う事を聞きさえすればミズホを生かす】みたいに言っていたけれど、あんなの信用出来ない。どこにそんな保証があるの? きっとソウを辱める為だけの、ただのパフォーマンスだよ。……あいつは自分以外の女を嫌う。あのままだと君は多分、黒兎と一緒に……あの場で殺されていたと思う」
「それじゃ、もしかしてシロくん……」
私達を守る為に――?
「……二人を確実に生かす為には、あぁするしかなかった。しかし……あれ程までの屈辱を受けたのは生まれて初めてだよ。ああいうのは、人前でするものじゃない。それに、僕に対して何の気持ちもない相手とする口付けなんて……ただ、虚しいだけだ」
そう言って笑った白兎の顔は、とても悲しそうだった。
「ごめ……シロくん……ごめんなさい……私、酷い事を!」
「謝らないでよ。酷い事をしたのは僕の方だ。ごめん、ミズホ……本当にごめん」
白兎は深く頭を下げた。前髪で顔は隠れて見えないが、肩が……腕が……震えているのがわかった。
私は目の前で震える青年を、大きな身体なのに小さく震える白兎の事を……何故だろう。思わず抱きしめたくなった。
けれど……私は伸ばしかけた手をスッと引っ込めた。
「……クロちゃんは、この事をちゃんとわかっているのかな? シロくんが、クロちゃんの事を裏切ったって……そう思っていないかな?」
「黒兎はきっとわかっているよ。彼女は、頭は悪いけど……決して馬鹿ではない。こういう時こそ、頭が回る」
「そっか。……良かった」
「生きていなければ、どうする事も出来ない。生きてさえいれば、きっと何とかなる。だからそれまでは……ミズホ、お願いだ。……フリでいい。僕を、愛して」
私は、まるで胸に千本の矢が突き刺さったかのような感覚に襲われた。
――嫌だったからではない。
その苦痛そうな表情から、白兎が今……どんなに苦しみながら、その言葉を口にしているのかが痛い程伝わってきたからだ。
……胸が、痛い。
その悲しすぎる言葉に、何の返答も出来ずにいた私を見た白兎は、眉を下げ、泣きそうな顔をしながら笑った。
「ごめん、そんなの演技でだって嫌だよね。君にはソウがいる。君は、ソウの事が好きなのに……ははっ、どこまで僕は惨めなんだろうね。あいつの言う通りだ。僕は憐れで惨めで、愚図で、鈍間で、弱くて……だから、そうする事でしか君を守る術が見つからない。本当はフリなんかじゃなく、誰よりも君に……愛して欲しいのに」
いつも自信たっぷりに見せるのは、本当は誰よりも自分に自信がないからかもしれない。
「――お願いだ、ミズホ。フリでいいんだよ。大丈夫、勿論間に受けたりなんてしな……」
……もう、限界だった。
私は堪らなくなって、白兎を強く抱きしめた。
――ごめんね、ソウくん。
けれど、どうして今……この人を抱きしめずにいられるものか?
たとえ自分が傷付いたとしても、必死に守ろうとしてくれているこの優しくも不器用な手を……どうして振り払う事が出来るだろうか?
これは、同情かもしれない。私がしている事は残酷なのかもしれない。
けど、それで……たとえ目の前にいる青年に更に深い傷を負わせてしまおうとも……今の私は、白兎を抱きしめずにはいられなかった。
その気持ちは、フリでも何でもない。
「ミズ……ホ……」
「わかった……わかったよ、シロくん。だからもう……そんな悲しい顔、しないで。お願いだから……」
私の鼓動と彼の鼓動がシンクロして、何と心地の良い旋律を奏でるのだろう。私はこの状態に酷く安心をしていた。とても安らぎを感じていた。ソウくんの時とは確かに違う何かが……そこには確かに存在した。
「好きだよ」
『――好きだよ』
そう言葉にしたのは、一体……どちらの方だったのだろう? 白兎? それとも、私……?
そんな事にすら気付けない程、自然に……緩やかに……まるで空気に溶け込むように、お互いの口から溢れ出た言葉だった。
「……シロくん」
しゃがみ込んでいる白兎の、柔らかくふわりとした髪に触れ……そのまま、ゆっくりと頬を通過する。
こうして見ると、私と何も変わらない。……まるで、普通の人間のようだ。
「……好きだよ」
私は……私の中でほのかに芽生えたこの想いに、戸惑いを隠せなかった。
けれど、それは……ソウくんに対する気持ちとは、まったくと言っていい程、違うように感じた。
私は……今でも彼の事が、誰よりも大好きだ。彼の言葉一つで私は、天国にでも地獄にでも行けてしまうだろう。
本当に好きだからこそ……簡単に幸せな気持ちになれる反面、少しの事で不安になったり、嫌われる事を過剰に恐れたりした。私はきっと、自分に自信がないのだ。
とんでもなく高い壁が私達の間に存在して、彼を……とても遠くに感じてしまう。
それもそうだろう。彼は普通の青年ではない、小説家【夜科蛍】なのだ。
そもそも私なんかとは住む世界が違う。だから、どうしても卑屈な考えになってしまうの。
それなのにシロくんに対しては……何だかとても愛おしくて、嫌われるかも、なんて心配する事なく……心の底から安心出来る。凄く凄く、大切だと想える存在だ。
この気持ちを……一体、何と呼べば良いのだろう?
「……大丈夫だよ、ミズホ。僕には【それ】が何か、ちゃんとわかっているから」
白兎は私の肩からそっと頭を上げると、優しくニコリと笑った。
「……シロくん、勝手に心を読んだでしょう?」
「ごめん。ミズホが急に黙り込むから、つい。それに……こんなに近かったら、聞こうとしなくても勝手に聞こえちゃうしね」
何だか、急に恥ずかしくなって俯くと、白兎は『よしよし』と私の頭を撫でた。
「本当に深く考える事はないよ。いつか……その答えがわかる時が、きっと来るから」
「シロくんは……答えを教えてくれないの?」
「うん。あんまり言いたくはないかなぁ……」
「どうして?」
「……内緒」
白兎はそう言いながら私から離れると、ベッドに腰を下ろし、『こっちにおいで』と手招きをした。
私はゆっくり立ち上がり、白兎の隣に座ると、青年は真剣な表情で私に語りかけてきた。
「――ミズホ。昔ティターニアと……ううん、【赤兎】と僕達に何があったのか、聞いてくれる? ……君には知っておいて欲しいんだ」
「! ……うん、聞かせて」
「僕と黒兎も、間違えたのかもしれない。過去の……清算したい過ちだよ」
そう言うと、……白兎はゆっくり口を開いた。
「この夜宴の島にはね、昔……僕達以外の者も沢山住んでいたんだよ。来訪者や宴の参加者とかじゃなくてね。……これは、僕達がまだ夜宴の島に……【ただ、住んでいた】だけだった頃の話――」
この島には全部で十七人の童子が住んでいた。皆、各々に不思議な力を持っていたよ。
その中でも特に島からの恩恵を受けていたのが僕達、兎神の末裔。
他の者達は、将来僕達に仕えるために、この島に連れて来られた……既に身寄りのない神の申し子達だった。
しかし、まだ幼い童子達は、配下というよりも僕達の仲間でもあり、ライバルでもあり、良き友でもあったんだ。
たまに意地悪される事とかはあったけれど、僕達はとても仲良く暮らしていたよ。……本当に。
昔ね、僕は今では考えられないくらいに、とても病弱だったんだ。生まれてきた時はまだ健康だったらしい。
けれど、生まれて少し経ったある日……原因不明の病がこの身に降り注いだ。
病だけは……たとえどんなに強い力を持っていたとしても、どうする事も出来ない。
その病は……確実に僕の身体を蝕んでいったよ。身体だけではなく、【心】までもね。
【この頃】の僕達三人はとても仲が良くて、赤兎も黒兎も……本当に僕の事を気にかけてくれる、優しい姉達だった。
『白兎、お前また咳いてんじゃねか。今日もうちで寝てろ。……留守番だ、留守番!』
『……嫌だ! 僕も姉様達と遊びたい』
『駄~目っ! 寝てなきゃ駄目でしょう⁉ 悪化したらどうするの? ほら、これいつものお薬! ちゃんと飲まなきゃ駄目よ?』
『うん……』
二人が居なくなった後、外から楽しそうな声が聴こえてくる。皆で楽しく遊んでいるのだろう。
僕にはそれが……とても羨ましかった。
赤兎の言う通り、ちゃんと薬を飲んでいるのに……この身体は、いつまで経っても良くなってはくれない。苛立ちと悔しさで、胸が張り裂けそうだった。
神として……この身体は欠陥品。月に一度、僕の身体を診る為に島まで来てくれる狸のお爺さんには、『このままではいつ死ぬかわからない』とまで言われていた。
僕は、寂しくて、怖くて、苦しくて、不安で……いつも一人で泣いていた。
赤兎は、僕達の中でも一番強い力を持ち、この島の後継者に一番相応しい存在だった。皆が一目を置いている事は見ていてよくわかった。
黒兎は、皆のムードメーカーで、馬鹿だけど身体を動かす事は得意だったし、とにかく人気者だった。いつも皆の中心にいた。
だから……弱くて泣き虫の僕だけが、二人のお荷物だと島の皆に言われ、除け者にされたり、石を投げられたりしたっけ。その度に、赤兎と黒兎が助けてくれたのを覚えてる。
けれど、あの頃の馬鹿だった僕は……そんな二人に対して強い劣等感を感じ始めていたんだ。
『……狡いよ、黒兎。君と僕は双子で一緒に生まれてきた。それなのに……どうして君だけそんなに健康なの? 不公平だよ、そんなの』
『んな事知らねぇよ! お前、そんな卑屈になるなって! ……大丈夫だよ。いつか必ずお前の身体はよくなる。あたしがきっとお前を治してやるから!』
黒兎は優しい。そんな事は僕が一番わかっている。けれど、何の確証もないそのような言葉など……僕にはただ鬱陶しいだけだった。
僕は近くにあった花瓶を、黒兎の背後にある壁に向かって思いっきり投げつけた。
パリン! という音と共に……今朝、黒兎と赤兎が摘んできてくれた色彩豊かな花達は、まるで抵抗出来ないその身を嘆くかのように、パラパラと床に舞い落ちた。
『煩い……黙れ、黒兎。僕は君の声など聴きたくもない。消えろ、僕に話しかけるな』
『っ! ……馬鹿がっ! 勝手にしろ!』
黒兎が部屋を飛び出すと、僕はゆっくりベッドから降り、散らばった破片や花を拾った。
『……八つ当たりしてしまって、ごめんね』
それから黒兎は、暫く僕の部屋に姿を見せる事はなかった。
僕は以前にも増して部屋に閉じ籠るようになり、感情を失っていった。誰かと話す事も煩わしかった。全てが馬鹿馬鹿しく思えたから。
どうせ僕は、長く生きられない。ひと月後、僕達三人はこの島の後継者に選ばれ、この島を支配するのだろうけど……僕にはどうでも良かったんだ。
随分と捻くれていたと思う。我儘だったと思う。
けれど僕は、そんな事もわからない程に……考えがまだまだ子供過ぎたんだ。
『白兎~? 入るわよ~?』
そう言って入ってきたのは、赤兎だった。
赤兎は、黒兎がこの部屋に寄り付かなくなっても……毎日変わらず、僕の所まで薬を運んで来てくれていた。
『大丈夫? はい、これお薬』
『……いつも有難う、姉様』
僕は、黒兎には不満をぶちまけていたものの、赤兎には違った。極力逆らわないように、怒らせないように、神経を張り詰めていたと思う。
『いいのよ、そんな事! 可愛い弟の為だもの! 身体、早く良くなるといいね?』
小さなテーブルに薬と水を置いた赤兎は、そう言うとすぐに部屋から出て行った。僕は、ほっと胸を撫で下ろした。
髪長姫、とまではいかないが……僕達と同じ色の天然パーマでクルクルとした長い髪は、踵まで伸びきっていた。彼女はいつもニコニコ笑っていて、僕達や童子達と戯れる姿はまるで天使のように思えた。
けれど、僕は……赤兎がとても苦手だった。
普段はとても優しいけれど、彼女の【今は】無いであろう、内に秘めた狂気を……僕も黒兎も知っていたから。
「――その頃より、更に昔の話になるけれど……今から話す事は……僕達が夜宴の島に連れて来られる前の話だ」
僕達三人は、人間の住んでいる世界にある山の奥地で暮らしていた。
そこの空気はとても澄んていて、頂上から見える景色は絶景だった。山には沢山の動物達もいたし、まだ子供の僕達にとってそこは、最高の遊び場になっていったんだ。
僕達に、父や母という存在がいたかどうかはわからない。だって、物心がついた時には僕達は既に三人だったから。
とにかく僕達は、極力人間と接触しないように……そこで静かに、慎ましく暮らしていたんだ。
この頃、僕の病状はまだ安定していたから、黒兎と一緒に山で木の実を集めたり、どちらが沢山落ち葉を拾えるかなんて、子供ながらの遊びを、毎日飽きもせずにしていたのを覚えている。
赤兎は、僕達のそんな遊びに目もくれる事なくいつも沢山の生き物を捕まえては、ずっと一人で【遊んで】いた。
あの頃の赤兎は……天使どころか、まるで悪魔のようだった。
……彼女は当時、生き物を【壊す】事に、異常なまでに執着していた。それも、如何にそれらを残虐に破壊するかを踏まえた上での事だ。
最初の生贄は小さな虫。それが、いつしか動物となり……やがて彼女は『次は人間を壊してみたい』と言い始めた。勿論、僕達は止めたさ。
けれど、駄目だと言われて我慢出来る程大人ではなかった赤兎は……僕達が寝静まったのを見計らって、一人で里に下りたんだ。
目が覚めると、赤兎の姿はどこにもなく……嫌な予感がした僕達は、急いで山を下った。
(……あぁ、彼女はもう……元には戻れない)
美しく積もった白い雪が赤く染まり、その上に転がる、バラバラになった沢山の死体の山……その中心で、見覚えのない【男の子の人形】をギュッと抱きしめ、高笑いをしている【悪魔】の姿があった。
悪魔は僕達を見つけると、血塗れの顔で、天使のように優しく微笑んだ。
『あら、黒兎に白兎! 迎えに来てくれたの? あまりに美しい光景に見惚れてしまって、ついそのまま朝を迎えてしまったわ! ほら、見て? この人形! ……素敵でしょう? あの家に住んでた娘が持っていたの! 凄く気に入ったから奪ってきちゃった! 今日からこの子はうちの子! 名前は何にしようかしら?』
赤兎は愛おしそうに人形を抱きしめる。僕達は、それを黙って見ているしか出来なかった。
『……ふぁああ~! 私、何だか眠くなってきちゃったわ! そろそろおうちに帰りましょ?』
彼女は大きく口を開き、欠伸をすると、近くに【落ちていた】死体をぐしゃりと踏みながら帰路へと向かう。
この状態を見て……何故、平気でいられるのか? どうして、罪のない人間達にこんな酷い仕打ちを……?
『……人間を殺すのも虫を殺すのと一緒で、何だか簡単だったわ、面白くない。……そうだ!』
そう言うと赤兎はくるりと後ろに振り返り、僕と黒兎を見ながら、不気味なくらいに口角を上げてこう言った。
『同族を殺したら……一体、どんな感じなのかしらぁ? ……きっと今まで以上に興奮するでしょうね、ふふふ』
その言葉に、僕達は背筋が凍り付くような恐怖を感じずにはいられなかった。
僕達は彼女が、とても恐ろしかった。
それからの赤兎はというと、比較的に大人しく見えた。……しかし、油断は禁物だ。
僕はいつだって、神経を張り巡らせていた。
彼女はまるで【大蛇】だ。一度隙を見せてしまえば、小さな【蛙】の僕達は……いつひと思いに丸飲みされるかわからない。
とにかく弱虫で泣き虫だった僕は、毎日気が気じゃなかった。このままじゃ……近いうちに僕達は赤兎に殺されてしまうだろう。
(……赤兎は僕達の姉様だ。そんな事をする筈がないだろう?)
そう、何度自分に言い聞かせてきた事か。けれど、どれだけ言い聞かせても……その考えには到底行き着かない。
彼女はきっと、自分の快楽の為ならば……
欲求の為ならば……
簡単に、僕達を手にかけるだろう。
僕は毎晩、怯えながら夜を過ごしていた。
そんなある日の事だった。黒兎が意を決して、僕にこう告げたんだ。
『殺される前に、赤兎を殺そう』
『え?』
僕は思わず耳を疑った。だって、まさか黒兎がそんな事を言うとは思わなかったから。
『……このままだと、あたしもお前もきっと殺される。お前も見ただろう⁉ あいつは普通じゃない。それにお前、あまり夜も眠れていないんだろ? すげぇ、顔してるぞ……身体にも良くない。あたしもいい加減に疲れたんだ。あたし達二人が協力すれば、きっと勝てる。――覚悟を決めろ、白兎。あたし達はあいつの、唯一の身内なんだ。これ以上……あいつを野放しにするわけにはいかない』
……黒兎の言う通りだ。赤兎が生きている限り、きっと僕達に平穏な日々は訪れない。
『……わかったよ。姉様の言う通りにする』
だから僕は、黒兎の案に乗る事にした。……けれど、直接対決だと僕達に勝ち目はない。
だから僕と黒兎は、見晴らしの良い場所まで赤兎を上手くおびき寄せて……そこから彼女を、無我夢中で突き落としたんだ。
小屋に戻った僕達は……どちらとも口を開く事はなかった。
恐ろしくなった僕達は赤兎の生存を確かめる事もせず、急いで逃げ帰って来てしまったのだ。
万が一、彼女が死んでいなかったとしたら……目を覚まし、戻ってきた赤兎に……僕達は間違いなく、確実に殺されるだろう。
僕は、不安に押し潰されそうになっていた。
「……結果的に言えば、赤兎は勿論生きていた。そして、先に夜宴の島での話を聞いてもらった事で、もうわかったと思うけど……彼女はあの日、全ての記憶を無くしたんだ」
「記憶……喪失……?」
「うん。怪我自体は、あの高さから落ちた割には軽症だったんだけど……それが原因で記憶を失った赤兎は、見違える程【普通】になった。残忍で恐ろしい姉は消え去り、親切で思いやりのある……優しい姉へと生まれ変わったんだ。僕と黒兎は、変わりきった彼女の姿を見て……今までの事は全て忘れ、今の赤兎と、もう一度共に生きていこうと誓った。赤兎が小屋に置き去りにしていたままだったあの少年の人形は、彼女が眠っている間に僕達が山に埋めた。……もう二度と、彼女が殺戮に目覚めないようにと願いを込めて。赤兎は、本当にあの人形を気に入っていたんだ。だから、万が一あれを見て、全てを思い出してしまったら困るからね」
「それなのに、どうして今、こんな事に……? ティニアは……赤兎は、記憶を取り戻したの?」
「……それから暫くして、さっきも話した通り僕達はこの夜宴の島に招かれたんだ。島の後継者になる為に、ね……」
赤兎との、その【過去】があったから……僕はこの島に来た今でも、赤兎に対する警戒心が弱まる事はなかった。
だから、黒兎には反発しても、赤兎には、何があろうと逆らう事は一切なかった。
まぁ、その時の赤兎は本当に完璧で、とても優しい姉だったから……文句をつける内容すら見つからなかった、っていうのもあるんだけどね。
現に赤兎は、その頃の記憶を取り戻す事もなく童子達とも上手くやっていたし、黒兎とも……とても仲の良い姉妹になっていた。
……きっと、あの頃の僕達は未熟で、幼過ぎたんだ。
だから僕達は、赤兎の暴走を止める事も出来ずに、【彼女を殺そう】という物騒な考えにしか至らなかった。
そして彼女自身も、生命の重みというものを知らなかった。
もしも今、赤兎が記憶を取り戻したとしても……皆、あの時よりも成長している。
きっと……あのような惨劇が起こる事は、二度とないだろう。
僕は、そう信じる事にした。
しかし、この島に来てからは……山では安定していた筈の身体の調子がどんどん悪くなる一方だ。
山ではよく効いていた薬を、今でもかかさず毎日飲んでいるのに……
血を吐く量も増えた。目も、よく霞んで見える。
ベッドから身体を起こす事すら出来なくなり、殆ど寝たきり状態だったと言っても過言ではないだろう。
――これが、僕の寿命か。
結局、人間の平均寿命と……同じくらいしか生きられなかったな。
明日は、この島の後継者となる日。僕はそれまで、生きられるのだろうか?
……あぁ、もうそろそろ薬の時間だ。
僕はそっとグラスを手に取る。ゆらゆらと揺れる水面に映るのは……生気を失い、痩せ細った僕の姿。
僕は紙に包まれた薬の粉を、ゆっくりと水に溶かしていった。水の中を綺麗な紫色の粉が優雅に舞い踊り、やがて混じり合ったそれは、グラスの中に鮮やかなラベンダーの花を咲かせた。
――その時、ドタ! バタ! と激しく騒がしい音が聞こえ、僕のいる部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
『白兎っ……大変だ!』
『……何だよ、急に。ノックもしないでさ』
約ひと月振りの、黒兎との会話。
それなのに、感情を無くしつつあった僕はきっと……光を持たない死人のような目をしていたに違いない。
黒兎……一体、何の用だ?
『お前っ……まだ、薬は飲んじゃいねぇよな?』
『……今から飲むところだけど、何?』
『絶対にその薬を飲むな。今すぐ捨てろ!』
『……は? 君は僕に、さっさと死ねと言いたいのか?』
『ちげぇよ! 寧ろ、その逆だ! その薬を飲み続けたらお前は間違いなくあの世逝きだぞ⁉』
『……どういう意味だ。……まさか、狸が僕に毒を盛ったとでも言うのか⁉』
『馬鹿かてめぇ! 狸の爺さんが、んな事する筈ねぇだろうが! 身寄りのないあたしらによくしてくれた恩人だぞ⁉ 山に住んでた時も、この島にだって……お前の為に遠路遥々薬を届けてくれてるってのに、この恩知らずがっ!』
『じゃあ、一体何なんだよ? わけがわからない。馬鹿は馬鹿なりに僕にも分かりやすいように、少しは考えてからものを言ってくれないかな?』
僕は呆れて、大きな溜息を吐く。
ただでさえ身体がきついのに、黒兎の戯言に構っている余裕なんて……僕にはないのだ。
『……じゃあわかりやすいように言ってやる。お前が持ってるその薬は偽物だ。見た目も味も匂いも似せて作っているが、まったくの別モンだ。そして、その薬には呪術がかけられてやがる……それも死に直通する、厄介過ぎるくらいに強い呪いだ。それは徐々にお前の身体を弱らせ、やがて肉や骨まで腐らせていくだろう。あたしは、【奴】がその薬に呪いをかけているところをちゃんとこの目で確認した。更に見つからねぇように、呪う方法を書いていた黒魔術の書も読んでみたが……間違いねぇ。あれは、マジでやべぇって! お前このままじゃ、確実に呪い殺されちまうぞ⁉』
『――呪い? ……けど、君はさっき【狸がそんな事をする筈がない】と、僕を罵っていたじゃないか? それを今度は【見た】だって? ……やはり矛盾してるよ』
『……じゃあ、【それ】を毎日欠かさずここに運んできているのは……誰だ?』
『誰って、そんなの姉様に…………え?』
『……そういう事だ。……畜生め』
黒兎の言葉の意味をようやく【理解】した僕は、身体中からひんやりとした汗が大量に流れ出すのを感じずにはいられなかった。
――まさか、姉様が?
『え……? え……? どういう事? じゃあ、姉様の記憶が戻ったって事だよね? え? そんな……いつから?』
『……白兎、気を確かに持て。今から、あたしが言う事をしっかりと耳に入れろ。あたしはさっき、姉様に用があって部屋を訪ねたんだ。……明日、あたし達はこの島を継承するだろ? それで童子達が、あたし達の為に祝いの宴を開いてくれるとか言うんでよ、部屋にいる姉様に、その事を伝えに行ったんだよ。じゃあドアが少し開いててさ……中から不気味な声が聞こえてきた。唱えられているまじないの内容から、それが決して良いものではないと瞬時に悟ったあたしは、こっそりと部屋を覗き込んだ。姉様は黒いローブをその身に纏い、片方の手には黒魔術の書を持ちながら……二つある紫色の粉薬を、それぞれ天秤の上に乗せて、その内の一つに呪いをかけているようだった。そして、その儀式みてなのが終了したと同時に……片方の粉が跡形も無く消え去った。消滅した方がきっと、狸の爺さんがくれたものだ。恐らく、強い呪いを使いこなすにはまだ妖力の足りない姉様は……狸の爺さんの妖力が詰まった薬を、呪いの媒体にしたんだよ。その後、姉様は……残った方の薬を紙に包むと、不気味なまでに口角をあげ、気が狂ったように笑っていた。……んで、それから姉様はすぐにお前の部屋に向かった。その隙に、隠れていたあたしが部屋に忍び込み、魔術書を確認したら丁寧に付箋がされてあってよ。内容を見たら……ドンピシャだ』
『そんな、まさか……!』
『あとな、信じられねぇだろうが……【アレ】がベッドの上にあったんだよ』
『あ、アレって……?』
『あたし達が、確かに埋めた筈の……あの人形だ』
『⁉ そんな、馬鹿な⁉ あの人形は確かにあの晩、山に埋めた筈! この島に来て、記憶を取り戻したとしても、あの人形を見つけ出すなんて不可能だよ! それに姉様は島からどうやって出たの⁉ 継承した後じゃなきゃ、この島からは出る事が出来ない筈だよね⁉』
『……ああ、そうだろうな。あの山はとんでもなく広い。しかも、何の能力も持たないただの人形だ。それをピンポイントで見つけられるなんて……普通じゃ考えられない。しかも、最近記憶を取り戻したからといって、この島から出る事は許されていないし、出る事も出来ない。……そして、お前の病状が悪化したのは【最近】の事じゃねぇ。……その事から、考えられる事は一つ』
黒兎の言葉に、僕は思わず息を飲んだ。……聞きたくない。けど、聞かねばならない。
聞くまでもなく、わかりきった答えを――
『あいつは最初から……記憶を失ってなんかいなかったんだ』
そんな……じゃあ、あの時も……あの時も……あの時も……姉様はずっと全てを覚えていながらも、僕達に優しく振る舞って、笑顔で振る舞って……僕の薬に、死の呪いをかけ続けていたのか?
それを毎日僕の元に運び、あたかも心配してるように見せかけて……
『うぐえっ……!』
僕は堪え切れず、置かれてあった入れ物の中に嘔吐した。
『おい……! お前、大丈夫かよ⁉』
ずっと具合が悪くて食欲なんてなかったから、胃の中は空っぽで吐けるものなど何もない。
ただ血が交じり合った酸味の強い胃液を、無理矢理絞り出すようにして排出しているだけだ。
頭が……身体が……今までに飲んだ毒素の全てを吐き出したいと願うように……この【苦しみ】は、中々治まってはくれない。
――トントン。
突然、静寂の中に響くノックの音。僕と黒兎は沈黙し、ドアに目を向けた。
『……どうしたの、白兎? 中に黒兎もいるんでしょう? 騒がしいけど、何かあったの……?』
姉様だ。けれど、足音なんか聴こえなかったぞ……? 一体、いつからそこに?
【身の毛もよだつ】とは、まさにこの事か。
優しい姉様の声が……鎌を持ち、僕の命を奪いに来た恐ろしい死神の声のように聞こえた。
(……シッ、とにかくここはあたしに合わせろ。絶対に悟られんじゃねぇぞ?)
黒兎は、口パクとジェスチャーで僕にそう伝えると、【汚物入れ】と化した入れ物の中に、グラスに入った【悪魔の水】を一滴残さず全てブチまけてから、姉様に向かって応答した。
『あ、姉様! こいつ今日、かなり調子悪いみたいでさ……今大量に吐いちまったんだよ。ほんと、ひっでぇ匂いだ。姉様はこっちに来ない方が身の為だぞ⁉』
『え⁉ ……それで、大丈夫なの? 白兎は。汚してしまったなら片付けないと。私が――』
姉様がそう言ったのとほぼ同時に、僕の部屋から出て行った黒兎は、下品な声でゲラゲラと笑った。
『姉様~、あいつにも男のプライドってもんがあると思うし、今はそっとしといてやろうぜ。……お前も、ゲロ吐いたとこなんてカッコ悪くて見られたくねぇよな、白兎? あとは一人で片付けられんだろ?』
『……うん。ちゃんと自分で片付けられるよ。僕の事は大丈夫。……だから、姉様。黒兎と行って』
『……そぉ? わかったわ。けど……何かして欲しい事があれば、遠慮なく私に言うのよ? 貴方は可愛い、私の弟なんだから』
『ありがとう、姉様』
……お願いだ。早く向こうへ行ってくれ。……頼むから。
僕は一人、ドアのこちら側で恐怖に打ち震えていた。
『…………あ! そうだ私、黒兎に聞きたい事があったの!』
ドアの向こうから、何かを思い出したかのように、姉様の無邪気な声が聞こえてきた。
『……あたしに聞きたい事?』
『えぇ。貴女……私の部屋に入らなかった?』
【貴女……私の部屋に入らなかった?】
その言葉に僕は……全身の血が冷え渡り、動悸が高まるのを感じずにはいられなかった。恐れが、胸の底で蠕動する。
この悪夢のように忌まわしい恐怖から、出来る事なら今すぐ逃げ出したい。それは、壁の向こうにいる黒兎もきっと、同じ気持ちだろう。
……どうしよう。全て、バレているのか?
黒兎は一体、どう答えるのだろう……?
僕は、身も縮むような思いで、黒兎の言葉を待った。
『……あ! さっき童子達によ、あたし達が明日この島を継承したら、その後に祝いの宴を開いてやるって言われてさ? それを姉様に伝えようと思って声を掛けたんだけど返事がなかったから、ちょっとドアを開けて覗いたけど……中には入ってねぇよ? よく考えたら白兎の薬の時間だし、ここに来たら会えるかと思ってさ。どうやら入れ違ったみたいだけどよっ!』
真実と虚実を混ぜ込んで淡々と、冷静に説明をしていく黒兎に……僕はとても感心させられた。
問われたのが僕だったら、きっと口籠り、すぐにバレてしまっていただろう。
やはり黒兎は馬鹿だけど、いざって時には頭の回る、尊敬すべき優秀な姉だ。
『あらっ! そうだったの⁉ それに、宴ですって⁉ いいわね! 私、パーティーだぁい好き!』
『姉様ならきっとそう言うと思ったぜ! よし! いっちょでけぇの開いてもらおうじゃねぇか!』
姉様と黒兎の声が少しずつ離れていく。……どうやら、上手くいったようだ。僕はホッと胸を撫で下ろした。
『けど……これから、どうすればいいんだ』
僕はふと、ベッドの横に置かれた【汚物入れ】に目を向ける。
黒兎が薬をぶちまけたのはきっと、姉様がこの部屋に入ってくる事も予測しての事だろう。
万が一、部屋に姉様が入ってきたら……まだ飲まれていない薬に気付き、僕にそれを飲むよう促したかもしれない。
だから彼女は、薬を吐瀉物の中に捨てたんだ。
一度は【飲んだ】薬を、全て吐き出してしまったように見せかける為に……
『……冷静になれ。僕が慌てふためいてもどうにもならない。真実を知ってしまったんだ、もう後戻りは出来ない。姉様とちゃんと話し合おう。そして、僕達が犯してしまった【罪】を、ちゃんと謝らなきゃいけない』
僕は高ぶり過ぎた心を落ち着かせるように、自分自身に言い聞かせた。
……もう、あの頃のような惨劇は起こらない。ちゃんと謝ったら、許してくれる筈だ。
たとえ殺されかけたといえど、彼女は僕の姉だ。話せばきっと、わかってくれる。
僕はまだ……姉様を、赤兎の事を信じていた。
「――しかし次の日。誰も想像すらしていなかった事件が起きてしまったんだ。それが僕達の……この島の運命を、大きく変えてしまったんだよ」
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