第6話 病と運命と
もうすぐ22時になろうかと言う頃だった。
父と、途中から祖父とも一緒に酒杯を重ねていたが、父が眠くなったと言ったところでお開きになった。
息子との酒杯に気分を良くしたのだろうか。初めから父の飲む勢いが凄まじかったのは確かだった。最初のうちは薄い日本酒が振舞われたのだが、途中から製造も粗悪な焼酎に替えられたため、一気に酔いが回ったようだ。
雄吉自身、少しばかり眠気を誘うくらいには飲んでいた。
父が寝室へと消えたときにはすでに宴会も終わっており、食卓には母と自分だけが残されていた。
ぼんやりと浮いてるような感覚に襲われながら俯いて座る雄吉に、母の多喜はそっと声を掛けてくる。
多喜「雄吉も、もうお休みよ。布団、部屋に敷いてあるから。」
ありがとうございます。そうさせてもらいます。
そう言ったつもりだったが、口から出た言葉は…
雄吉「うう…。」
だった…。
そんな雄吉を見下ろすように立ち上がる母は、食卓の上に並んだままの食器や猪口、徳利を盆に載せて、そのまま台所へと去って行ってしまった。いよいよ、雄吉しか居なくなった。
しばらくダラっと項垂れながら、流しで食器を洗う音を聞く。どことなく心地の良い、家族の日常を聞いているようで、もっと聞いていたいとさえ感じてしまう。
いつも、母さんは遅くまで起きて、
そんなことを思う。
少しの間振り返って台所の入口を見つめてから立ち上り、誰も居なくなった食卓を離れ、雄吉はそっと厠へと向かう。
父との酒杯も終えて気持ちが落ち着いたのか、肩の荷が下りていくような感じがする。さらに、ションベンをしながら全身の緊張が弛緩していくのを感じ、ますます身体が楽になったような気になる。
そういえば、
近所に住む幼馴染だった。ここへ帰ってくる途中に彼の家の前を通った時、彼の母親と偶然会って、彼が軍需工場へ勤務していることを教えてくれた。そして、夜には戻ってくる旨伝えられたのだ。
今からでも、ちょっと会いに行ってみるかな。
そう思い、雄吉は前をしまい込んだ。
武雄の家に行き、玄関を叩くと、また先ほどの武雄の母親が出てきた。
女性「あら、雄吉くん。」
雄吉「夜分遅くに申し訳ありません。どうしても、今晩中に武雄くんに会っておきたくて。」
雄吉がどういう事情で帰郷しているのか知っている武雄の母親は、すぐに雄吉の言葉の意図を納得したようで、優しく話してくる。
女性「えぇ。もう帰ってきているから、上がって。」
雄吉「ありがとうございます。お邪魔致します。」
家の中に上げてもらい、武雄の部屋へと案内される。
確か、武雄の部屋は二階の南西向きの角部屋だ。
今思えば、武雄はなかなかに良い条件の部屋を自室として使わせてもらえているものだ。自分がかつて暮らした下宿など、北東向きの中部屋で、おまけにすぐ裏には工場の高い壁があって日当たりは決して良くなく、風通しも悪かったので、夏場の湿った時期は室内が蒸して過ごしにくさを感じたものだった。
そんな幼馴染の自室を羨みながら廊下を進む。
二階へと上がる階段を上ったときだった。武雄の母が曇った表情で話し出す。
女性「実はね、武雄、半年前から結核を患ってしまって…。」
雄吉「え?!」
女性「今すぐ危険な状態ってことではなさそうなんだけどね。でも、これから先、どれくらい持つのか…。」
雄吉「……。」
絶句していた。まさか、武雄が結核に掛かってしまうなんて…。
黒い丸眼鏡を掛けた丸みを帯びた優しい武雄の笑顔が思い浮かぶ。
女性「帰ってきたときにね、雄吉くんが帰郷していて、今晩来るかもって言ってあげたら、すごく嬉しそうな顔してた。あんなに嬉しそうに笑う武雄って、結核になってからはほとんど見なかったと思うの。だからね、雄吉くんが武雄に会いに来てくれて、本当に良かったって思っているわ。」
雄吉「ありがとうございます。僕も、武雄に会えるのは嬉しいです。まさか、そんな重病になってしまっていたなんて…。」
きっと、結核を患ってしまってから武雄は笑わなくなったのだろう。自分の記憶の中の武雄は、本当に良く笑う奴だったし、何でもないような冗談がとても面白く感じるようで、所謂笑い上戸というものだった。そんな武雄が、自分との再会を期待するまであまり笑わなくなってしまったなんて、本当に信じられないことだ。
この家の南西向きの角部屋の前の襖のところまで至る。
武雄の母親が、自分が訪問したことを襖越しに武雄に伝えると、中からモゴモゴした口調の武雄の声が聞こえてきて、「入れてあげて」と答えてきた。寝起きなのだろうか。掛布団を除けるような音も聞こえる。
女性「どうぞ。あとでお茶を持っていくからね。」
雄吉「ありがとうございます。」
武雄の母親がその場を去るのを見送ってから、雄吉はゆっくりと襖を開けて、中の様子を窺ってみた。
室内は、以前ここへ来たときの記憶よりもやや散らかり気味で、敷かれた布団の上に小柄で背中を丸めながらこちらを見上げてくる、黒い丸眼鏡を掛けた青年が居た。彼の布団の周りには、本や薬の袋、湯飲みが乗った盆などが置かれており、工場で働いている間以外はこの布団に寝て療養していることが窺がえた。
武雄…。記憶していた姿よりも、痩せてしまって…。
身体の線が細くなり、頬は削げてしまって、まともに手入れもできないのだろう、やや伸びてしまった無精ひげが気になるところではあったが、黒い丸眼鏡の奥に並ぶ両目は、雄吉を優しく捉えた愛らしさを感じるほどの笑みを湛えていた。
雄吉「久しぶり。」
武雄「おう! 散らかってるけど、よかったら中へ入ってよ。」
雄吉「お邪魔します。」
室内に入り、武雄の机の前に置かれた座布団の上に腰かける。
武雄「少しは片付ければよかったんだけどさ。」
雄吉「大丈夫。大学時代に下宿してたときは、僕もこんな感じになってしまってた。」
お互いにハハハと笑い合う。
武雄「基地の異動で、三重に行くんだって?」
雄吉「あぁ。
武雄「そうかぁ。遠くへ行ってしまうんだな。」
またいつか帰ってくるさ。
ついうっかり、そう言ってしまいそうになり、ギリギリのところで押しとどめた。
雄吉「軍需工場へ働きに出ているって聞いたけど。」
武雄「仕方ない事だよ。若い働き手がほとんど残っていないから。俺みたいに、軍役にも就かないダメ男がなんとかしないと、前線で頑張ってる雄吉たちに申し訳が立たないって。」
雄吉「そんな、お前が、ダメ男だなんて思ってなんかいないよ。」
武雄は、俯きながらフフフと小さく笑ってくる。
武雄「小さい頃から、眼鏡しないとまともに物が見えなくて、それで徴兵検査にも引っかかって、おまけに結核までもらってきてしまって。情けないことだよ。本当に。雄吉たち、前線へ行った友達に、本当に申し訳なくなる。」
確かに、武雄は雄吉が物心ついたころから眼鏡を掛けていた。酷い乱視があって、眼鏡をしないと物がはっきり見れないということだった。だが、体力は自分と同じ、いや、それ以上にあったように思う。むしろ、自分の方が幼少期は病気がちで貧弱だった。なのに、目が悪いという理由で徴兵検査も丙種合格に落とされ、民兵隊員として、地元に残された。周りの同年代の友達は次々と赤紙がやってきては、陸軍やら海軍に入営していって、御国の為に戦地へと赴いて身を張ってお務めを全うしているというのに、自分だけ里に残されて直接戦場へ行くことも戦うこともなく、後方支援に徹している。
そんな彼の事情を考えると、卑屈な気持ちになってしまうのも致し方ない。
ゲホッゲホッと、武雄が掠れたような咳きをする。そして、雄吉のことを見上げてくる。
武雄「だから、働かないとって思うんだ。結核に蝕まれたこの身体でも、命に代えて、働かないとって。だって、雄吉や、他の友達は、もっと過酷な状況の中で、頑張っているから。」
雄吉「武雄…。」
また武雄は、ゲホッゲホッと咳き込む。そんな武雄の背を雄吉はさすってやると、少しばかり武雄の呼吸が穏やかになる。
武雄が雄吉の顔を見上げてくる。
武雄「雄吉。お前は、しっかり生きてくれな。俺はきっと、そんなに遠くないうちに、結核に命取られるだろうと思う。だから、雄吉は、生き抜いてくれよ。どんな戦場へ行こうが、生き抜いて帰ってきてくれ。」
そんな遺言のような武雄の言葉を聞いて、雄吉は息を呑んだ。
それは、むしろ僕が言いたいのに…。
そう思っていると、廊下を歩く足音が聞こえ始め、すぐに部屋の襖越しに武雄の母親の声が聞こえた。
女性「お茶を持ってきたわよ。」
武雄「おう!」
少々面倒くさそうに、武雄は襖に向かって言い放っていた。
襖が少し開き、武雄の母親がお茶を入れた湯飲みを乗せた盆を雄吉に渡すと、すぐに武雄の母親は退散していった。
頂いたお茶を一口啜ってから、雄吉は背を丸めながら俯く武雄に向かって話し掛ける。
雄吉「なぁ武雄。僕が陸軍に入隊するときの壮行会で、新兵代表の学生が答辞を読んでたけどね、「我らもとより生還を帰せず」って言ってたけど、僕もそのつもりで入隊したんだ。軍に入ったからには、生きて帰ることは期待しない。死ぬつもりで戦う。これからどんな任務に就くか知らないけど、戦いに出たらもう、還ってくることは無い。」
力なく、武雄は雄吉の眼を見てくる。そんな武雄に、雄吉は明るい口調で話してやる。
雄吉「だから、生き抜いて帰ってきてくれっていう願いは、残念ながら叶えられそうもないよ。」
武雄「そうかぁ。そうだよね。」
雄吉は武雄の正面に回り込み、しっかりと武雄の眼を見て話す。
雄吉「むしろ、僕は武雄こそ、僕たちの分までしっかり生き抜いて欲しいって思うんだ。」
武雄「でも、俺…、結核になってるんだよ?」
雄吉「わかっている。でも、しっかり身体を休めて、栄養摂って、適切な処置を受ければ、結核から生還した人だって何人もいるだろ。」
武雄「だけど…。」
俯きながら涙を浮かべ始めた武雄だった。きっと、結核を患ったことで常に死の恐怖と戦ってきたことだろう。それに加えて、男子であるのに戦争にも行かず、その上結核で床に伏せってしまう不甲斐なさに、ずっと悩んで打ちひしがれてきたのだろう。
誰にも言えない苦しみのほんのひと欠片を、幼馴染である自分には打ち明けてくれたのだろうと思う。それがわかったとき、雄吉は武雄の細い身体を抱きしめていた。
雄吉「僕はきっと、そう遠くないうちに戦場へ行くことになる。そしたら、もう、還ってこれる保障はない。もしかしたら、これが最後の再会になるかもしれない。でも、武雄。キミなら、まだ生きていける。生き続けて、戦争が終わった後も、ずっと生き抜いて行ける。結核なんかに負けるな。僕の分まで、しっかり生き抜いてくれよ。」
雄吉の腕の中の武雄の身体が、小刻みに震え出す。
人生、何が起こるか、わからないものなんだな。
大学在学中に戦争へ駆り出されて、特攻隊へ往くことになって間もなく幕を閉じようとしている人生。
一方で、戦争には駆り出されなかったものの、結核で生死を彷徨わなければならない人生。
どうして、僕たちは、こんなに若いうちから死を意識しないといけないんだろう。
もっともっと、長く生きて行っても誰も悪く思わない歳のはずなのに、なんで、あと少しで死ななければいけないんだろう。
これが、自分たちの運命なのは、わかっている。
生まれたときから決められた、運命に従ってここまでやってきたけど、ここまでやってきたとき、どうも残る運命の道が短いことがわかってしまった。ただ、それだけ。
ただ、それだけなのに、どうして、こんなに苦しく感じてしまうのだろう。
もし、運命に無駄が無いのだとしたら、自分たちの人生とはいったい何なのだろう。
僕はまもなく、御国の為に、この日本を守る盾として、死にに行く。
武雄は、戦争にはいかなくても、この町に残って貴重な若い男手として工場を支えている。きっとそれは、これからも、戦争が終わっても、この町に残った稀少な若い男子として、背負うべきことが多くあることだろう。
武雄、やっぱり、キミは生き抜いてくれ。
この町のためにも、それから僕のためにも、生き抜いてくれ。
武雄への思いが募り、言葉に直して腕の中の武雄へ伝える。
雄吉「たとえ僕たちがみんな、戦場で散ったとしても、キミはこの里に残って生き続けてくれたら、嬉しい。この里のことを頼むよ。そのために、キミは戦争に往かなくても良い身体を持って生まれたんだ。」
武雄が雄吉の腕の中で、声を上げて泣きだす。
武雄の泣き声を聞きながら、雄吉は自分と武雄の人生について呪っていた。
しばらくすると、ひとしきり泣いて気が収まったのか、武雄はゆっくりと雄吉の腕の中から出て、眼鏡を外して両目を拭った。
武雄「ごめん、ちょっと、取り乱した。」
もう一度眼鏡を掛け直し、ニコッと笑いながら武雄は言ってきた。
武雄「そうかぁ。これが、最後か…。そしたら、ちょっくら、やるか。」
言い切ると、武雄は足元の掛布団の中へ右手を潜らせ、くいっと何かに引っ掛けて手を戻してきた。掛布団の中から出てきた右手は、なんと一升瓶を掴んでいた。
雄吉「武雄、これ?!」
武雄「ただの焼酎だよ。結核って診断されてからは、毎晩寝る前に怖くなるんだ。もう死ぬかもしれない。今晩は平気でも、明日は血を吐くかもしれない。明日の晩には危篤になって、そのまま死んじまうかもしれないって、怖くなってさ…。」
右手にした一升瓶の褐色色を見詰めながら、武雄は切なそうに答えていた。
そんなに、追い詰められてしまっていたなんて。
雄吉「それで、毎晩それを煽って?」
武雄「他に方法が無かったんだ。」
武雄も、僕と同じなのかもしれないな。
病で後が少ないのか、軍の命令で後が少ないのか、そんな小さな違いなだけで、結局、もうすぐ死ぬという気持ちに襲われるのは変わりないんだもんな。
雄吉「そんな貴重な酒を頂いてしまっても良いのか?」
武雄「せっかく来てくれたんだし、昔話でもしながら飲もうや。それに、一度雄吉とこうやって酒飲みながら話してみたかった。」
雄吉「うん、それは僕にもあったな。」
お互いに、先ほど出されたお茶の湯飲みを手にして、まずは湯飲みに入れられているお茶を一気に飲み干してやる。
改めて湯飲みを並べて置くと、武雄はそっと焼酎を湯飲みに注ぎ、片方を雄吉へ差し出してきた。
武雄「それじゃ、始めようか。」
自分の湯飲みを手にしながら、武雄は号令をかける。
それに呼応して、雄吉も湯飲みを手に取る。
武雄「そんじゃあ雄吉、お帰りなさい。」
雄吉「ただいま。」
ささやかな乾杯をしてから、焼酎を一口口に含んだ。
お互い、はぁと息を吐きだす。
武雄「まぁ、頑張ってみるよ。どれだけ、このオンボロが持つかわからんけど、雄吉たちが安心して戦場へ行けるように、この町のことは任せてくれ。」
雄吉「あ、あぁ。」
急に武雄の様子が変わったことに、雄吉は一瞬戸惑った。だが、すぐに彼が泣いて気持ちの整理が付いたことを悟ると、雄吉はすぐに安心して武雄の言葉に耳を傾ける。
武雄「それに、結核なんかに負けてらんねぇよな。命懸けて戦ってくれているお前らに、それこそ申し訳ない。」
雄吉「頑張ってくれな。長生き、しろよ。」
武雄「当たり前さ。でも、もしこの戦争を生き抜いて終えることが出来たらさ、ちゃんと、帰ってきてくれよな。」
雄吉「当たり前さ。」
雄吉は笑いながら、そう答えていた。
武雄の顔に、記憶していた満面の笑みが戻っていたからだ。
万に一つ、生き永らえて終戦を迎えることが出来たなら、もちろんこの故郷へ帰ってきたいと思う。そこで、元々あったはずの生活に戻り、もっともっと人生を楽しんでやる。
それも、叶わぬ夢なのだろうが…。
それからは、幼い頃の思い出話に花が咲き、お酒の効き目もあったのか、とにかく話が弾んだ。
気が付けば明け方近くになってしまっていたので、さすがにこれ以上はまずいと思い、名残惜しい気持ちを持ちながらもお開きにした。
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