そして彼等は邂逅する②
「……」
時間にして、大体五分くらいだろうか。やがて彼女は恐る恐る顔を上げて、無明の様子を窺ってきた。いつまで経っても自分に暴力を振るって来ないのを、怪訝に思ったらしい。
(思ってたより早かったな)
内心で少し感心しながら、無明は相手を刺激しないよう、ゆっくり、穏やかに口を開いた。
「呪いも疫病も、俺には効かんよ」
少女が、ハッとしたように無明の目を見た。どうやら元は純真な子であるらしく、その目は疑いの色は薄かった。どうやら、掴みは上々らしい。
「だから俺にはお前さんを迫害する理由は無い。この辺りにはヒトの集落も無いしな」
言いながら、無明は自分の額を軽く指で叩く。少女もそれに誘われるように自らの額に触れて、それで傷口が無くなっている事に気付いたらしい。額をベタベタ触って、驚いたように目を丸くしていた。
「あなたは……?」
「無明って言う」
「むみょー?」
「うん。聞き慣れないかも知れないが、そういう名前なんだ」
「むみょー……」
舌先で転がして馴染ませようとするかのように、少女は無明の名前を反芻した。どうやら、少しは警戒が解けてきたらしい。こうやって言葉を交わし始めると、彼女はどこにでも居る、普通の少女にしか見えなかった。
だが、彼女は決して普通の少女では有り得ない。何せ彼女は吸血鬼だ。天からこの世界を見守る偉大なる竜神ではなく、夜の荒野を彷徨う悪霊、”
彼等は、その血を以て悪霊の愛をバラ撒く。その愛を受け取る資格を持つ者はほんの僅かで、大概の場合は振られてしまう。
つまり、彼等の体液には他種族を吸血鬼に造り替える力があるが、大概の場合はそれに耐える事が出来ずに死んでしまうのだ。しかも、吸血鬼には自らの種族を増やそうとする本能的な欲求がある為、彼等の周りには必ずと言って良い程、死体の山が出来上がる。
そんな彼等が、他種族に受け入れられる訳が無い。吸血鬼と言えば、今や魔物の中でも代表的な存在である。
「こんな所に迷い込んで来ちゃダメだろう。辺境とは言え、一応はヒトの領域だ。俺以外のヤツに見付かったら――」
言い掛けて、野暮な話だったかと思い直した。吸血鬼がヒトに見付かったら何をされるか、彼女はよくよく知っている節がある。本人が分かっている事をわざわざ言うのは馬鹿馬鹿しいし、何より彼女が気の毒だ。
「どうしてこんな所に?」
「……」
尋ねてみると、彼女は葛藤するような表情を浮かべた。何か事情があるのだろう。いや、本来こんな所に居る筈の無い彼女がこんな所に居るのだから、それは当たり前か。
「あの、むみょー様は」
「さま」
「さま」
普段聞き慣れない敬称を思わずオウム返ししてしまうと、少女もそれに釣られてしまった。どうやら、余程素直な性格であるらしい。どうやら余計な事を言わないよう気を付けた方が良さそうだ。
「失礼。どうぞ続けて」
「え、あ、はい。えっと……」
戸惑った様子で、少女は一旦言葉を切った。元々、言うべきか言わざるべきか、迷うような事だったらしい。彼女は明後日の方向に視線を逃しつつ、何度か言い淀んだ。
「その、むみょー様は魔物なのですか?」
「魔物、ではないかな」
「では、ヒトの味方?」
「――」
その問いは、きっと無明にとっても不意打ちだった。自分でも驚くくらいにドキリとして、無明は一瞬、口を噤んだ。
「……いや」
自分にとっては、長く、重たい逡巡の後。
無明は不安そうな顔をしている少女に対して、無明は、ゆっくりと首を横に振った。
「今の俺は、誰の味方でもないよ」
「……」
少女は、無明の心の内を見透かそうとするかのように、ジッと顔を見詰めてきた。無明もそれに応えるように、彼女の顔をジッと見詰め返す。
静かだが緊張で張り詰めた、数秒の間。
やがて、少女は答えを出した様子だった。
「……むみょー様は私が何者なのか分かっても、私を敵と見なしませんでした。そこを見込んで、どうか、どうか、お願い申し上げます……!」
一度堰が切れると、もう止まらない。そんな感じだった。
少女は無明に近寄ってくるとその両手を取り、何処かへとグイグイ引っ張っていこうとする。
「私に出来る事なら、何でもします! ですからヘイカを、どうかヘイカをお助け下さい! 酷い怪我で、全然目を覚まさないんです……!」
「ちょ、おいおい……」
その華奢で小さな体格からは想像も付かないような、強い力だった。勢いに呑まれる、無明は引っ張られて彼女についていく形となった。
彼女の剣幕に気を取られて聞き逃してしまったが、彼女は一体、誰を救って欲しいと言ったのだろうか。酷い怪我とか目を覚まさないとか、事態は中々
どちらにせよ、無明が考えていたのはまだ常識の範囲内だった。可能性が低いとは言え、この森の中でなら起こり得なくもない話だ。
だが、どうも話はそんな単純なものではないらしかった。
「え……」
先ず初めに、焦げたような匂いがした。ついで、森の暗闇の中にバチバチと弾けている紫電を見て、その中心にヒト一人通れるくらいの空間の皹割れが揺らめいているのを見た。
魔力の暴走か何かだろうか。少なくとも、転移術の名残にしては世界への被害が甚大過ぎる。早急に誰かがあの皹割れを修復しなければ、次第にその規模を広げていって、遂にはこの場一帯を消失させてしまうかもしれない。本来なら一も二も無く様子を見に行き、事態の収拾に努めたい無明だったが、今は少女に腕を掴まれ、引っ張られている状態だった。
否。
本来なら振り解いても向かうべきだっただろうし、あと数秒経っていたらそうしていただろう。
だが、無明には出来なかった。それよりも早く、少女が立ち止まったからだ。
「此処です!」
少女が、何かを指さした。
それは女だった。俯せに倒れ、豪奢な金色の髪に覆われている所為で、その顔は見えない。が、髪やボロボロの服の隙間から覗く肌の色は褐色で、背丈はそんなに大きな方ではないらしい。女性と判断したのはそれっぽい雰囲気からだった。もしかしたら華奢で中性的な男かもしれないが、そうと分かるまでは暫定的にそうだと仮定しておく事にする。
そもそも、性別や容姿だなんてのはどうでも良いのだ。彼女を目にした瞬間、無明は知らず知らずの内に足が竦んでいた。彼女の身体から立ち上る、圧倒的な魔力の残滓。
見た瞬間に悟った。この場にある空間の亀裂。あれは、この女が原因だ。
「……」
震えが止まらない。冷や汗が後から後から流れ落ちる。
何なんだ、コイツは。俺の目の前にこの女は、果たして俺なんかが対峙していい存在なのか。
「陛下、陛下! 助けを呼んで参りました! もう大丈夫です! もう大丈夫ですから!!」
無明の内心など露とも知らない様子で、少女が女に縋り付く。
その言葉の内容に、無明は思わず目を剥いた。
ヘイカ。へいか。
……陛下?
魔物である吸血鬼の少女が、陛下と呼ぶ存在など、ただ一つしかないだろう。
「まさか」
無明が茫然と立ち尽くしているのを他所に、以外に力の強い少女が女の身体をひっくり返す。長い灰色の髪の下に隠れていた、若く、魔性すら漂っているように見える美貌が露わになる。但し、その肌の至る所には、焔熱に揺らめく爬虫類の鱗が浮いていた。
「マジかよ……」
その顔を、無明は知っていた。いや、無明だけでは無いだろう。その辺の子供や世俗から離れた隠者でさえ、伝聞や新聞、その他諸々の手段でその容姿を知っているだろう。
彼女はこの世界に降り立った災厄そのものだ。各地に現れては災禍を撒き散らす彼女には、各地のヒトビトが付けた様々な渾名がある。
”火の娘”。”堕ちた神”。
或いは。
「魔王、か……!」
魔王城にて勇者と戦っている筈の世界の敵が、今、何の因果か無明の目の前で倒れていた。あまりにも因果な巡り合わせに目の前がクラクラして、暫く無明は喋る事も動く事も出来なかった。
「むみょー様!」
殺せ、と。
”あの人”の声が聞こえた気がした。
外から聞こえてくる必死な少女の叫び声と、内から聞こえてくる鬱々とした男の声。二つの声に挟まれて、身体が磨り潰されていくような感覚を覚える。
声が出ない。喉がカラカラに渇き、心臓がバクバクと暴れている。
「……」
少女がローブにすがり付き、焦れたように何度も何度も引っ張り始めた。
彼女も必死だ。無明に真実を明かした以上、彼女も引くに引けないのだろう。例え、魔王と相対した無明が心変わりを起こしたように見えたとしても、最早逃げるには遅過ぎる。彼女は既に、賽を投げたのだ。
「むみょー様! むみょー様!! お願いします! 何でもします! 何でもしますから!! ですから、どうか……!!」
殺せ。
魔物を殺せ。魔王を滅ぼせ。
少女の声と、内から聞こえる"彼"の声が、無明を苛む。動けない無明を打ちのめすように、選択を迫る。
「俺は……」
視線の先には、魔王。或いはボロボロに傷付き、打ち捨てられている独りの娘。
服の裾には、一人の少女。小さな身体に見合わぬ意志と覚悟を滲ませて、無明にすがり付いている。
自分でもよく分からないまま、無明は、その場から一歩踏み出していた。
「俺、は……――」
殺せ、と。
"彼"が、叱り付けるように唸るのを、最後に聞いた気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ダーク・ブライト ~彼と魔王の物語~ 罵論≪バロン≫ @nightman
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