第5話


 噎せ返るような暑さに、心身共にダメージを負いそうになる日曜日の朝。

 灼熱の太陽の下、多くの人で溢れた雑踏の中を掻き分けて、私はある場所へと向かっていた。

 昨日の夜遅くにサユリさんから、『明日、朝九時。いつもの場所で』と連絡が来たからだ。

 ちょうど午前中に何の予定もなかった私はこの誘いに乗り、【いつもの場所】に向かっているというわけだ。

「……ソウくん、ちゃんとメールの内容わかってくれてるのかな? 絶対半分寝てたっぽいしね。一度画面開いてるわけだから、起きても忘れちゃってて気付かないかも……」

 朝。私は目を覚ますとすぐに、ソウくんとの約束通り店長の携帯に電話をかけた。

 藤尾夫妻は私の突然の申し出にも関わらず快く応じてくれて、今日の午後三時頃に時間を設けてくれる事となった。

 その事をソウくんにメールすると、【了解ちましたzzzZ】と返事がきたわけだけど……わざとなのか、寝ぼけながら打ったのか、それは私にもわからない。

 ……来なかったら一人で行ってやる。


 赤い屋根が特徴的なお洒落で可愛らしいカフェ【souvenir】。フランス語で【想い出】という意味らしい。

 若い女の子達に大人気のこのカフェは、勿論私とサユリさんのお気に入りの場所でもある。扉を開けると、よく効いた冷房の冷気がひんやりとしていて気持ちが良かった。

「ミズホちゃん、こっちこっち!」

 私の姿を見つけたサユリさんが高く手を上げる。

「ごめんなさい! 待たせました?」

「ううん、私もちょうど今来たところだよ!」

 すぐに可愛らしい制服を着た店員が、メニューを聞きに席までやって来る。サユリさんはカプチーノ、私はキャラメルマキアートを注文した。

「しっかし昨日、ほんっとーに驚いたよねぇ。いきなり店閉めるとかさ~。言っちゃなんだけど、店長達ちょっと勝手すぎない?」

「きっと、何か理由でもあるんですよ……」

「んー、まぁそうだろうね。店長、幽霊みたいな顔してたし……身体、どっか悪いのかもだね。あ~あ、あのバイトなくなって時間が空いた分、また新しいバイト先見つけないとだわ~」

「サユリさん、掛け持ちしすぎですよ! 就職は考えてないんですか?」

「んー、今はね~。まだ暫くは自由気ままなフリーターでいいや」

「お待たせ致しました~」

 サユリさんの前にカプチーノ、私の前にはキャラメルマキアートが置かれる。サユリさんは、ゆっくりとそれを口に運んだ。

「あーっ! そうだ! 五十嵐くんの事なんだけどさ!」

「……? どうしたんですか?」

「私、やっぱりもういいや。パス!」

 突然のサユリさんの言葉に、私は思わず呆気に取られた。

「えっ! いきなりどうしたんですか! 昨日まで、あんなに彼に夢中だったじゃないですか?」

「だってさぁ……五十嵐くんって、あ~んなにかっこいいのに、ちょっと頭おかしいんだよ。異常だよ異常」

 サユリさんは心底幻滅したように、嫌そうな顔を見せながらその理由を語り始めた。

「私さぁ、昨日漫画エリア整理してたんだけど……ちょっと悪戯心が芽生えてさぁ。後ろから彼を驚かせてやろうと思って、そっと文庫エリアにいる五十嵐くんに近付いたのね? じゃあ彼、小説を手に取りながらずっと一人でブツブツ何か喋ってんの。よーく耳を澄ませて聞いてみたら、何かグロ系のホラーっぽい内容でさ。暗記してんだよ? やばくない? かなり不気味過ぎて一気に冷めちゃった。……あーあ。イケメンなのに、ほんと勿体無い!」

 私は思わず『プッ!』と吹き出し、声を押し殺しながら笑う。ちなみに、脳内では大爆笑だ。

 そんな私の姿を見ながら、サユリさんは頬杖を付き、じっと私を見つめた。

「それにさぁ〜彼、カウンターの中でもずっとミズホちゃんの話ばっかりするんだよ?」

「え?」

「その時はまだ【五十嵐くんラブ】だったから連絡先とか聞いてみたんだけど、ミズホちゃんの連絡先教えて欲しいとか、ミズホちゃんの事ばっかり聞くんだもん。その時点でドン引きなのに、その後の文庫エリアでの奇行……百年の熱も冷めるっての」

「……あ〜、そうなんですか」

 私は引きつった笑いを浮かべた。普通の女の子ならこういう時、胸が高鳴り、彼を男として意識する事だろう。……しかし、彼の思考や性格を微妙にだけど知ってしまった私は『彼の思惑にまんまと引っかかってたまるか』などと、どうしても否定的に捉えてしまう。

 彼の物語は、既に始まっているのだ。

 彼の小説に欠かせないもの。それは、ファンタジー、謎、美しさに残酷さ、恐らくそういった類のものだろう。

 ……そしてもう一つ、絶対に忘れてはならない重要な要素がある。彼の物語に必要不可欠なその要素。

 それは……【恋愛】だ。

 可愛くない私は、全てが彼の計算通りに進んでいるような気がしてならない。……しかし、シンプルではない私のこの性格だ。実際は深く考え過ぎで、彼の中では特に意味を持たない、至って普通のやりとりなのかもしれない。

 まぁそうだとしても、それはそれで彼は相当な天然たらしという事になる。 ますます油断ができない。

 ……連絡先なんて、直接聞けばいいのに。


 その後、ケーキセットを注文した私達は、それを食べながら色んな話をしては沢山笑いあった。

 サユリさんは本当に、とても良い人だ。彼女と話しているだけで場の雰囲気が和む。そういった意味で、彼と彼女は本当にお似合いだと思ったのだが……少し残念に思う。

 けれど本音を言えば、少しだけホッとしたのも事実だ。……私は一体、彼の事をどう思っているのだろう?

「じゃあね、ミズホちゃん! また連絡する!」

 この後、花屋のバイトがあるという彼女と店の前で別れると、私は時計を確認し、急いで書店に向かった。

 ソウくん、忘れずにちゃんと来るかな? 未だに何の連絡もないんだけど。

 ……駄目だ。嫌な予感しかしない。

 書店に着いた私は、一応彼に電話をかけてみる事にした。長いコールの末、とろけるような甘い声が私の耳に響き渡った。

「……はい、は~い。おはようございます~」

「……もう、お昼過ぎてますけど」

「仕事先では~、朝でも昼でも夜でも~、挨拶は『おはようございます』なんです~。ミズホちゃんはそんな事も知らないんですか~?」

 このまま電話を切ってやろうかとも思ったが、とにかく本題に入る事にした。

「今日、店長の家に三時って言ったの……ソウくん、ちゃんと覚えてるよね?」

「……え~? てんちょ~んちにさんじ、てんちょ~んちにさんじ……店長んちに三時⁉」

 彼は電話の向こうで、鼓膜が破れてしまうのではないかと思うくらいの大声を上げる。私はキーンとする耳を押さえながら、電話を反対側に持ち替えた。

「やっと起きたか。このねぼすけくんは」

「今何時⁉」

「二時半」

「何だよ、ミズホ! 何でこんなギリギリに言うの? しかも、何で起こしてくれないの⁉」

「朝にメール入れたらちゃんと返事も返ってきたし、今も電話してるじゃない!」

「とにかく、すぐに向かうから! 店長の家に先に行って……あ、やべ。俺店長の家、知らねーや! あーもう! どうしようかな……ミズホ、今どこ?」

「とっくに書店の前。ちなみにここから店長の家まで徒歩五分」

「了解! すぐ行く!」

 通話が切れた。今頃彼は猛スピードで用意をしている事にだろう。……本当にどうしようもない男だ。

 けれど、寝起きの彼は完全にフニャフニャの甘えん坊モードで何だか可愛かったし、焦る彼はいつもと違って余裕がなく話し方も何だか子供っぽかったなぁ、なんて思いながら、今度は一体どんな顔が見られるんだろう? と、内心ワクワクしている自分がいる事に気付く。

 ……あぁ、このままじゃ彼の思う壺なのかもしれない。

 出会ってまだ四日、たったの四日だ。

 それなのに彼は、私の中に深く入り込んできて、居場所を作り上げていく。

 これも彼のシナリオ通りなのか? ――それとも。


「……すみませんでした。ミズホさん」

「いいよ、気にしないで」

 結局彼は三時に間に合う事はなく、店長に電話して約束を三時半からにしてもらった。

 目の前の彼は初めて会った時のようなボサボサ頭に、だらしがなく伸びた白いTシャツ、黒いハーフパンツ。うん、パジャマだね! これ。

 まぁ……これより酷い、あの面接姿の彼を採用した心の広い寛大な店長の事だ。きっと許してくれるだろう。

「あ。そうだ! ソウくんってホラーも好きだったんだね? しかも、滅茶苦茶グロい系」

「ホラー? 何で?」

「サユリさんに聞いたから。サユリさんかなり怖がってたよ、ソウくんの事」

「あ! それね。違う違う! わざとだよ」

「……え? わざと?」

「サユリさんからのアプローチが凄まじ過ぎてね、ちょっと困ってたんだ。で、彼女が後ろにいる事……俺、ちゃんとわかってたから、わざとグロいスプラッタ系ホラー小説をブツブツ朗読したわけだよ。あの時の俺、かなり不気味だったと思うよ~」

 彼は、『効果あったみたいだな』とケラケラと笑う。

 ……呆れて言葉も出ない。本当にたちの悪い男だ。

「なるほど。だからカウンターでも彼女に諦めてもらう為に、私の話題ばかりをふっかけたってわけだ。納得」

「それは違うよ?」

「え?」

「ミズホの事、もっと知りたかったから」

 そう言うと彼は、太陽よりも眩しい顔で笑ってみせた。

 私はその笑顔とその言葉に、激しく胸が揺れ動く。高鳴る胸の鼓動は身体全体に響き渡り、私は思わず目を伏せた。……こんな顔、彼に見られたくなかったからだ。

「……ソウくん、それってどういう意」

「あ! 表札に藤尾って書いてる! ここが店長の家? ……うわ~、何かドキドキするな~。インターフォン鳴らすよ? いい?」

 ……前言撤回。ドキドキなんかするか、馬鹿野郎。


 彼がインターフォンを鳴らして、数秒。私達は中から出てきた奥さんに案内してもらい、応接間に通された。

「本当に……突然すみません」

「あらあら、いいのよ。気にしないで? もうすぐ主人も来るから。あ、私飲み物入れてくるわね?」

「あ、お構いなく!」

「ゆっくりしていってね」

 奥さんは富士山の絵が描かれた襖をゆっくりと開け、廊下に出る。すると、ちょうど入れ替わりに店長が中に入ってきた。

「ミズホちゃんに五十嵐くん。すまない、待たせたね」

 店長が優しい笑みを浮かべながら、私達に声をかける。

「いえ、こちらの方こそ遅れてすみませんでした!」

「俺が寝過ごしました……すみません」

 店長は寝癖だらけの彼を見て、面白可笑しそうにクスリと笑った。

「相変わらず、君は不思議な青年だね」

「見た目は関係ないですよ。肝心なのは中身です、藤尾さん」

「はは、そりゃそうだ。本当に君は面白い!」

 店長は手を叩きながらゲラゲラ笑うと、私の向かい側に腰を下ろす。そして、ゆっくりと口を開いた。

「――で、二人共。僕に聞きたい事とは、一体なんだい?」

 店長が私達に問いかける。老紳士の顔色は昨日に比べると随分良くなったように見えたので、私はほんの少し安心した。

「単刀直入に聞いてもよろしいですか?」

「なんだい、五十嵐くん。かしこまって。……いいだろう。言ってみなさい」

「橘さんから聞いたんですが、藤尾さんが行かなければならないと行っていた場所。それは……【夜宴の島】の事ですよね?」

 彼の言葉に、先程までは確かに穏やかな笑顔を見せていた店長が、一瞬のうちに表情を変え、その場で立ち上がった。

「【夜宴の島】だと⁉ 五十嵐くん! 君、一体それをどこで⁉」

「都築先生の資料を拝見しました」

「都築くん……? ……あぁ、そうか。そうだったな。君は都築くんがいる大学の」

「はい」

 店長は深く深呼吸をして心を落ち着かせると、ゆっくり畳の上に腰を下ろした。

「……なるほどね。だから、君はうちの店に面接を。これで全てが繋がったよ。けれど都築くんは、この件からはとっくの昔に手を引いた筈だよ?」

「……えぇ。けど俺は納得出来ていないんで」

 彼は仮面を被ったような作り笑いを浮かべながら、店長にはっきりと言い切った。

「……まったく。ミズホちゃんが突然おかしな質問をしてきたと思えば……五十嵐くん、君の入れ知恵かね?」

「えぇ、彼女には俺が話しました」

「それは感心できないな。自分の興味に彼女を巻き込む事はあまり良い事だとは思えない。それが【夜宴の島】の事なら、尚更だ」

 店長はまるで諭すように、真剣な表情でじっと彼を見つめた。

「それは……確かにそうですね。けど俺は、橘さん……いや、ミズホなら大丈夫だと思ったんです。彼女は至ってシンプルだ。熱いものを、ただ熱い。美しいものを、ただ美しい。と素直に感じる事の出来る心。それでいて順応力に長けてて、柔軟に物事を捉えられる彼女に……知識を借りたい、意見を求めたい、そう思いましてね」

 突然の彼の言葉に、私は驚きの色を隠せない。

「……え? 私が、シンプル⁉ どこが?」

「ん? 至極シンプルだよ。……まぁ、たまにおかしな方向に考え過ぎてしまう面はありそうだけど、基本シンプル過ぎてわかりやすい。君の考えなんて手に取るようにわかるよ」

 ……不愉快だ。何だか非常に不愉快だ。しかし彼の言う通り、私の考えている事が全て彼に知られてしまっているとしたら……

 私は急に、穴があるなら今すぐにでも入ってしまいたいと思った。

「とにかく俺達は夜宴の島に行きたいんです。藤尾さんが行く方法を知っているなら是非同行を願いたい」

「いかん。あそこは危険だ。君達は何もわかっていないのだよ」

「……そうよ。あそこに行くには、何かを失わなければならない」

 いつの間にかそこに立っていた奥さんが、私達の会話に口を挟んだ。

「――何かを失う、ですか?」

 私は奥さんの方を見ながら、そう問いかける。

「そうよ……悪い事は言わない。あの島に興味を持つ事は今すぐに止めなさい。貴方達まで取り込まれてしまうわよ」

 奥さんは青白い顔をしながら、その場に立ち尽くしていた。店長はスッと立ち上がり奥さんの傍に近付くと、優しく彼女の背中をさすり、席へと誘導する。

 薄っすらと笑みを浮かべた奥さんは『大丈夫よ、心配しないで』と言うと、店長の隣にゆっくりと腰を下ろした。

「あの、『大切なものを失う』とは……一体、どういう事なのでしょうか? 都築先生の資料には情景描写ばかりが書かれてあって……その、具体的な情報が少なくて……」

「そりゃそうだ。僕達が帰ってきた時、記憶はとても曖昧な状態で……自分達は、美しくも奇妙なその島から何とか帰還した。それだけしか覚えていなかったのだから。この少ない情報の中だ、都築くんが根をあげたのも仕方のない事だよ」

 店長は少し悲しそうな表情を見せながら、消え入るような声でそう呟いた。

「ただ、その時はっきりしていたのは……私達は夜宴の島で、何度も不思議な夜を過ごしたという事だ。夜になると、我々は必ずその島に招かれた。そして朝日が昇ると、いつの間にか元の世界に戻っている……その繰り返しなんだよ。だがいつの時代も、そんな絵空事のような話を信じる輩はいないさ。……残念ながらね」

「……藤尾さん、俺は信じています。夜宴の島は、必ず存在すると」

 店長は彼の言葉に一瞬目を大きく見開くと、とても儚げに優しく微笑んだ。

「……ありがとう、五十嵐くん。信じてもらえてとても嬉しいよ」

 彼はその言葉に笑顔で答えると、再び難しい顔をして何やら考え込んでいた。

「けれど、記憶が安定していないとなると、やはりこれ以上の情報を得る事は難しいか……」

 そんな彼の言葉を遮るように、店長が『いや……』と言葉を続ける。

「それが最近になって夢に見るようになって、少しずつだが色んな事を思い出してきたんだよ」

「本当ですか⁉ 藤尾さん、その夢の内容を教えて下さい」

 彼はテーブルに手を置き、前のめりの姿勢で店長の言葉の続きを待った。

「あなた!」

 普段は温厚な奥さんが思わず声を張り上げる。

「いいじゃないか、ミドリ。彼が知りたいと言うんだ。ならば我々が隠す道理もないよ。それに若者の好奇心を押さえつけるような無粋な真似を年寄りがしちゃあならん。若い彼らの幾多ある可能性を潰してしまうだけだよ」

 店長はそう言って笑う。奥さんは納得のいかない顔をしながらも、一先ず沈黙した。

「すまんね、五十嵐くん。女はいつだって男のロマンというものをわかってはいない。……君も、そうは思わんかね?」

 店長はそう言うと、まるで悪戯っこのようにニヤリと笑う。彼は奥さんと私の顔をこっそり横目で確認すると、困ったように笑いながら着席した。

「……まず、夜宴の島で夜を繰り返す回数は無限ではない。確か……そう、十七夜までだ」

 店長の言葉を聞いた彼は、顎に手を添えながら暫しの間黙り込むと、ゆっくり口を開いた。

「十七と言えば、イタリアでは忌み数とされていますよね」

「いみすう?」

 彼の言葉に横槍を入れるようで申し訳ないが、私は聞いたままに、それを口にする。

「ほら、日本では四や九が『死』や『苦』を連想させて、毛嫌いされているだろう? 42だと『死に』、49だと『始終苦』とされ、敬遠されてる。西洋ではが忌み数。新約聖書、ヨハネの黙示録においては666という数字が忌み数だ。ミズホも聞いた事あるだろう?」

「あぁ! そういう事ね。でも……じゃあ十七は?」

「十七をローマ数字で書くとXVIIとなり、これを並び替えるとVIXIとなる。ラテン語でそれは……【私は生きている】の直説法完了にあたり、【私は生きることを終えた】……つまり【私は死んでいる】という意味になるからだよ」

「成る程! ソウくん詳しいんだね!」

「まぁ、関係あるかどうかは定かではないけれどね……ここ、日本だし」

 私達のやり取りを一通り見ていた店長夫妻は、こちらの話が終わったのを確認すると、再び口を開いた。

「……理由は僕らにもわからないんだよ。ただ、十七夜を過ごしたら【終了】となる」

「終了したら……どうなるんですか?」

 彼の問いに、先程まで黙っていた奥さんが口を開く。

「何もかも今まで通り、普通の生活に戻って来られるか。それとも一生、その世界から戻って来れないか。……二つに一つよ」

「戻って……来れない」

 私は、とても冗談だとは思えない奥さんの言葉に、恐怖の色を隠す事が出来なかった。

「奥さんも……夢を?」

「……えぇ。この人に心配をかけてはいけないと思って、ずっと黙っていたけれど……もう半年も前から見ているわ」

 奥さんはまるでさっきの仕返しかのように、『怖い夢を見て、眠れなくなるなんて……本当に男は女よりナイーブで小心者ね?』なんて言いながら、小さく笑う。店長は、バツの悪そうな顔をして下を向いた。

「あそこには、兎のお面を被った幼い男女の双子がいてね。夢の中で私に話しかけてくるの」


『宴は始まった』

『始まった』

『もう一度、この地へ来い』

『この地へ来い』


「ってね。……感情のないその声は、まるでロボットのようだったわ」

 ――兎のお面。生き物としても、イラストとしても、とても可愛らしく皆に愛されるであろうウサギ。……しかし、それが兎面となると、一層不気味さを増す。

 兎という生き物が私の中で、突然恐ろしいものへと変化していく……私はその、可愛さの中に生まれる邪悪さに、恐怖を感じずにはいられなかった。

「私達が最初に夜宴の島に訪れたのは、もう五十年も前の話。最初こそは、その神秘的な夜の宴に心は動かされ、魅了されたわ。けれど、それがこう毎夜のように続くとね、急に恐ろしくなってくるの。この宴は一体、何の為に繰り返されているのだろうか? ってね」

「……その双子以外にも、沢山【いる】んですか?」

「そうね……沢山【いる】わよ? そしてそれらは皆、色んなお面を被っている。素性がわからないように……かしら? 私達には誰が私達と同じ人間で、誰がそうではないのかも判断出来なかったわ。そもそも私達と同じように招かれてきた人間なんて、最初からいなかったのかもしれないけれど」

 奥さんは持ってきたお茶を口にし、ふぅと一息をついた。

「奥さん……そこへは、どうしたら行く事が出来るんですか?」

「五十嵐くん……貴方も懲りない人ね。興味本位で首を突っ込んでいい話ではないのよ?」

「……それでも俺は、どうしても夜宴の島に!」

 彼の必死過ぎるその態度に、私は違和感を感じた。彼は何故ここまで、【夜宴の島】という不確かな存在を盲信出来るのだろう?

 ……何だかおかしい。きっと彼は何かを隠している。

 そう思えてならなかった。

「どうやったら行けるかなんて、私達にもわからないわ。気が付けばそこにいたんだもの。だから今回も、目が覚めたら……きっと」

「実はね、今朝起きたら僕達の枕元に【これ】が置かれていたんだよ」

 店長は、ポケットから小さな結晶を取り出す。

「――不思議だ。これを見ていると、夜宴の島を思い出すんだ。だから、これはあの双子が置いていったものなんだろう。ならばきっと、僕達は今夜……再びあの世界に」

「……ちょっと、それ! 見せてもらってもいいですか!?」

 彼は店長からその結晶を受け取ると、まんべんなくそれを観察した。しかし、何の情報も得る事も出来なかったのだろう。落胆した表情を見せ、深い溜息を吐いた。

「……ねぇ、ソウくん。私にも見せて」

 彼は私の手のひらにそっとそれを乗せる。私はその結晶の美しさに、思わず目を奪われた。

「綺麗……」

 手のひらに収まるサイズの紺碧色の結晶。それを手に取り覗き込むと、中に大きな満月のようなものと海と砂浜のようなものが見えた。非常に繊細な作りである。

 ――あれ? 今、動いた……?

 結晶なのだ、動く筈がない。なのに……月が輝いて見える。砂浜の砂が風に吹かれ、サラサラと宙を舞っているように見える。海が、穏やかに揺らめいて見える。

 まるで……この結晶自体が生きているようだ。

 次第に、結晶の中から楽しげな音や声が聞こえ始めてきた。笛や太鼓の音だろうか?

 赤や黄色、オレンジや緑の明かりがゆっくりと灯ってゆく――


「……ミズホ? どうした?」

 彼の声で、ハッと我にかえる。手の上の結晶は、最初と何ら変わりなくその場で静まり返っていた。

「――あれ? どうして……?」

 私は、白昼夢でも見ていたのだろうか?

「いやぁ、それにしてもミズホちゃんと五十嵐くんがいきなりうちに遊びにきてくれるなんて嬉しいなぁ。長生きはするもんだよ!」

 店長の素っ頓狂な声が部屋中に響き渡る。

「そうね、あなた。こんなに若いお客様だなんて、本当にどれくらいぶりかしら?」

奥さんが上品にクスクスと笑った。

「え……?」

「藤尾さん……何言って?」

「で、今日は一体どうしたんだい?」

 店長はいつものように優しく穏やかな表情を私達に見せる。

「何って……夜宴の島の事について、聞きに来たんじゃないですか!」

  彼は店長にそう声をかけるが、焦りと戸惑いを隠せてはいなかった。

「やえんの島? 何だね、それは? ――おい、君は知っているか?」

「? ……いいえ? 初めて聞きましたけど」

 店長と奥さんは不思議そうに顔を見合わせた。

 その表情は、私達をからかっていたりふざけているようなものではなく、【本当に何も知らない】。……そういう風に見受けられた。

 私達は、この短時間の間に一体何が起こったのか理解出来ず、困惑した表情を浮かべた。

「で、そのやえんの島? がどうしたんだい?」

「あなた! 島の名前みたいですし、観光地か何かじゃないかしら? もしかして貴方達、旅行にでも行くの? うふふ」

「何! 二人でか⁉ 君達、いつの間にそんな間柄に……」

「そ、そんなわけないじゃないですか! 二人共、何言ってるんですか⁉」

 店長夫妻は必死に弁明する私を見て、クスクスと笑う。……いや、今はそれどころではない。

 明らかに場の雰囲気が変わった。これじゃあまるで、パラレルワールドにでも来たようだ。

 今の店長夫妻は、さっきまでの店長夫妻だとは思えないくらいに落ち着き、和んでいる。

 彼は完全に言葉を失い、ただただ静観を続けた。

「――そうだ! ……お店! 店長、お店はどうして閉める事にしたんですか⁉」

「あぁ……やはり年かね。最近は疲れやすくてね、身体がついていかないんだよ。だから夏の間、少し休ませてもらおうかなと思ったんだ。入ったばかりの五十嵐くんには、本当に申し訳ないんだけどね」

「ごめんなさいね。なるべく早く開けるようにするから。二人さえ良ければ、またうちに来てくれると助かるんだけど……」

 ――駄目だ。店長達は何らかの理由で記憶を失った……そうとしか考えられない。

「すみません! 私急用を思い出したので、これで失礼します!」

「……え? もう⁉」

「本当にごめんなさい! また来ますね! お邪魔しました!」

 私は強引に彼の腕を掴むと、店長夫妻の家から急いで外に飛び出した。


 私は彼の手を引き、街路樹を歩いた。……目的地はいつもの公園だ。

 公園につくと私は彼をベンチに座らせ、その隣にゆっくりと腰を下ろした。

「ソウくん、大丈夫?」

「……おかしい、一体どうなってるんだ?」

 彼はブツブツと何かを呟いていて、私の声など耳には届いていないようだった。とりあえず、彼が落ち着くまで待とう。

「あ、これ……持ってきちゃった」

 私は、自分の手の中でしっかりと握りしめられていた紺碧の結晶をじっと見つめた。

 さっきまでの不思議な現象を思い出し、私はまるで何かに突き動かされるように結晶の中を覗き込んだ。

「――っ! あ……ぁ……」

 私はあまりの驚きに、思わず声にもならないような{嗄}(しゃが)れた声が出た。

 結晶の中に立ち、こちらをじっと見つめる幼い二人組。和風の模様や装飾が施された面を被る、黒い兎と白い兎。

 ――双子? この子達が、さっき奥さんが言っていた兎面の双子なの……?

 黒い兎面の少女は私に向かって指を差した。それを真似て、白い兎面の少年も指を差す。

 その瞬間、二人の声が私の脳内に響き渡った。


『お前、代わり、来い』

『お前、代わり、来い』

『翁と嫗、もういらない』

『爺さん婆さん、もういらない』


 不気味な声が、見る見る内に私の脳内を侵食し始めていく。今の出来事が小説の中の話なら、間違いなくこれはホラー小説に違いない。そう思わされるくらいに、私の身体は恐怖に打ち震えていた。


『ここに、お前、求めるもの、ある』

『うん、きっと、ある、ここに』


 仮面を被っている彼女達の表情など、私には到底わかる筈もないのだが……表情のわからない者と会話する事が、ここまで恐ろしい事だと思ってもいなかった。

 本来なら、可愛い年頃の二人の子供。

 それなのに、まるで覇気のないその声は、奇妙で不気味以外のなにものでもなかった。

 そんな双子達は手を繋ぎ、砂浜から私の方に向かってゆっくりと歩いてくる。

 テレビから突然お化けが出てくるように、この結晶の中から兎面の二人が飛び出してくるような……そんな錯覚に陥っていた。

「……いや! こないで!」

 私は恐怖のあまり、思わず紺碧の結晶を地面に投げつけた。

「ミズホ⁉ いきなりどうしたんだ!?」

 私の声を聞きつけた彼が、急いで私の元に駆けつける。小刻みに震える私を見て、何か尋常ではない雰囲気を読み取ったのか、彼はギュッと私の手を握った。

「そ、ソウくん、私……」

「……何があったの? ゆっくりでいいから話して?」

 手から伝わってくる彼の温もりに、何だかとても安心した私は、徐々に落ち着きを取り戻していく。

 私は地面に転がったままの結晶をそっと指差すと、店長夫妻の家で起きた事と、今結晶の中で語りかけてきた【兎面の双子】の話を彼に伝えた。

「まさか、そんな事が……」

「ソウくん……信じてくれる?」

 私の言葉に、彼はきょとんとした表情を見せた後、『当たり前だよ』と優しく頭を撫でた。

「さっきの店長の自宅での出来事から、明らかにおかしい事が起こり過ぎている。それに、話の内容からしても……ミズホ。きっと君は今夜、夜宴の島に招かれるだろう」

「そんな……⁉」

「だけど何故だろう? どうしてミズホには見えたのに俺には見えなかったんだ? ……何か理由でもあるのか?」

 彼は落ちた結晶を拾い、じっと見つめた。

「……駄目だ。俺にはやはり何も見えない。ミズホちょっと来て?」

 私は言われるがまま、ソウくんに近付いた。

「覗き込んでみてくれる? ……大丈夫。俺も一緒にいるから」

 ちょ、ちょっと待って……! こんな小さな結晶を二人で覗き込むなんて……心臓がいくつあっても足りないし!

 こんな時にそんな事を思ってしまう危機感の足りない自分に少々呆れながらも、『わかった』と返事を返した。

 顔のすぐ隣にある彼の顔。私は高鳴る胸の鼓動を何とか押さえ込み、再び結晶を覗き込んだ。

 ……何もない。結晶の中の細やかな装飾品が見えるだけだ。

「そんなところに、もういない」

 突然背後から聞こえた声に、私と彼は急いで振り返った。今の声は彼にもちゃんと聞こえたようだった。

 先程と同じように、黒い兎面の少女が先にものを言い、白い兎面の少年がそれに続く。

「お前達、夜宴の島に来い」

「お前達、夜宴の島に来い」

 彼は突然目の前に現れた兎面の双子を見て、興奮しているのが一目でわかるくらいに目を輝かせていた。

「あぁ、行く! 夜宴の島に行く! だから早く、俺達をそこに連れていってくれ!」

「心配せずとも、逃げられない」

「お前達は、もう、逃げられない」

 兎面は一歩ずつ私達の方に近付いてくる。私は思わず後ずさったが、彼は怯える事なく堂々と彼女達の前に立ちはだかった。

「逃げたりなんかしない。俺はずっと、夜宴の島に行きたいと思っていたのだから」

 彼はそうはっきりと断言した。

 この明らかに妖しげな者達を目前にしても、何ら恐れる姿を見せない彼。双子達はそんな彼をじっと見つめると、同時に首を傾げた。

 少女は右に。少年は左に。

「お前、とても異色、珍しい」

「黒か、白か、はっきりしない」

 その幼い声は彼に、『お前は黒か? それとも白か?』と執拗に問いかける。 私はその不思議な光景を、ぼーっと見ている事しか出来なかった。

「異色の者、忌み嫌われる」

「二つ持つ者、邪険に扱われる」

 黒の兎が彼の前に立ち、下から彼を見上げる。

 白の兎は彼の背後に立ち、下から彼を見上げた。

「黒ならば、私が、助言する」

「白ならば、僕が、助言する」

「両方持つ者、助言は、与えない」

 彼は双子の言葉に、何か心当たりでもあるかのように暫く黙り込んだ。

 異色? 両方持つ者?

 一体、どういう意味なのだろうか?

「……今夜、宴が開かれる。客人も住人も皆、大いに歌い踊れ」

 兎面の双子は、そう口にしたと同時に消えた。


「何だったの……? 今の、夢なんかじゃない……よね? きっと……」

 夢にしてはリアル過ぎる。これは決して夢などではない。

 それをちゃんとわかっていながらも、私は口に出さずにはいられなかった。

『今夜、宴が開かれる』、か。もはや疑う余地はこれっぽっちも存在しない。【夜宴の島】は存在するのだ。そして私達は今夜、そこに招かれる。

「何だか私達、本当に物語の世界にいるみたいだね。これが小説ならジャンルは一体何になるのかな? ファンタジー? ミステリー? それともやっぱりホラーかな? ね、ソウくんはどう思う……?」

 私は彼にそう話しかけてみるが、返答はない。

「ソウくん……?」

「……やった。やったよ、サヤ。これできっと、俺は君を……」

 下を向いたまま、小さく妖しげにクスクスと笑う彼。その姿は狂気に満ちているように思えた。

「どうしたの、ソウくん……」

 私がもう一度彼の名を呼ぶと、彼は突然我にかえったかのように意識をこちらに向け、弱々しく笑ってみせた。

「ごめん、ミズホ。ちょっと考え事をしてた」

 そう言うと、彼はベンチに座り、心を落ち着かせる為なのか大きく深呼吸をした。

(サヤ……?)

 彼の口から突然出された女の人の名前。……彼女、かな?

 そういえば私、彼に彼女がいるかどうかも知らない……彼の事なんて、何も知らないんだ。

「? どうしたの、ミズホ?」

 ――何故だろう? 凄く胸が痛い。

「……ううん、何でもないよ!」

 私は彼に精一杯の笑顔を振りまく。彼はそれに応えるように優しく笑った。

「今夜、俺達はついに夜宴の島に招かれるんだね」

「……そうみたいだね」

「ミズホ……怖い?」

「そりゃあ、多少は……」

「……ごめん、ミズホ。君を巻き込んでしまって」

 彼の懺悔のような謝罪は、私の心に重く……そして、深く染み渡った。

「……ミズホ、頼みがあるんだ」

「? どうしたの? いきなり」

「今から俺はおかしな事を言うかもしれない。勿論、聞き流してくれて構わない。けれど、少しだけ吐き出したいんだ。だから……君が聞いてくれると嬉しい」

 彼は私にそう告げると、ゆっくり口を開いた。

「――どこか遠くへ。そんな事を常に考えながら、俺は生きてる。……おかしいだろ? けど、本心なんだ」

 彼は頭上で揺れる青葉を眺めながら、ぽつりとそう言った。

「ここではないどこかへ。一分一秒でも早く、今すぐに。これ以上俺の心が、この汚れた世界に侵食されてしまうその前に」

 彼は表情を酷く歪める。何かこの世界で、彼をここまで苦しめてしまう程の辛い出来事でもあったのだろうか?

「何がそんなに苦しいの?」

「……わからない。わからないんだ。ただ、受け入れられないんだよ今の自分が。わからないんだ、本当の自分が。一つだけわかるのは、俺は演じきらなくてはならないという事。本当の自分をひた隠しにしたとしてもね。それが、たまに苦しいんだ。立っている事さえ辛くなる……」

 彼は俯き地面を見つめた。握られた彼の拳は力が入りすぎているせいか、少しだけ赤く、小刻みに震えていた。

「このまま塵になって消えてしまえたら、どんなに幸せだろう? 風に運ばれ、空を高く舞い、美しい海や山まで流されるんだ。そこには俺の意思など存在しないし誰にも関与されない。何者でもない自分が、ただそこにいるだけだ」

 いつになく弱音を吐く彼は、今での彼とはまったく別人のように見えた。これが彼の本当の姿なのだろうか?

「夜宴の島は一体どんな場所なんだろうね。早く行きたいよ……本当に」

 私は、今すぐ彼を抱きしめたいと思った。優しく抱きしめ、元気付けてあげたい。そして『大丈夫だよ』と、たとえ根拠なんかなくてもそう言ってあげたかった。

 じゃないと、彼の心が今にも壊れてしまいそうに思えたから。

「ソウくん……」

 私は彼に向かって手を伸ばしたが、思わずその手を引っ込める。――違う。そうじゃないでしょ? 優しくするだけなら、誰にだって出来る。

 だから私は、たとえ彼に嫌われたとしても、上手く想いを伝えられなかったとしても、性格が悪いと思われても……本当の彼に、本当の私の想いを伝えたい。

 じゃなきゃいつまで経っても、頑丈な彼の壁が邪魔をして、彼の心の中に入り込めない。

 ――結局は、諸刃の剣かもしれない。

 私は彼を傷付け、そして同じように自分が傷付いたとしても……今目の前にいる彼を優しく抱きしめるのではなく、彼の前にそびえる屈強な壁を壊して、壁の奥で怯え、震えている弱虫な彼を……強く強く、抱きしめたいと思った。

「……ソウくん。約束したよね? 私にハッピーエンドを教えてくれるって。じゃあたとえ遠くに、その夜宴の島に行ったとしても、ちゃんとこの世界に戻ってこないとそれは実現出来ない。ソウくん、私の中で嘘吐きになっちゃうよ?」

「ミズホ……」

「私、嘘吐きは嫌い。たとえそれが優しさの上に成り立つものだとしてもね。事実を知った時、酷い嘘なら軽蔑するし、それが優しい嘘だったとしても、多少なりとも心に傷が残るんだよ。……しかも、お互いにね」

 彼は黙って私の言葉に耳を傾ける。明らかに弱り切っている彼の瞳に心が痛んだ。……でも、やめたりしない。

「あとね、逃げる人も嫌い。自分勝手に周りを振り回していきなり消えるなんて、貴方を待ってる人がいるかもしれないのに」

 一瞬、さっき彼が口走った【サヤ】という女性の事が頭の中に浮かぶ。

「……ソウくんは、待たされる側の気持ちを何も考えていない。逃げたいなら、逃げるくらいなら、一緒に連れていってあげればいいのに。逃げるのが悪い事だとは思わない。けど、消えちゃ駄目。ソウくんが何を悩んでいるのか私にはわからない。でも、目の前の出来事から逃げちゃ駄目だよ」

 私は彼の瞳を逸らす事なくじっと見つめ、精一杯の想いを彼に伝えた。

「逃げれば逃げるほど、貴方は確実に追いつめられる。最終的にはきっと道を失う。だから……消えるんじゃなく、逃げるんじゃなく、避ける方法を一緒に考えようよ!」

 私は本当に嫌な女だ。消えたいと思ってる人間に『消えないで』、逃げたいと思ってる人間に『逃げないで』は……死にたいと思っている人間に『死ぬな』と言うのと同じようなもの。余計に彼を追いつめてしまう言葉だと、充分に自覚していたのに。……こんな私を、彼は軽蔑するだろうか?

 すると彼は、突然柔らかく朗らかに笑った。

「それだと都合の良い俺の頭じゃ、まるでミズホが俺に『私を置いてどこにも行かないで』って言ってるように聞こえるよ。そして、『どこか遠くへ行くのなら私も一緒に連れて行って』『お願い、消えないで』ってね」

「は、はぁ⁉ 何、そのポジティヴ過ぎる捉え方は! さっきまでの弱々しい五十嵐想は、一体どこいったのよ⁉」

 本当に彼の変わりようには驚かされる。彼は先程の事など、まるで何もなかったかのようにケラケラと笑った。

「ミズホの顔、リンゴみたいに真っ赤だ~!」

「人が心配して、真剣に! ――もういい」

 彼と話すといつもこうだ。いつだって最終的に不愉快な気持ちにさせられる。……私は本当に心配していたのに。

 明らかに不機嫌になり、そっぽ向いた私の腕を、彼は強引に自分の方に引き寄せた。

 私はいつの間にか……彼の広い腕の中に、暖かい胸の中に、すっぽりとおさまっていた。

.「そ、ソウくん⁉」

「ごめん、嘘。めちゃくちゃ嬉しい」

「ちょっ……! ここ公園!」

「うん。でも今誰もいないから大丈夫。……暫くこうしててもいいかな? ちょっと、色々限界なんだ」

 彼の心臓の音が聞こえる。生命が奏でる優しい音だ。その音を聞くと私は何だか凄く安心し、心が落ち着いていくのがわかる。

 私の心臓の音と彼の心臓の音が二重奏となり、一つの音楽を生み出していった。

「……もう。誰かが来るまでだからね」

 可愛くない私の返答に、彼はクスリと笑うと、優しく『ありがとう』と言った。

 私は彼のボサボサの頭を、そっと手でとくようにして優しく撫でる。無言で私の肩に顔を埋める彼は、一体何をそんなに傷付いているのだろう? 気になる。

 ――けれど聞けない。彼の表情が、それを望んでいないから。

 その切なげな視線の先に写っているのは、やはりサヤという女性の姿なのだろうか?

 どうして私はここまで、サヤさんという存在が気になって仕方ないのだろう? もしかして、彼の恋人かもしれないから? ……そんな事を考えていると、胸にチクリと突き刺さるような痛みを感じた。

 彼に直接聞けばいいのに、どうしても聞け出せない。昔のよくない思い出がストッパーとなり、私を臆病にさせる。…….これだから男の人は苦手なんだ。

 けれど、実はさっきから少し引っかかっている事がある。


 サヤさん、サヤさん、サヤ……


 私はその名前を、以前からよく知っているような気がしてならなかった。

 どこだ? 一体どこで……? ――駄目だ。わからない。

 きっと、私の勘違いなのだろう。そうに違いない。私は、あまり深く考えないようにした。


 オレンジ色の空が顔を見せる夕暮れ時。ほんのり風が涼しく、とても気持ちが良い。

 彼はゆっくりと私から離れた。彼の髪が私の頬をかすめて、何だか少しくすぐったかった。

「ミズホありがとう。本当に君は優しいね。少し、楽になれたよ」

「私、優しくなんかないよ。ソウくん、私を買いかぶり過ぎだって」

「いや? 君は優しいよ。とても。……まぁ、確かに誤解されそうな性格ではあるけどね。素直じゃないし、意地っ張りだし」

「うん。一言余計だね」

 私と彼は顔を合わせて、クスリと笑った。

「……ミズホ。俺、一旦うちに帰るよ。多分夜宴の島へは藤尾夫妻から聞いた通り、夜一定の時間が来たら自動的に送り込まれるんだと思うんだ。だからそれまでちょっと休む……それに、この格好だしね」

 彼は眉を下げ、頭を掻きながら笑った。

「それと、ミズホ。……さっきの答えなんだけど」

「? さっきの答えって?」

「……俺は絶対に嘘は吐かない。必ずミズホにハッピーエンドを教えてあげる。どこかへ行きたいなら夜宴の島から帰ってきた後、また新しい場所を探せばいい。勿論その時はミズホも一緒だ」

「私も……?」

「あぁ! ファンタジーが好きなミズホに、俺が最高の物語を提供するよ。だから、とにかく夜宴の島を思う存分に楽しもう! それと、俺が絶対にミズホの事を守るから。ちょっと怖いって言ってたろ? 何があっても必ず守る……だからミズホは余計な心配はせず、俺の言葉を信じて」

 そう言うと彼は『じゃあ!』と手を上げ、その場から走り去った。

 ありがとう……ソウくん。私、貴方の事を信じるよ。

 貴方と一緒なら、きっと怖くない。貴方と一緒なら、きっと大丈夫!

 ――これは絶対に、忘れられない物語になる。

 そう確信しながら、私も家路に向かった。


 帰宅した私は夕飯を食べ終え、風呂に入ると、一人部屋の中に篭っていた。

 いつもの黒いストレートの髪を、少し軽く巻いて、お気に入りのワンピースを着る。

 ――うん、我ながら気持ちが悪い。どうして、こんなに気合いを入れておめかししているんだ私は。

 深い理由なんてない。夜宴の島っていうんだからそれはもう、楽しく愉快な宴会が行われているというイメージだ。

 そんな場所にいつものジャージ姿で行く勇気は、流石の私でも持ち合わせていなかった。ただそれだけだ。

 別に、彼に少しでも可愛いと思ってもらいたいなどという邪な理由は微塵もないので、誤解はしないように。

 必死に自問自答している自分を、何だか少しだけ情けなく思い、『はぁ~』と深い溜息を吐いた。

「夜宴の……島、か」

 私はそのまま背後にあるベッドに倒れ込み、壁にかけられている可愛い作りの時計を見る。

 時刻はもうすぐ午前0時となる。――0時になると同時に、夜宴の島! ……だと、何だかありきたりだなぁ。もうちょっと捻って欲しいところだ、なんて思いながら私は大きな欠伸をする。

「ねむ……」

 少し睡魔がやってきたようだ。これで夜宴の島に行く事も出来ずに徹夜、なんてことになったら本当にいい御笑い種だ。

 私はうとうとしながらも携帯を手に取り、それを弄る。

 そして、本当に何の気なしに検索ワードに【夜宴の島】と入れると、素早くOKボタンを押した。

「――えっ? これって、どういう事……?」

 検索して一番最初に出てきた文字に、私は驚きを隠せない。


【夜科蛍】


「よしな……けい……? どうして、夜科蛍の名がここに?」

 私は急いでその項目をクリックし、内容を確認した。

 注目すべきは、とある出版社との対談で、夜科蛍が口にした言葉だった。

『この鏡花水月という作品を書こうと思ったきっかけは、私が夜宴の島と呼ばれる不思議な島へ招かれたから。やはり、それが一番の理由ですね』

 確かに、そう書いてある。

 どういう事なんだ……? どうして夜科さんが? ソウくんはこの事を知っているのだろうか?

 突然の情報に、頭がついていかない。

 けれど私の脳内で今、一つの可能性が生まれようとしていた。

「夜科蛍は、夜宴の島からの帰還者……?」

 私がそう口にした途端、いきなり激しい眩暈が私に襲いかかってきた。

 頭を押さえながら時計を確認してみると、針はやはりちょうど0時を示している。

 見慣れた筈の私の部屋が、一瞬にして全ての色を消した。

「――何⁉ 停電⁉」

 そんな筈はない。いくら停電だったとしても窓から射し込む月や星の光だけは、どうやっても消す事など不可能だ。

 それに、真っ暗ではない。……真っ黒なのだ。

 まるで自分だけが、この墨汁で塗りたくられたような箱の中で唯一色彩を持っている存在のように思える。

 ……眩暈が酷くなってきた。どこからか賑やかな祭り囃子のような音が聞こえてくる。――その瞬間。黒い箱の底がいきなり抜けたように消えて、私は深い闇の中を真っ逆さまに堕ちていった。

 どこもかしこも真っ黒だ。私は落下していく際も何か手すりのような物はないかと、懸命に手を動かし探してみた。しかし、それは虚しく空を切っただけ。

 このまま私は、この深い闇の底に落下して死んでしまうのではないか? 

 そうは思ったものの、心臓はいつものように規則正しい早さで動いているし、こんな状態にも関わらずパニックを起こす気配もない。

 妙に冷静で、落ち着いている自分がそこにいた。先程までの眩暈も、いつの間にか消えてなくなっていた。

 ……勿論、走馬灯も見えない。

 私はこの不思議で不可解な現象に抵抗する事をやめ、ただ身を任せるように、ゆっくりと落下していった。

 耳に聞こえる賑やかな音や声はだんだんと大きくなり始めた。その音を聞いていると、何故か幼い頃によく行った神社の祭りを思い出す。

 大人になってから見る祭りは、やはり幼い頃に見る祭りと比べて、感動がまったく違った。

 暗い中、沢山の提灯に火が通って、オレンジ色の明かりが一列に並んでいる。夜店にはお面や風車などが置いてあって、浴衣姿の私はいつもお面を買ってもらい、決まって金魚すくいをするんだ。

 賑やかで不思議で、少し奇妙でもある、子供の視点から見る夜祭り。

 私はもう二度と、そんな風に祭りを見る事は出来ないのだろうなと思いながら、賑やかな音の中……そっと目を閉じ、ゆっくりと意識を手放していった。

 ――懐かしい音や声に、優しく包まれながら。

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