第4話 朧月夜
潤い湛えた涼風が優しく吹いてくる。もしも大学の講義で「春風がどんなものか定義せよ」というレポート課題が出たならば、何と書こうか。
温かみを感じることが出来る、生命の息吹に満ちた風。
ざっと概要を記すなら、こんな感じだろうか。
冬の寒さに耐え切って、「よくやった!」、「頑張った!」と慰めるように、植物たちに芽吹きの強さを与えてくれる優しさに溢れる風。
人々にとってみても、温かで柔らかな感触で包み込んで、心地良い気持ちにさせてくれる穏やかな風。
そんな春風に吹かれながら、故郷の町を歩く。
特別な何かがある訳でも無い。ただ何でも無いことなはずなのに、それが今はとても尊い出来事のように感じて仕方ない。
道の脇に建つ家や、田んぼの畦道。顔を上げて辺りを見渡せば、緑の木々に覆われた丘の山容。カエルの鳴く声も微かに聞こえてくる。辺りは薄暗くなりつつ、それでいて、空はまだ明るさを保って淡い桃色に染まっており、黄昏時の情景をそこに映し出している。
のんびりと弟たちと一緒に銭湯目指して歩く、この平穏な時間とは、なんと快いものなのだろうか。
雄造の学校生活の話や、雄竜が最近している遊びの話など、日頃弟たちがどんな暮らしをしているのか聞きながら歩いていた。
ここのところ、雄造は足の骨に痛みを感じることが多いらしく、所謂成長痛の悩みを抱えてるらしい。
雄造「まったく、歩くの辛くて本当に困ってる。」
ハハハと笑ってやる。
同じような経験が雄吉にもあったから、微笑ましくもあるのだ。誰しも通り抜ける、通過儀礼のように症状が現れる成長痛だ。本人が辛いのはよくわかるが、それを経験してきた者からすると、弟の成長を頑なに告げる事でもあり、喜ばしくも感じるのだ。
雄吉「まぁ、よくわかるよ。確かに歩くの辛くなるよな。」
雄造「兄ちゃんはどうやって耐えた?」
雄吉「どうやって、か…。」
何か痛みを耐え抜く工夫をしただろうか。
いや、何もしなかったような…。
雄吉「何も、しなかったと思うかな。」
雄造「ええ…。」
同じ経験を乗り越えたであろう兄から得られる助言を期待していたのだろう。何もしなかったと言った途端に、雄造は極端なくらいに過剰な反応で項垂れていた。
雄吉「気が付いたら、痛くならなくなってたから。」
雄造「そんなぁ。じゃあずっと我慢するしか無いってこと?」
雄吉「そういうことかな…。でも、それもあっという間だ。」
雄造「あ~あ。辛いなあ。」
項垂れながら歩く弟のことを笑ってやる。愉快なものだと感じる。
雄吉「まぁそんな下ばかり見てないで、前向きに考えようよ。もうすぐ身体が大人になるってことだしさ。」
雄造「それはわかってるけど…。」
雄吉「とりあえず、上向こう。上。」
励ますつもりで、率先して雄吉は空を見上げてみる。ちょうど視線の先に半月が浮かんでいる。霞んだ空を通して見えるためか、月も霞んで朧気になっている。
雄吉「あ! 月出てる。」
雄吉の言葉に、下を向いてた雄造に加えて、傍で兄たちのやり取りを眺めていた雄竜も空を見上げ始める。
雄竜「本当だ。」
雄造「けど、霞んでてあんまし綺麗に見えないなぁ。」
雄吉「そうかな? これはこれで、風情があって綺麗な光景だと思うけど。」
雄造「そうかあ?」
訝しみながら雄吉のことを見てくる雄造に、雄吉は優しく語ってやる。
雄吉「
雄造「おぼろづき? 朧月って、あの歌にある朧月夜の朧月?」
雄吉「そうさ。」
もう一度、雄吉は空を見上げて朧月を拝む。
雄吉「春の風物詩だ。朧月夜の歌詞を思い出してみろよ。」
雄造「朧月夜の歌詞…。えっと…。」
雄造が深呼吸した。歌詞を思い出しながら歌おうとしているのがわかる動作だ。
雄造「菜のは~な畑~に、入~り~日薄れ~」
雄吉「見渡~す山の~
雄造「春か~ぜそよ吹~く、そ~ら~を見れば~」
雄吉&雄造「ゆうづ~き掛かり~て、に~お~い淡し~」
弟と一緒に歌ったことで、なんとなく愉快な気分になる。そして、雄吉は雄造のことを見下ろしてみると、雄造も同じ気持ちだったのか、自分のことを見上げてきた。
雄造「確かに、春っぽい。」
雄吉「ね。」
雄竜「何なの、その歌?」
突然歌い出した兄たちを傍で見ていた末の弟は、謎めいた様子で話し掛けてきた。無理もない。雄竜はまだ、朧月夜を学校で習っていないのだ。
高野辰之作詞、岡野貞一作曲の「朧月夜」は、尋常小学校の六年生になって学習する楽曲であるため、尋常小学校を卒業している者ならば必ず一度は聞いて歌ったことがあるはずなのだが、まだ尋常小学校の六年生にはなっていない雄竜には、そんな歌があることなど知る由もないことなのだ。
雄造「そうそう、お前はまだ習っていないはずだな。」
雄吉「朧月夜っていう歌で、ある春の黄昏時に霞んだ月が掛かっていて、その美しさを表現した歌なんだ。まるで、今日の月みたいに。」
雄竜「ふ~ん。」
雄竜がまた朧月を見上げ始めたのをきっかけに、雄吉と雄造もまた、朧月を眺めてみる。
霞んだ淡い桃色の空に、一際明るい半月がその輪郭をぼかしてぼんやりと浮かんでいる。そして、まるで一枚の絵画のように故郷の町の様子に溶け込んで見えるのだ。
菜の花畑は広がっていない。だが、田んぼの畦に伸びる草や小さな花々、そして町を囲うようにして聳える丘の頂きが淡く霞んで見えることに違いはない。穏やかな春風の吹く空には、桃色に染まる中に霞む半月が輝いている。
それらが一つになって、美しいという言葉だけでは言い表せようもないほどの、心に残る景観が広がっているのだ。
実に美しい。
こんなに美しい月を見たことが、今までに一度でもあったかな…?
そう感じる。
そして、思わず口ずさんでしまう。
雄吉「菜のは~な畑~に、入~り~日薄れ~、見渡~す山の~
雄吉&雄造「春か~ぜそよ吹~く、そ~ら~を見れば~、ゆうづ~き掛かり~て、に~お~い淡し~」
いつしか雄造も歌い出していた。
雄吉「里わ~の
雄吉&雄造「
こんなに綺麗に、この町が見えるなんて…。
ここは本当に僕の生まれ故郷なのかな?
そんな気持ちにさえさせてくるほど、美しい。
気付かぬ間に、頬を伝う輝きが雫となって落ちていく。
どうして、こんなにこの町が美しく見えるのか、心の奥底でははっきりとわかっていたからだ。
一緒に歌って調子が出てきたのか、雄造はまた朧月夜を歌い出す。
雄造「菜のは~な畑~に、入~り~日薄れ~、見渡~す山の~
わかっている。
こんなに綺麗に見える理由なんて、最初からわかっている。
雄造「春か~ぜそよ吹~く、そ~ら~を見れば~、ゆうづ~き掛かり~て、に~お~い淡し~」
きっと、雄造や雄竜には、これほどこの朧月が綺麗に見えたりはしてないと思う。
そのはずだ。
もし今日、あの命令さえ受けていなくてここへ帰ってきていたら、僕だって雄造や雄竜と同じ月に見えたはずだから。
雄造「里わ~の
綺麗に見えるはずだよ。
見えない訳ない。
だって…。
だってこれが…。
雄造「
僕が眺めることの出来る…
雄造「さなが~ら霞め~る、お~ぼ~ろづきよ~」
最後の朧月夜だから…。
また一筋、涙が流れていくのを感じる。
朧月が歪んで見える。
ダメだ。
早く、涙を拭わなくては…。
弟たちに気付かれる前に、堪えなければ…。
雄吉は右手で顔面を覆いながら俯く。
そんな兄の様子を不審に思ったのか、想像通り雄造と雄竜が心配そうに声を掛けてくる。
雄造「兄ちゃんどうした?」
雄竜「大丈夫?」
頼むからほっといてくれ。
そう言いたい気持ちに強く蓋をする。弟たちは、当たり前の行動をしてきただけなのだ。急に顔面を手で覆って俯けば、誰だって心配になるものだから。
モゾモゾと右手を動かして涙を拭いながら笑顔を作る。
そして覆い隠していた顔を弟たちに披露してやり、心配を取ってやるのだ。
雄吉「大丈夫。風吹いて目に埃が入ってしまっただけだよ。」
雄造「なんだ、良かった~。まさかとは思ったけど、もしかしたらオレの歌が音痴で悩んでしまったのかって思ったよ。」
雄竜が噴き出して笑い出す。雄吉も吊られて笑ってしまう。
雄吉「大丈夫。お前の朧月夜、最高だったよ。」
雄造「そうか? それは嬉しいなあ。」
もう、涙は出て来ないだろうと感じる。そう思えることで、とにかく安堵感を覚えた。
もっと、穏やかになれるようにと、気を惑わすつもりで弟たちと会話を続けようと思う。
雄吉「そうそう。朧月夜の歌詞って、ちょっとした魔法があるんだけど、知ってるか?」
雄竜「魔法?」
雄造「いいや、知らない。何なのそれ?」
弟たちは興味津々といった具合で雄吉に迫ってくる。
雄吉「歌詞がね、4, 4, 3, 3になってるけど、気が付いたかな?」
雄竜「4, 4, 3, 3…?」
雄造「どういうこと?」
雄吉「まず始めのとこの、菜の花畑に入り日薄れのところ、菜の花で四文字、畑にで四文字、入り日で三文字、薄れで三文字。これで4, 4, 3, 3の関係になってるよね。」
頷きながら聞いてくる雄造。これくらいのことなら平気で理解してくる年齢になったのかと感じるものだ。
雄造「なるほど~。ってことは、他も。見渡すで四文字、山の端で四文字、霞で三文字、深しで三文字だ! すげぇ!」
何か新しい宝物でも見つけたかのような、キラキラとした眼差しで自分のことを見上げてくる雄造に、雄吉は思わず頬が綻ぶ。
雄吉「この4, 4, 3, 3のリズムって、実は耳に残りやすいんだ。だから一度でも聞いてしまうと印象に深く残ると、そういう訳だ。」
雄造「ふ~ん。そうなのかぁ。」
雄吉「だから朧月夜の歌詞には魔法が込められてるってことさ。」
雄造「なるほどな~。」
雄造が納得したところで、雄竜が口を開く。
雄竜「ねぇねぇ。僕にも、朧月夜の歌詞を教えて下さい。」
雄吉「そうだな。綺麗な歌だし、せっかくだから雄竜にも朧月夜を教えとこうか。」
雄造「まずはな、菜のは~な畑~に、だ。」
積極的に雄造が歌詞を教え始めたのを見てから、雄吉は最後に空を見上げて、朧月を望んだ。
美しい月とこの故郷の町並を表す歌詞に祈りを込めて、朧月夜の故郷を歩き続けた。
弟たちが歌う、少し音階のズレた朧月夜の歌声に包まれながら。
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