第8話 限りある時間

 昼食を終えて、食休みもほどほどに済ませた後、雄吉ゆうきちは縁側に座りながら庭の様子を眺めていた。


 今日も霞んだ青空が広がる。温かな春の陽気で、垣根の深緑の葉が鮮やかに光る。所々に斑点を描くように咲くタンポポやスミレが、さらに春の恵みを存分に体現している。

涼しげで、それでいて湿潤な温もりを感じる春風が流れてきては、木々や花々の葉を撫で上げて、そして自分の頬を掠めていく。


 時々台所の方から母と妹の寿実としみが会話する声が聞こえてくる。近所の付き合いの話なのか、世間話をしている様子だ。

 話し声はまた別の所からも聞こえてくることがあり、二階の方から弟の雄造ゆうぞう雄竜ゆうたつの声も届いてくる。何やら、雄造が雄竜の宿題を手伝っている様子で、聞こえてくる話し声には数字や計算に関する言葉が多々含まれていた。そして、雄造はこの後友達との約束があるらしく、雄造の言葉や話し方に少々焦りを感じるものがあった。


 何でもない、普通の日曜日の昼間の出来事たちの諸々だった。特別、これと言って珍しい光景なんて一つも無い。それなのに、ただこうして在り来たりの日常を感じることが、どうしてこんなに心地良いことなのだろう。

 可能ならば、ずっとこのまま、このありふれた日常の中に浸かっていたい。難なら、自分が雄竜の宿題の面倒を見て、雄造には友達との約束へ行ってもらっても構わない。


 母と寿実、雄造や雄竜の他にも、妹の嘉代かよ奈海なみは祖母と共に裏の畑で作業をしているだろうし、この時間ならば父は祖父と囲碁や将棋を差していることだろう。

 みんな思い思いに日曜日の日中を過ごしていることが、どこか遠い存在のように感じてしまう。


 あとどれくらい、この日常の中に身を置くことが許されるのだろう。


胸の内ポケットに入れておいた三重行きの切符を取り出す。


 横浜→松阪 二等車


横浜駅を23時頃発車する普通列車の鳥羽とば行きの乗車券には、間違いなく三重県に所在する地名が刻まれており、この切符と同じく、自分の行路も片道限りである。帰りの行路など無い。行ってしまえば、行ったきり帰ってくる事は無い。


 二度と帰れぬ旅路を踏むまでの、限りある時間の中で、この家や両親、弟や妹、祖父母、この故郷の町との別れを告げる覚悟を決めなければならない。

 頭の上で燦々と温もりを送ってくれている太陽が沈んでしまえば、いよいよ自分はこの日常から去らねばならない。


 この家を出るときは、どうやって、別れの言葉を言おうか。

 いつもみたく、さらっと「じゃ、行ってくる」と言って、颯爽と出て行こうか。

 いや、これが最後の事だから、「皆さん、これでお別れです。どうか、いつまでもお元気で」と申し上げた方が良いだろうか。

 まだ僕が特攻隊へ往くことすら言えてないのに、これでお別れですは、変かな…。


 特攻隊へ往くことも、ちゃんと話さないと、いけないよな…。


「はぁ…。」と溜め息が出てしまう。

言わないといけないとわかっていても、切り出せない。家族がみんな、自分と話すとき、和やかでホッとするような笑顔で見てくるから。この笑顔を消してしまいたくはない。哀しさや悔しさでこの笑顔を曇らせたくない。だけど…。

言わないといけない。

でも…、言えない…。

言いたくない。


「はぁ…。」

また溜め息が出てしまう。

もう、家族と一緒に居られる時間だって限られているというのに…。モタモタしてるいとまはないと言うのに…。

胸の内がいつまでも定まらないことに苛立ちを覚え、そんな荒ぶる自分の心を落ち着かせるために、一人で縁側に腰掛けて庭をぼんやりと眺める。


 こんなこと、ずっと続けてしまいたくないのに…。


そう思えば思うだけ、気持ちが揺れて、平穏が足下から崩れていくのを感じる。まるで自分では無いようにさえ思う。


 普段の自分ならば、実家に帰省したら、どういう行動を取ったであろう。

 大学生だった頃の帰省を思い返してみる。


 家に帰って一息入れたら、弟たちと一緒に遊んだり、妹の悩みを聞いてあげたり、父と囲碁でも差して過ごしたりした。大学のことや一人暮らしのことを心配していた母とも、なんだかんだよく会話したような気もする。


 今回の帰郷ではどうだろうか…。

家族とあまり会話を楽しんでいないように思う。昨日、弟たちと一緒に銭湯へ行ったり、父と祖父と一緒に酒を片手に語り合ったりしたが、それでも口数は少ない方だったと感じる。

 ずっと心の底に引っ掛かって取れない、“この帰郷が、この再会が、最後のことになる”という、もはや脅迫観念に支配されているからだということは、しっかりと自覚している。その自覚があるからこそ、何度もこの脅迫観念に打ち勝とうと格闘していたが、結局は打ちのめされて克服出来ずにいる。


 こんなに、克服出来ないことって、あるのか…。


「はぁ…。」

栓の無い問いに、思わず溜め息が出る。

もう、何度目なのだろう。


 誰かが近くへ寄ってくる気配を感じて、そっと後ろを振り向く。

母の多喜たきが、穏やかな眼差しをこちらへと送りながら、お盆を手にゆっくりと歩いてきていた。

雄吉「母さん…。」

母が雄吉の右側へ並ぶように座り、雄吉がしていたように庭の様子を眺め始める。

多喜「何か、変わったことでもあった?」

雄吉「え…?!」

まるで心の内を見透かされたような母の言葉に、雄吉は焦りを隠せなかった。

そんな雄吉のことを慰めるように、母の視線がこちらへと向けられる。

多喜「話すのが好きなお前が無口でいることが多かったから、どうしたのかと思ってね。」

心に寄り添うように、なんと快い言葉なのだろう。このまま母に、ずっと引っ掛かっている事を打ち明けてしまいたくなるほどに。もし母に打ち明けることが出来たのなら、この荒波激しい自分の心を落ち着かせることが叶うのだろうか。それとも、後悔に押し潰されて、また別に苦しみを背負うことになるだろうか。

 苦笑いしながら、母の質問への回答を口に出す。

雄吉「そんな。僕だって、時には黙って考え込むことだってありますよ。」

 やっぱり、言えない…。

長年自分のことを見守ってきた母のことだ。何か思い悩んでいることがあるのは帰宅して間もないうちにお見通しだったことだろう。だから、一晩この家で休んで一息ついた頃合いを見計らって尋ねてきたといったところか。

母は微笑みを浮かべながら再び庭へ視線を移して、穏やかに話してくる。

多喜「そうかい。まぁ、軍に入ってしまえば、いろいろご苦労もあることだろうよ。」

雄吉「まぁ、いろいろありますよ。それもこれも、御国のためのことですから、致し方ありません。」

なるべく冷静を保ったまま答えていた。だが、雄吉はまた腹の底が燻されるような居心地の悪さを感じていた。黙って考え込むと言った雄吉の考え込む内容について、軍に関連したことだと母が予想していたことに、内心驚愕でいっぱいだったからだ。

多喜「そうかい。頑張っているんだね。」

雄吉「えぇ、まぁ…。」

素っ気ない返事をしたが、母はさらにニッと笑って、視線を雄吉へと向けてくる。

多喜「それなら、手出し無用だね。」

雄吉「はい。ご心配おかけして、すみません。でも、大丈夫ですから。」

これ以上の心配を掛けまいと願って、雄吉も愉快に笑って言ってやった。そんな自分のことを見てから、母は頷いてくると、お盆に乗せていた湯飲みをそっと差し出してくる。緑茶が入っていた。

多喜「お茶入れたから、良かったら。」

雄吉「ありがとうございます。」

雄吉の返事を聞き届けてから、母はさっと立ち上がって台所へと去って行った。


 「ふぅ」と一息つく。

垣根の手前に生えてる三本のタンポポの花弁が風に靡く様をじっと見詰めながら、胸の内で呟いてみる。


 お母さん。

 本当は、全然大丈夫じゃないんです。

 何とかしなくちゃいけないって思って、何度も覚悟を決めているのに、家族の、みんなの顔を見てしまうと、ダメなんです。一瞬に、覚悟が消えてしまうんです。


 でも、こんなこと言ったら、お母さんはきっと、哀しむでしょ。

 これが、最後の帰郷で、お会い出来る最後の機会です。これで、お別れでございます。


 本当は、そう言って、みんなときちんとお別れしたいと思っているんです。

 でも…。


 みんなと別れることも辛いけど、それ以上に、ここまで育てて下さったご恩に報いる事も出来ず、僕に寄せてくれていた多くの期待を裏切ってしまうことになることの方が、とても苦しいんです。


 だから、言えないんです…。

 僕のことを、大切に思ってくれて、愛されているとわかっているから、お別れですと言ってしまったときに芽生える哀しみや苦しみ、恨みや憎しみの諸々が、恐いんです。


 あと6時間もすれば、今生の別れのときがやってきます。

 この6時間の限られた時間の中で、お父さんやお母さん、家族のみんなへ、これでお別れですと言えるかどうかわかりません。

 でも、もし、言えなかったとしても…。

 何も語らずに家を出て行ってしまったとしても…、許して、くれますか…?



「はぁ…。」

もう何度目か知れない溜め息をついてしまう。

 小鳥のさえずりが、まるで雄吉のことを慰めるように頭の上の屋根から響いてきた。美しい、聖母の歌声のように。

 

 

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