第5話 言わなければ!

 銭湯から帰宅すると、間もなく海村家では夕食が始まった。

 既に女工場で働く二番目の妹、嘉代かよと、役所勤務をしている父、雄悟朗ゆうごろう、祖父の真悟朗しんごろうも帰宅しており、海村家の面々が勢揃いしての夕食だった。


 父と祖父が、まるで大仏が蓮の葉の上に鎮座するように食卓の上座に座っていたので、雄吉は始めに挨拶へと足を運ぶ。

 雄吉の姿に気付いた父は、すぐに豪快な野太い声で「おお、雄吉!」と言い放ってきた。

父の前に正座して、頭を下げる雄吉。

雄吉「ご無沙汰しております。」

雄悟朗「よく、帰ってきたな。御国の為に、しっかりお上の務め、果たしているか?」

雄吉「はい! 全力で、日々、精進致しております。」

言い終えてから、雄吉は頭を上げて、しっかりと父の顔を見詰める。厳格な父も、この時ばかりは柔和な表情を見せるのだと、雄吉は以前帰郷したときに初めて知った。

 御国の為に働く息子のことを誇りに思い、久々の帰郷を心より喜んでいることがひしひしと伝わってくるものだ。


 言わないと!

 ここで、あのことを、伝えなければ!


焦りを感じる。

ただ、表情にそれを出してはいけない。何か心に秘め事をしてるなど、悟られてはならない。

「お父さん! この度、雄吉は特別攻撃隊編入の栄誉を得ることが叶いました! 必ずや、アメリカの軍艦を沈めてみせますので、どうぞお喜び下さい!」

と、申し上げれば良いだけのことだ。

そんなに難しい言葉や単語が並んでる訳では無い。落ち着いて話せば、読み間違いや言い間違いも防ぐに容易い文章なはずだ。


 だけど…。


 こんなに、言葉にするのが難儀なことってあるのだろうか。

 自分の久々の帰郷をお喜び下さっている父に、このことを告げることがどれほど残酷なことか。

 もちろん、父のことだから、その場では「よくやった! さすが我が子だ。このような誉れを受けようなど、海村家始まってこの上ない喜びだ。立派な御役目、しっかりと果たしてこい!」と、激励の言葉を掛けてくれるに違いない。

だけど、本心ではどう思ってくれることだろうか…。その場面を目撃していた他の家族は、どんな気持ちになるのだろう。

 このまま、言ってしまいたいのに、言えない…。言わずに去ることだって出来る。でも、あらかじめ特別攻撃隊編入の栄誉を得たという事実を報せる方が、いきなり自分が戦死した報せを受け取らなければならない母や父に、覚悟を定める猶予を与えることが出来るかもしれない。


 どうすればいいんだ…!

 言わないといけないのに、言葉が、出て来ない…。


そんなとき、母の多喜たきが徳利と猪口を乗せた盆を持って入ってくる。

多喜「さぁさぁ、雄吉が帰ってきたことを祝して、乾杯しましょ。」

帰ってきたことを祝してというのも可笑しな話だとも感じるが…。

父の前に置かれた盆に視線を向けながら、そんなことを思う。

盆に乗せられた猪口を一つ、父が手に取ると、それを自分の方へ差し出してくる。猪口を父から受け取ると、父は愉快そうな笑みを見せながら徳利を手にし、そのまま雄吉の猪口へ傾け始めた。

雄悟朗「さ、まずは一つ。」

雄吉「ありがとうございます。」

雄吉の猪口に並々と透き通った酒が注がれる。続いて、雄吉が徳利を受け取り、そのまま父の猪口を酒でいっぱいに満たす。

準備は完了だ。

周りを見渡すと、母や祖父母、兄弟姉妹たちも皆、何かしらの飲み物を手にして待っていることがわかる。

雄悟朗「では、今晩は雄吉の久々の帰郷と、海村家の繁栄、それから、大日本帝国の勝利を祈って、乾杯!」

父の号令に呼応して、家族みんなの「乾杯!」という合唱を聴きながら、猪口を頭の上に掲げる。そして、父から受けた酒を一口含み、二、三度舌で転がして味を確かめてから、喉へと流す。

 やはり、水を入れて嵩を増した粗悪な日本酒だ。酒の味なんて薄くてはっきりしない。

このご時世、純粋な清酒を飲める者など、それこそ天皇陛下だけなのではないかと思うほどだ。今は戦争中だから、贅沢は許されない。だからそれは仕方の無いことだと、強く思う。味気ないほどに。


 乾杯を終えると間もなく、父から再度お酌を受けた。今晩は息子と飲みたいと思ってくれているのだろう。

雄悟朗「で、どんな感じなんだ。日本はまだまだ、戦えそうなのか? 今年入ってから、東京や大阪、名古屋で酷い空襲に何度も晒されてる。先週の日曜日には隣の川崎でも空襲があった。」

雄吉「はい…。」

雄悟朗「こんなに空襲ばかり受けるようになってしまって、いったい後どれくらい戦力が残ってるのか、内心心配に思うことがあってな。」

雄吉「……。」

なんと答えるべきだろうか。

なかなかに悩ましい父の質問だった。

 今の大日本帝国にどれだけの戦力が残されているか?

もはやほとんど残されていないというのが、実際に陸軍に入営して感じた雄吉の率直の感想だった。

 昨年の9月に勃発したレイテ島の戦いで大損害を出した日本軍に、これ以上力任せに抗戦出来るほどの物資も人員も残されていないのが現状だったのだ。さらに、今年3月に入ってからは沖縄にまで連合軍が侵攻してきてしまい、沖縄の陸上部隊は当然のことながら、本土からの応援部隊も芳しい戦果は挙げられず、被害が目立つ印象にある。加えて、本土からは陸軍、海軍ともに特攻作戦に出て、更に人も物も失いつつある。こんな消耗戦を繰り返し続ければ、もはや勝利は愚か、降伏すらできない泥沼の状況に陥ってしまいそうである。それこそ、日本人が最後の一人になっても、アメリカをはじめとする連合軍に抗い、日本人という民族そのものが地球上から消えて無くならぬ限り、この戦争は終わらなくなってしまうのではないかと思う事すらあったのだ。

 そして、自分自身も、まもなく戦争という血の海へ身を投げようとしている。

 

 そんなこと、言えないよ…。


仮に、現状について現実的な視点に基づいて考えた自分の思うところを述べたとして、それに恐れや怒り、不安を父が抱いてしまい、それを他の人に言い回してしまえば、父は反国者として憲兵に連行されてしまう事にもなり兼ねない。


 言えない…。

 そんなこと、絶対に言えない…。


雄吉は一度、父からお酌を受けた酒をくいっと一気に飲み込んでから、一つ深呼吸をしてみた。そして、父への回答を口にするのだ。

雄吉「ご心配には及びません。我らが軍にはまだまだ底力がたくさん残されております。必ずアメリカを震撼させる快進撃をご覧に入れる事でしょう。ですから、どうぞ大船に乗ったつもりで、ご安心くださいませ。」

不味い酒の味に対して苦笑いでもするつもりで、雄吉は笑いながら父にそう申し上げた。

雄吉の言葉を聞いて気分を良くしたのか、父は豪快に声を上げてワハハと笑い出す。

雄悟朗「そうか! 軍に入ったお前がそう言うなら安心だ。」

言いながら、父はまた徳利を手に取り、雄吉の猪口へ酒を注いでくる。

雄悟朗「お前の活躍にも、期待してるからな。」

雄吉「はい。必ずや、敵にあっと言わせて見せます。」

父の愉快そうな笑い声を聞きながら、お酌を受けた酒を少し口に含む。


 ごめんなさい、お父さん…。

 僕が今申し上げたことに、嘘偽りはございません。ですが…。

 

 我が軍に残された底力とは、今まさに敢行されている、特攻作戦の事でして…。

 アメリカを震撼させる戦果を目標に、僕も往って参ります。

 ですから、これが、最後のことになることでしょう。こうやって、親子で酒を酌み交わすことも…。

 

 海村家の長男として、お父さんの後を継がなければならない役目を放棄してしまうこと、ご容赦下さい。

 大学まで行かせてくれて、将来はエリートだとあんなにお喜び下さったというのに、何一つ恩返しすることも叶わず、この戦争の火花と散っていくことを、…お許し下さい。


 雄吉はもう一度深呼吸して、酒を一気に煽ってやった。言いたい言葉が溢れてくるというのに、何一つ表現できない。言わなければ!と強く思うのに、焦るだけで何も実行できない。

どうしようもない苛立ちを沈めるために、酒を煽るという荒業しか方法が無いのが虚しく感じる。

そんな自分を嫌って、さらに苦しさを感じる。


 もう、どうすりゃいいんだ!!


雄悟朗「おお、良い飲みっぷりだな。」

そう言いながら、空になった雄吉の猪口へ酒を注いでくれる父。

雄吉「お父さん、今日は飲みましょう!」

その言葉に、父はとても嬉しそうな顔を見せてくる。

我が子と酒を酌み交わすというのは、至上の喜びなのだろう。右も左もわからぬ赤子の頃から面倒を見て、少しずつ大きくなっていくところを見守り続け、いつしか一人前の男子に成長してくれた。そんな息子と、大人の証でもある杯を共にすることが出来るのだ。

実際に妻を娶り、子どもを設けることは叶わぬ夢となったが、きっと自分に子どもが出来て、その子が成人して共に酒を飲むことがあったら、自分も今の父と同じ気持ちになるであろうことは、容易に想像できるのだ。もちろん、父が今感じているのには、もっと多くの思いや深みを伴っていることだろうが。

雄悟朗「おう、そうだな。今夜は飲むか!」

雄吉「はい!」

力いっぱい笑みを湛えて雄吉は言い放っていた。

雄悟朗「多喜! もう、あと二つ、付けてくれ!!」

空になった徳利を掲げながら母に酒を頼む父を見て、雄吉は嬉しく思う。それと同時に、心の中では切なさも広がっていくのだ。


 お父さん。今日は、うんと語り合いましょう。

 生涯の思い出として…。

 こんな息子が、あなたの長男として、杯を共にした夜があったという記憶として…。

 さようなら、お父さん…。

 今まで、育ててくださいまして、ありがとうございました。

 僕は、お父さんの子どもに生まれて、本当に幸せでした。

 僕は恐らく、もうすぐ、一足お先に極楽へと逝かせて頂きます。

 僕の分まで、お元気で、長生きしてくださいね。


そう胸に思いを抱きながら、雄吉は父と最後の杯を交わした。


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