第4話


 燦々と輝く太陽の下。蝉の声が煩わしく響き渡る遊歩道を、私は欠伸をしながら歩く。木陰が暑さを少し和らげてくれているようだ。……しかし、暑いものは暑い。

「眠い……」

 昨日、あれから家に帰って携帯をチェックしたら、恐ろしい数の着信が履歴を埋め尽くしていた。

 相手は勿論、サユリさんだ。バイト終わりの時間を狙ってかけてきたのだろう。

 急いでかけ直すと、内容は勿論【彼】の話だった。

 五十嵐くんが素敵だの、かっこいいだの、運命の相手だの……そんな話を延々と聞かされ、気が付けば朝を迎えてしまっていた。

 彼女に言いたい。彼の作り笑顔に騙されないで。

 彼には正に、【天使の顔をした悪魔】という表現が相応しいのだ。

 まぁ、悪魔は言い過ぎだろうが……


 そうこうしているうちに書店に辿り着いた。昨日、あれから彼と話した内容はこうだ。


『――私が?』

『そう、ミズホが』


 ……ようするに、私がそれとなく店長夫妻から情報を入手する。

 何だか彼に上手く利用されているような気がして、腹立たしい。

 けどまぁ入ってきたばかりの彼より、多少気心の知れた私の方が、店長達も口を開いてくれるかもしれないし……仕方ないか。

 私が書店の前に立つと、ドアは静かに道を開いた。

「あ、橘さん! おはようございます!」

 バイトモードに入っている彼は、いつもように敬語で私に話しかけるが、その表情には焦りの色が見える。

 彼は私に近付き、こっそり耳打ちをした。

「……まずい事になりました。計算外です」

「え? それって、どういう事?」

「それは……」

「あ~! ミズホちゃん!」

 ちょうどバックヤードから出てきたサユリさんが私の顔を見るや否や、猛ダッシュで飛びついてきた。

「ちょっと、ミズホちゃん! 大変だよ~!」

 彼女は私の腕をぶんぶん振り上げながら、驚きを隠せないような複雑な表情を浮かべている。

「さ、サユリさん……一体、何があったの?」

 ちょうどその時、スタッフ出入り口の扉が開き、中から奥さんが顔を出した。

「あ、奥さん! おはようございます!」

 奥さんは何故か切なげな表情を見せながら、ゆっくりと笑った。

「ごめんなさいね、サユリちゃん。上がりのところ悪いんだけど……ミズホちゃんが戻るまで、もう暫く五十嵐くんとレジに入ってて貰えないかしら? すぐに戻ると思うから」

「! わかりました! 今日はこの後、どこもシフト入っていないし、ちゃんと五十嵐くんをフォローしますので! どうぞ、ゆっくり話してきて下さい」

 若干邪な気持ちが見え隠れするサユリさんは、五十嵐くんの腕を絡め取り、満面の笑みでそう答えた。……さっきまでのあの表情はどこにいった⁉

「そう、良かった。それじゃ、二人ともお願いね。行きましょう、ミズホちゃん」

 彼はじっと私を見つめた。私はそんな彼に応えるように、一度だけ頷くと、奥さんと一緒にスタッフルームに向かった。


 奥さんと二人でスタッフルームに入ると、そこには店長の姿があった。店長の顔は血の気を失ったように青白く、まるで生気を持たない死人のようにも見える。

「……やぁ、ミズホちゃん。お疲れ様」

 店長は弱々しくはあるものの、いつものように穏やかで優しい笑顔を私に見せた。

「店長、どうしたんですか! 顔色、凄く悪いですよ⁉ まだ調子悪いんじゃ……そんな状態でお店に来て、本当に大丈夫なんですか⁉」

「……いや、大丈夫だよミズホちゃん。単なる寝不足なだけだから。……最近、あまりちゃんと眠れていなくてね」

「でも……!」

 声を張り上げる私を制止し、奥さんが困った顔をして口を挟む。

「ミズホちゃん、本当に申し訳ないんだけど……暫く店を閉めようと思うの」

「えっ⁉」

 私は、思わず言葉を失った。


 彼がここに現れたのは、三日前の話。それなのに、事態は大幅に急展開を遂げる。

 一日目、奇妙な青年が書店に現れる。

 二日目、そんな青年の本当の目的を知る。

 そして、三日目……重要人物である夫妻の謎の言葉。

 これは何の巡り合わせなのだろうか。まるで、彼を主人公としたストーリーが今、始まろうとしている……そう思わざるを得ないくらいに急スピードでページが捲られていく。

 ――この【物語】は不幸を招く。私には、そんな気がしてならなかった。


「奥さん、一体どういう事なんですか? 店を閉めるだなんて……いきなり過ぎますよ」

「実はね、最近になってから……この人の調子があまり良くなくてね」

「店長……もしかして、何か重い病気なんですか?」

「ううん、それは違うんだけど……」

 店長がそっと奥さんの肩に手を乗せる。

 奥さんが不安げに店長の顔を見ると、店長はゆっくりと頷き私に話し始めた。

「……ここ一ヶ月くらい前から夢を見るんだ。それはとても恐ろしい夢だった。最初はただうなされて何度か起きる程度だったんだ。けれど、ここ数日はまったく眠れない。眠ると必ずその夢を見るんだ。……必ず、ね。今では恐ろしくて眠れやしない。それに、夢だけじゃないんだ。それは現実にまで……まるで幻のように、僕の前に現れるようになった」

 店長は必死に手で頭を支えながら、苦しそうな表情を浮かべる。奥さんはそんな店長の背中を優しく撫でた。

「ミズホちゃんにだけは言うけど……もしかしてもう、この店を開く事はないのかもしれない」

「店長……」

「長い間勤めてもらった君やサユリちゃん。そして、入ったばかりの五十嵐くんには本当に申し訳なく思っているよ。けど僕らには、どうしても行かなくてはいけない場所があるんだ」

「……行かなくてはいけない場所?」

「きっとその場所に行くまで、この悪夢は終わらない」

 店長の額に汗が見えた。少し震えているようにも見受けられた。

「あなた……!」

 奥さんの声で正気を取り戻した店長は、私を見ると眉と目尻を下げ、困ったように笑った。

「いやぁ〜すまない、すまない! 変な事を言ってしまったようだ。気にしないでくれ」

「いえ……」

「ミズホちゃん、時間を取らせてしまってごめんなさいね。サユリちゃんにも、もう上がってもらわないとね。近くに書店はいくつもあるし、元々うちは客入りも少なかったから……急で本当に申し訳ないのだけれど、明日から暫く店を閉めるわ。サユリちゃんと五十嵐くんには、もうちゃんと伝えてあるから」

「……はい」

「じゃあミズホちゃん。今日一日、よろしくお願いするよ。ミズホちゃんはこの店が建った時からずっと一緒に働いてくれていた、僕らにとって孫同然みたいなものだったから……今回こんな事になってしまって君を裏切るような形になってしまい、本当に申し訳なく思っているよ。すまない」

「私からも……ごめんなさいね」

 二人の心のこもった謝罪が、私の不安定な心を更に締めつけ苦しめた。

「じゃあ、私……店に戻りますね。――あ、あの!」

 私は去り際にどうしても一つだけ店長に聞きたい事があったので、思い切って尋ねてみる事にした。ちゃんとした返答を貰えるとは到底思っていなかったけれど……

「店長、その場所と言うのは……」

「ん?」

「……ちゃんとこの世界に存在する場所の事を言っているんですよね?」

 私の言葉に、一瞬場が静まり返る。しかし、それも束の間の話だ。すぐに店長から笑みがこぼれる。

「当たり前じゃないか!」

「本当にミズホちゃんは、おかしな事を言う子ね」

 藤尾夫妻は笑う。何事もなかったかのように。その笑顔が、何故だか痛々しい。

「……失礼します」

 私はそれ以上何も言えず、後ろ髪を引かれるような思いでスタッフルームを後にした。


 とてもショックだった。何とも言えないような、モヤモヤした気持ちが私を襲う。

 店長と奥さんの不安そうな瞳の奥に垣間見える覚悟を決めた顔。そして、店長が話してくれた悪夢の話。

 どうしても、昨日彼から聞いたばかりの話とダブらせてしまう。何らかの関連性を見出してしまうのだ。

「きっと、何かある筈。……ソウくんに詳しく話を聞いてみよう」

 店内に戻ると、彼とサユリさんがすぐさま私の元へと駆けつけて来た。

「ミズホちゃん、大丈夫?」

「……サユリさん、ごめんなさい。もう上がってもらって大丈夫だから」

「う、うん。わかった! けど、元気だしなよ? こればっかりは仕方がない事だから……ね?」

 サユリさんは私の顔を心配そうに覗きこむと、『よしよし』と頭を撫でてくれた。

 サユリさんのそんな優しさが、とても身に染みた。

「じゃあ、私先上がるね。ミズホちゃんに五十嵐くん、お疲れ様! ミズホちゃん、また夜連絡するから!」

 サユリさんはそう言うと、颯爽と店長達がいる中へと入っていった。

「……橘さん。店長と奥さんから何か聞けましたか?」

「その話なんだけど……ソウくん、夜宴の島の話をもっと詳しく聞かせて欲しいの」

「……何か、関係がありそうでした?」

「それはまだ、わからないんだけど……」

「けど、君はそう感じた。……でしょ?」

 彼はそう言うと、妖艶に笑った。

「今日もまた、あの公園で」

 彼は私の肩に手を置き、小さな声でそう言うと、まるでキャラクターが変わったかのように明るく話し始めた。

「橘さん、とりあえず笑顔で今日も一日頑張りましょうか!」

 私はそんな彼の変わりようが何だか可笑しくて、思わず笑いがこぼれた。

「うん、そうだね! 一応、今日で最後だもんね。また店長達、店を開けてくれたらいいけど。……私ね、ここ凄く好きなんだ」

「わかりますよ。橘さんの仕事に対する姿勢を見ていて、そう感じますからね」

 私は彼と顔を合わせると、にこりと笑った。

「とりあえず今は仕事に集中、だね! よーし、やるぞ! 返品処理かけるリスト、チェックしてくるね!」

 私はカウンター内に置いてあるリストを手に取ると本棚に向かう。彼はその間に以前発注をかけていた商品を全てキャンセルする為、出版先に電話をかけていた。

 たとえ最後だとしても、与えられた仕事は精一杯頑張ろう。


 今日で店を閉めると言う事で、店はかなり大忙しだった。時間はあっという間に過ぎ、閉店時間を迎える。

 藤尾夫妻は用があると言い、早めに上がったので、店内はまた私と彼の二人きり。だからといって、特に何かある筈もなく、私達は閉店後急いで作業を終わらせると、再びあの公園へと向かった。


「……成る程。確かにそれは興味深い」

 私が事の全貌を全て彼に伝えると、彼はまるで推理小説に出てくる探偵のように口角を上げ、不敵に笑った。

「やっぱり何か引っかかるよね。行かなければならない場所……それって、もしかして」

「夜宴の島で決まりだね。間違いないよ」

 まるで、『犯人は貴方だ!』とでも言うような素振りではっきりと言い張る彼に、私は問う。

「どうして、そう断言できるの?」

「勘だよ。けど、俺の勘は今まで一度も外れた事がないんだ」

 ……その根拠のない自信は、一体どこから現れるのかがわからない。この探偵の雇い主は、さぞかし骨が折れる事であろう。

 ちょうどその時、短いバイブ音が鳴り響いた。……私じゃなく、彼のだ。

「ごめん、ちょっと待って。……あ、サユリさんだ」

「え⁉ サユリさん⁉」

 私は彼の言葉に思わず目を見開いた。

「いつの間に連絡先交換したの⁉」

「……え? ミズホが奥さんと入っていったすぐ後だよ? いきなり連絡先聞かれて、仕事中で携帯持ってないしメモ帳に書いて渡したんだ」

「へー、ほー、ふーん。そうなんだ」

 サユリさん、行動力あり過ぎでしょ! 彼女のバイタリティーには目を見張るものがある。……しかし、何やら複雑な気分だ。私だって、ソウくんの連絡先なんて知らないのに。

 と言うか……仕事場で私は橘さんなのに、何故にサユリさんはサユリさん⁉ 

 ……ん? あれ? 

 別にいいじゃない? サユリさんは彼の事が好きなんだし、私にはまったく関係のない話だ。

 なのに、どうしてこんなに胸がざわつくのだろうか? ……その理由がわからない。

「……こーら」

  彼が私の頭をコツンと軽く小突く。

「まーた自分の世界に浸り混んでたでしょ? ……何、ヤキモチ?」

「は、はぁ⁉」

 彼がイタズラっぽく笑いながらそんな事を言うものだから、見る見る内に顔が熱を帯びていくのがわかる。

「そんなわけないじゃない! ……自意識過剰!」

「本当に素直じゃないね、ミズホは」

 彼は面白可笑しそうに、クスクスと笑った。

「……で? サユリさん、何だって?」

「ほら! やっぱり、気になるんでしょ?」

「ならないし! どうでもいいよ!」

「……ふーん、あっそう」

 そう言うと、彼は自身の携帯を操作し始める。……サユリさんに返事しているのだろう。

 何だか釈然としないので、私も携帯を取り出し、アプリのゲームでも始めよう……そう思ったのと同時に、今度はサイレントにしてあった私の携帯電話にメールのアイコンが現れた。

 このタイミングだと、サユリさんかな? ……けど、メール?

 首を傾げながら、取り敢えず内容を確認してみる。


『ミズホの天邪鬼ー!(≧∇≦)byソウくん』


「……ちょっと、何で私のアドレス知ってるの」

「え? さっきのサユリさんのメールに、ミズホの番号とアドレス書いてあったから」

 サユリさん……一体、どういうつもりなんだ。

 しかし、何あの顔文字! 絶対顔文字なんて使いそうなタイプじゃないのに! 何か可愛いんですけど! ……ついつい、ニヤけてしまう。

「……ミズホってさ、前から思ってたんだけど、思ってる事、顔に出やすいよね。いや~本当にこんなにわかりやすい人、俺初めて見たよ」

「何それ、何か馬鹿にしてるでしょ?」

「いや、褒めてるんだよ! わかりやすい人の方がいいでしょ? 腹の中で一体何考えてるかわからない奴よりもさ」

「……そうだね。ソウくんみたいに何を考えてるのかまったくわからない人よりは、ずーっとマシです」

「俺はいいんだよ。男は多少ミステリアスな方がかっこいいんだから」

 ……何だろう。もうそろそろ慣れては来たが、今日の彼は何だかいつもよりも子供っぽく感じた。

「それに俺達は夜宴の島に一緒に行く、言わばパートナーだ。多少、意思疎通が出来ている方が効率が良いだろう?」

「パートナー? ……何それ、大袈裟だよ。それに私、興味があるとは言ったし行ってみたいとも言ったけど、まだちゃんと行くって決めたわけじゃ……」

「いや、君は必ず行くよ。俺と一緒に。もう俺達の物語は始まっているのだから。それにさ、物語にはパートナーが必要なんだよ。……ほら、どんな小説でも大概パートナーがいるだろう? 夫婦に恋人同士、友人同士に兄弟。ほとんどの物語の必要要素だ」

「……それって、別に私じゃなくてもよくない? そうだよ、サユリさんは? 二人共、仲良いんだし……サユリさんと一緒に夜宴の島に行けばいいじゃない? 私じゃなきゃ駄目な理由なんてないでしょ?」

「うーん。……そうだね。彼女はとてもユニークでユーモアだ。行動力もあるし、とても強く、前向きで積極的でもある。明るく楽しい彼女となら、異世界に行っても楽しめるかもしれないね?」

 彼はクスリと笑いながら、じっと私を見つめた。

「……けどね、駄目なんだ。彼女とでは俺の物語は完成しない」

「……それは、どうして?」

「彼女が必要とされるのはせいぜい恋愛小説か青春ドラマ、友情映画だ。俺が求めるファンタジーでは意味をなさない。第一、彼女が異世界なんて眉唾ものを信じるなんてミズホは本気で思ってるの?」

「あー、それは確かに……」

「……今時、古風で繊細。そして、本当は決して強くないのに弱い部分を人に見せたくなくて強がる。けれど消極的な中に秘められてる内なる好奇心は人一倍。しかし現状を打破するだけの勇気を持たず、平凡に地味に、退屈そうに……毎日をただ流されるままに生きる」

 彼は私の髪を一束、指で絡め取った。

「美しくて長い黒髪。憂いを帯びた瞳。簡単に人を信用しない用心深さ。……ほら、君の出来上がりだ」

 二人の視線が重なり合う。私は彼の、深くて感情の読めない真っ黒な瞳に飲み込まれていく。

 それはまるで、コーヒーに中に溶けゆくミルクのように、だ。

 現実の男性が言ったら、きっとドン引きされるであろう臭い台詞も、彼が言葉にするだけで、それは小説の一節のように美しく姿を変える。

 そして、私は今日も……彼の言葉に惹きつけられてしまうのだ。

「あ、そうだ。一度ミズホに聞いてみたい事があったんだった」

 彼は髪からそっと指を離すと、思い出したかのように話し始める。

「何……?」

「君は切ない恋愛、物語を好む傾向があるよね? それは何故?」

「え?」

「……普通、大抵の人が幸せに終わるハッピーエンドの物語を好むよね? けど、君はそうではない。バイト中に好きだと手に取った小説は全て、報われず成就せず、離れ離れになる悲恋的なものばかりだ。夜科に限らずね」

「……よく、見てるね」

「観察するのが好きなんだよ。気に障ったならごめん。……けど、何だかそれが気になって。俺気になると聞かずにはいられない性格なんだ。良かったら教えてくれないか?」

 彼は私を見て、優しく微笑んだ。

「……私には、ハッピーエンドなんて考えられない。二人が結ばれて終わり、なんて物語は苦手なんだ」

「それは、どうして?」

「だって、結ばれた二人がその先もずっと幸せとは限らないじゃない? 人の気持ちなんて簡単に変わるもの。……私ね、いつもその先を考えてしまうの。小説でもドラマでも、大変な思いをしてようやく両思いになって付き合ったとする……その後の二人の想いは、もう二度と片思いをしていた頃の想いの強さを超えることは出来ない。ただ劣化していくだけ」

「……なるほど、ね」

「だからお互いがお互いを一番想い合っている状態のまま離れ離れになるか、またはその時に一緒に消えてなくなる……それが永遠の愛っていうものだと思う。そういう意味では、シェークスピアのロミオとジュリエットは永遠の愛を貫いたと言えるんじゃないかな?」

 ……まぁ、ロミオとジュリエットはあまり好きではないのだが。

「……本当に悲恋の物語が好きだね、君は」

「そうかも。だから、夜科蛍さんの作品が好きなんだ」

「切ない物語だったら、今日バイト中に話した小説家以外にも、雨宮柳之介や轟はじめ、桜庭真緒なんかもあるけど……それでも君は夜科蛍がいいの?」

「勿論全部読んだよ。全て素敵だった。けど、私はやっぱり夜科さんが一番好き」

「……へぇ、成る程。きっと君は、今まで悲しい恋ばかりをしてきたんだろうね」

 彼の言葉に、一瞬思考が停止する。夜の闇が私の心の中までも真っ黒に染めていくのを感じずにはいられなかった。

「……どうしてそう思うの?」

「【思想は思考の表れ】……とでも言えばいいのかな? 俺には君は、今までに一度だって幸せな恋をしてこなかったんだろうなって感じたよ。一緒に生きる道より一緒に死ぬ道を選ぶ。……不安なんだね、君は。自信がないんだね。ずっとずっと愛され続ける自信が。だから愛されているうちに、相手の気持ちが変わらないうちに二人で消え去りたいだなんて思うんだよ。君が最初に言ってた、男の人が苦手って言うのは、それに何か関係しているのかな?」

「やめて……」

 胸が苦しい、動悸が尋常でないくらいに早まるのを感じる。なのに、そんな私の声は彼には届かず、なおも彼は話を続けた。

「君の視野は狭まっている。君は色んな事から逃げてばかりなんだよ。……ミズホ、それじゃ駄目だ。このままだと君は、ずっと自分の殻に閉じ籠ったまま、悲しみに打ちひしがれたままだ。たった一歩、踏み出すだけで君の中の世界は簡単に色を変える事が出来るんだよ? だから俺が――」

「もう、やめて!」

 静寂な公園が私の悲痛な声によって、更に音を失う。

 聴覚が捉えるのは、私の早い呼吸音。視覚が捉えたのは、驚いたように目を開く彼の表情。

 込み上げてくる気持ちが、怒りなのか悲しみなのか……それすらわからないまま、私は荒ぶる感情を彼にぶつけた。

「貴方に何がわかるの……? 知ったような口を聞かないでよ! 貴方の事を、今まで大人っぽいとか子供っぽいとか、優しいとか、たまに少し怖いとか、色んな感情を抱いてきたけれど……こんなに不愉快で腹立たしく感じたのは初めてよ。大っ嫌い! 貴方なんて大っ嫌いよ!」

 私は鞄を手に取り立ち上がると、一度も彼の方に振り返る事なく、一目散に公園のゲートを目指す。

 一刻も早くここから離れたかったから。

 五十嵐想。今日でイメージが定着した。

 無神経で最低な男。……もう二度と、関わらない。

 彼は急いで追いかけてくると、後ろから私の手を強く掴んだ。

「ごめん! ミズホ、ごめん!」

「うるさい! ついてこないでよ!」

 思いっきり腕を引き寄せられた私は、気が付けば彼の腕の中にいた。

「ごめん、ミズホ。俺が悪かった。お願いだから話を聞いて……? ちゃんと謝らせてよ。お願いだから、そんなに泣かないで」

 自分でも気が付かない内に、私の目から大粒の雨が止めどなく降り注いでいた。

 呼吸は荒く胸は苦しくて、頭が割れそうなくらい痛くて、まるで心がどうにかなってしまいそうだった。

「……ミズホ、ゆっくり息を吸って?」

 彼の優しい声が、ストレートに胸に響き渡る。

「……吐いて」

 彼は私を強く抱きしめながら、ゆっくりと背中をさする。

「……吸って」

 どうして私は今、こんなに無神経で最低な人の腕の中にいるんだろう? ……突き放せばいいのに。

「……吐いて」

 けれど、彼の温もりとその優しく響き渡る声が妙に心地良くて……さっきまでの怒りも悲しみも全て、ゆっくり溶けていくような感じがした。

「……少し落ち着いた?」

 私は彼の言葉にコクリと頷く。

「ミズホ……本当にごめん。俺悪気はないんだけど、いつも深く考えずに思った事を相手に直接言ってしまうところがあって……結果的に相手の事を苦しめて、追いつめてしまう。そんな事が今までにも何度もあった筈なのに……学習しないな、本当に」

 彼は私の肩に顔を埋めた。背中に回された腕の力が少し強まったような気がした。

「……もういいよ。私の方こそごめんなさい」

「俺は本当に最低だね。君に、あんな風に言われて当然だと思ってる。人には誰だって、触れていい事と悪い事、踏み込んでいい事悪い事があるのにね……」

「……あまり自分を責めないで。きっと、貴方の言う事が正しいから」

「ミズホ、ごめん……」

「本当にもういいから……私も色々と酷い事を言ってしまったし。だからもう、ソウくんも謝らないで? これでもうおあいこだよ。ねっ……?」

 ……俯く私。上手く表情を作る事が出来ない。

 彼は私を抱きしめる腕の力を緩め、両手を私の肩の上にそっと置くと、じっと私を見つめた。

 彼の表情はまるで飼い主に置き去りにされた子犬のように弱々しく、深く傷ついているように見えた。

「……うん、わかった。じゃあせめてミズホが元気がなれる魔法を、俺にかけさせてくれる?」

「魔法……?」

「うん、君が一番好きな魔法。……最高の笑顔になれる魔法だよ」

 自称魔法使いの彼は『ふぅ』と深い呼吸を繰り出すと、満天の星空が見上げながらそっと呟いた。

「……君が奏でる旋律は夜の街に光を与え、僕に深い安らぎを与えた。ぼやけた視界でかろうじて涙に濡れる君の姿を見つけた僕は、ゆっくりと目を閉じる。来世でまた会う時は、きっと幸せに」

「! ……それって、夜光曲」

 彼が口にした言葉は、大好きな夜科蛍の小説に書かれている文章の一節だった。

「水中から見る月は、地上から見る月よりも美しく思えた。優雅に泳ぐ魚達もそんな事を思いながら毎日を過ごしているのだろうか? 実に興味深い話だ。あぁ、出来る事ならこのまま魚になってしまいたい!」

「ふふっ、朧月夜に泳ぐ魚だ!」

 私の事を想い、一生懸命に夜科蛍の言葉を紡ぎ出す彼の姿に……頑なになっていた自分の心が、次第に解きほぐれていくのがわかる。

「彼女の遺体を、二人のお気に入りだった小さな湖の底にそっと沈める……」

「彼女は眠る人魚のように、美しい表情を見せながらゆっくりと沈んでいくと、次第に見えなくなってしまった……鏡花水月だね」

「……正解」

 その後も彼は優しく美しい文章を、まるで歌でも歌っているかのように、次々と奏で続ける。

 気が付くと、いつの間にか……彼も私も笑顔で楽しく笑いあっていた。

 ……とても不思議。まるで本当に、彼のいう【魔法】にかかったようだ。見る見る内に幸せな気持ちが溢れ出す。

「ねぇ、ソウくん! 次は?」

「じゃあ……これが最後ね?」

 彼は優しく笑い、そっと目を閉じる。そして、夜科蛍の世界観を想像するかのように、最後の小説の朗読を始めた。



***


 朦朧とする意識の中、俺と彼女は目を覚ます。

 ゆらゆら揺れる、薄汚れた渡り鳥のオブジェを見つめながら、『あぁ、また元に戻ってしまった』と、落胆の色を隠せない。

 つい先程までは確かに、柔らかい陽射しを受け、桃色で埋め尽くされたあの桜並木の道を歩いていた筈なのに。

 空の色を映したあの無限大の青い海は、思わず目が眩むほど光り輝いていた筈なのに。

 色鮮やかで美しい紅葉が作り出した、あの赤いベッドの上で眠っていた筈なのに。

 あの白い空から絶え間なく降りてくる粉雪に包まれ、命の尊さを知ったはずなのに。

 今まで見ようともしなかった、四季折々の自然の美しさに俺の心は深く感動し、同時に自責の念に駆られる。

 何故ならば、それらの美しさが瞬く間に儚く消え去る事を……俺も彼女も知っていたからだ。

 今、俺達が過ごしている季節。それは春でもなく、夏でもなく、秋でもなく……勿論、冬でもない。

 誰も知らない、五つ目の季節だ。美しい自然など、何処を探しても見つかりはしない。

 ――この世界は死んだ。……きっと、俺のせいだ。

 俺はこんな世界を望んだつもりじゃなかった。

 けれど結果的に、俺の勝手な行動が彼女をも巻き込んでしまい、今のこの現状を生み出した。悔やんでも悔やみきれない。

「……大丈夫。貴方のせいなんかじゃない。言葉一つで全てが消え去ってしまうとしたら、たとえ貴方が【それ】を望まなかったとしても、いずれ貴方ではない誰かがそれを望んでいた筈。ねぇ……貴方が思うほど、この世界は綺麗ではないのよ? 貴方が思うほど、人間は優しくなんかないのよ? ……それに、もしかしたらこの世界は、貴方ではなく私が望んだものかもしれないでしょう?」

 彼女はそう言って、ニコリと笑った。


***


「――はい、ここまで」

 彼はゆっくりと目を開け、目の前にいる私を見ると優しく笑った。

「……ちょっと待って? 今の、私知らない。夜科さん、他にも小説出してたの⁉ ……あれ? でも、夜の話じゃないよね?」

「残念。今のは俺のオリジナルでした」

 彼はそう言うと、子供のような笑顔でクスクスと笑いながら、私の頭をポンッと撫でた。

「え⁉ ソウくんが作ったの⁉ 今の話!」

「うん。そうだよ? ……何かおかしかったかな?」

「いや、違うよ! そうじゃなくて! 文章の雰囲気や、間の取り方、言葉の言い回し……どれをとっても夜科さんが書いたとしか思えないくらい酷似していて、それを書いたのがソウくんだって知って……少し驚いた。思わず、聴き入ってしまったよ」

「……そう? けど夜科蛍の大ファンからのミズホの言葉、光栄以外の何物でもないね。ありがとう。最高の褒め言葉として受け取るよ」

「……ソウくん、本当にすごいよ。さっきの物語、【何故そうなったのか】とか、【その先は一体どうなるのか?】とか、物凄く気になるもん! 何かに内容を書き留めてあるなら、今度それを見せて欲しい!」

「うーん……残念ながら、その前の話もその先もミズホに教える事は出来ないんだ。ごめん」

「え~! どうして?」

「……だってさっきの物語は適当に今思いついただけの話なんだよ、実は。だから後にも先にも、物語の全貌を説明する事は難しい。最初から存在しないんだから、ね?」

 彼はペロッと舌を出した。

「それと……ちゃんと魔法はかかったようだね。本当に良かった」

「何か……敵わないや。ソウくんには」

 私はバッグの中から飲みかけのペットボトルを出し、渇いた喉を潤した。

「――あ。そう言えば、アレ……何だったの?」

「ん? ……アレ?」

「さっきさ、つい遮っちゃったけど……ソウくん、私に何か言おうとしていたでしょ?」

 彼は少しの間『アレ……?』などと考え込んだが、すぐに閃いたのだろう。思い出したかのようにポンと手を叩く。

「……あー! アレね!」

「で、何て言おうとしたの?」

 私はペットボトルに目を向けながら、一口、もう一口とお茶を口に含む。

「うん、『俺が、ミズホにハッピーエンドを教えてあげる』そう言おうとしたんだ」

 彼の突然の言葉に、私は口に含んだお茶を勢いよく吹き出した。

「ミズホ~、女の子が下品過ぎるよ」

 彼は笑いを浮かべながら私に話しかけるが、こちらは咽せてそれどころではない。

「ちょ……それどういう意味で言ってる?」

「え? 言葉のまんまだけど。ミズホは悲恋が好きだから離れ離れになる物語が好きなんでしょ? だから夜宴の島では、離れ離れに終わる物語ではなくて一緒に戻ってくる【ハッピーエンド】の物語にしようって思ってさ!」

「いや……違、そういう事を言ってるんじゃなくてですね……その」

「え? 何?」

「……何でもないです」

 あのね、悲恋って悲しい恋って書くわけじゃないですか? それをこの人は、私にハッピーエンドを教えてあげるって……一体、何を考えてるんだ? 

 まぁ、彼のことだ。多分何も考えずに言っているのだろう。私達ってまるで、小説風を装い疑似恋愛をしている二人のようだ。……もう何も言うまい。きっと言っても無駄だと思う。

 何せ彼は、かなりの【変わり者】なのだから。

「……とにかく、話はかなり脱線してしまったけれど、明日から店は開いていない。そして、『行かなければならない』という店長の言葉……これはかなり急がなければならないね、悠長に構えてる暇は無さそうだ」

「……じゃあ、どうするの?」

「プラン変更だ。ミズホ、明日時間取れる?」

「え? それは、大丈夫だけど……」

「明日、店長宅に押しかけよう。そして詳しい話を聞くんだ! 勿論、俺も行くよ」

「……いきなり押しかけて大丈夫かな?」

「前以て連絡してたら大丈夫だよ。勿論、ミズホがね!」

 彼は不気味なほどの甘いマスクで、にっこりと笑う。

「……はいはい、わかったわよ。わかりました! 明日、午前中に連絡しておきます!」

「よろしい! なら本日はこれにて解散」

 彼は私からペットボトルを奪うと、一気に中身を飲み干した。

「あ、あーーっ!」

「自分だけ飲むなんてズルイよ? 俺だって喉渇いてるのにー」

 彼は空になったペットボトルをゴミ箱に放り込むと、書店に向かって歩き始める。

 私はリンゴの様に顔を赤くしながら、彼の背中を憎々しげに見つめた。

「つ、疲れる……本当に掴めない」

 きっと、あの不思議で奇妙で自由過ぎる彼に、私はこれからも振り回され続けるだろう。……まったく、前途多難だ。

 けれど、何故だろう? 彼との距離が、以前よりずっと近くなった。……そんな気がした。

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