第一幕 敗れた魔王と古城の隠者
仮面を被りて竜は吼える①
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
玉座の間は、広く、暗い。
たった一つ、無駄に豪奢な玉座が一つあるだけだから、がらんどうに近いような印象を受ける。
けれどそれだからこそ、音はよく聞こえるのだ。あまり声の大きくない者の声でさえ、この玉座の間ではよく通る。
「――陛下」
聞こえる筈の無い声が、玉座の間に響いた。
ギョッとして目を開けると、一体何時の間にか入り込んだのか、自分の良く知る、まだ幼い少女が不安げな様子で立っていた。月光を梳いたような銀髪は煤で汚れ、透けるような白い肌は恐怖に青ざめている。けれど血の蜜を固めたような透き通った紅い目は、真っ直ぐに此方を見詰めていた。
「エマ!」
思わず玉座から立ち上がり、其所に立っていた
「馬鹿者、どうして戻って来た! 他の者は? まさか彼等も……!?」
「私一人です。そんな事よりお迎えに上がりました、陛下。やっぱりこんなの間違っています。陛下だけが残るなんて、そんなの……」
胸の内の思いを吐露する内に、そこにあった感情の堤防までもが決壊してしまったのだろうか。その目尻にはみるみる内に涙が溢れて、その言葉も聞き取り辛くなってしまう。彼女はいつも狼の騎士のぬいぐるみを抱いていて、今もやっぱりその両腕に抱えていたのだが、その腕に力が籠もり過ぎているのか、狼の騎士は身体が二つに折れて苦しそうだ。普段のエマなら、そんな抱き方はしない。内気で心優しい彼女はぬいぐるみの気持ちまで考えてしまうから、そんな扱い方は絶対にしない。
きっと、それ程に怖かったのだろう。彼女を含めた領民や、兵士をこの城や城下町から逃がしたのは昨夜の話だ。どのような経緯でエマが戻って来たのかは知る由も無いが、一人での行動はきっと心細かったに違いない。特殊な事情を持つ彼女ならば尚更だ。
それでも彼女は、戻って来た。たった一人で、戻って来た。
他ならぬ、この愚かな王の為に。
「……エマ」
せめて彼女の震えが止まるようにと、彼女の身体を抱き寄せる。彼女はびっくりしたように身体を硬直させたが、それでも抵抗はしない。直ぐに身体から力を抜いて、此方に体重を預けて来た。
「良い子。良い子だ」
あやすように。或いは、子守歌を歌うように。
彼女の耳元で囁くと、彼女はくすぐったそうに首を竦めた。
「ありがとう。
彼女が眠れず泣き出した時にいつもやっているように、その背中を掌で軽く叩く。そうやって精一杯甘やかした後、ゆっくりと身体を離して彼女の目を正面から見詰める。彼女の種族特有の血の瞳は、涙の跡に彩られてとても美しかった。
「でも、だめだ」
「え……」
「妾は行けぬ。妾まで此処から離れたら、奴らは間違い無く追ってくる。妾と一緒に、
「でも!」
エマは何かを言い返そうとしてきた。普段の内気な様子が嘘のように、必死の形相で何かを言い募ろうとしていた。
だから、人差し指をその口元に押し当ててやった。
ビックリしたように言葉を呑み込む彼女に被せるように、ゆっくり、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「
言い掛けて、はたと思い当たった。
義務と責任。
それもまた、間違い無く本当だけど。
「――……何より、妾は
「そ、それなら……」
せっかく一度は明るくなったのに、エマは再び泣き顔に戻ってしまっていた。分かってはいた事だったとは言え、やはり胸が締め付けられる思いだった。
「どうか、陛下も逃げて下さい……私達と一緒じゃなくてもいいから……逃げて下さい……アイツらと戦わないで……」
「……」
彼女の言葉は、きっと彼女が思っている以上に重く自分に圧し掛かった。奴らと戦った者がどうなるか、彼女は身に染みて知っている。他ならぬ彼女の両親とその領民達がそうだったから。
自分はそうならないとは言い切れない。だが、彼女の言う通りに逃げる事は出来ない。自分がこの場に残って奴らを足止めすれば、逃がした民や兵士達がそれだけ遠く此処から離れる事が出来るから。結局、王として彼等を守る事が出来なかった自分でも、せめてそのくらい事はやらないといけない。
「……分かった」
何にせよ、この場にこれ以上エマを居させる訳にはいかない。どうにかして彼女を逃がした領民達に合流させる手段を考えながら、自分は、狡い大人の特権を使わせて貰った。
「其方を見送って、王としての最後の仕事を片付けたら、妾もこの場から去ろう。だから其方は先に行け。よいな?」
「……」
その瞬間、どうしてエマがあんなに激しい表情を浮かべたのか、自分には分からなかった。彼女は激怒したような慟哭するような、それでいて恐怖に震えるような形容しがたい表情を浮かべながら、自分のドレスの裾を思い切り掴んで来た。それだけでは飽き足らず、今度は彼女の方から抱き付いてきた。
「エマ……?」
「……」
呼び掛けても、反応は無い。ただただ意地でも離れて堪るかと言わんばかりに、彼女は腕に力を込めてくるばかりである。予想外で初めての経験に、自分は困惑する事しか出来なかった。
そして、嗚呼、運の悪い事に。
よりによってこのタイミングで、彼女はやって来た。
「――取り込み中?」
涼やかで、透明で、無機質で無遠慮で忌々しい声。
「少しくらいなら、待ってもいいけど」
ヒッ、と息を漏らしたのはエマだ。身体を硬直させ、此処に来た時よりも激しくガタガタと震え始める。即座に彼女を引き剥がしつつ立ち上がり、背後を振り返る。
「下郎が」
玉座の間の入口に立っていたのは、真っ白という形容がピッタリな、若い娘だった。派手な装飾が無い代わりに優美な彫刻が施されている白銀の鎧に、腰の剣帯に吊った細身で優美な黄金の剣。玉座の間の昏い松明の光でさえ美しく反射する細い金髪に、ミルクを思わせる白い肌、青い瞳。背は高いが体格はどちらかと言えば華奢な方で、戦士と言うよりは少女という印象の方が遙かに強い。
嗚呼、きっと。「神に愛される」と言う形容は、彼女のような者の為にあるのだろう。
人間でありながら人間の身を超越した薄気味悪いバケモノが、其所に居た。
「よくもまぁぬけぬけと妾の前に顔を出せたものよな。あれだけ殺して、まだ殺し足りぬと申すか」
「それはお互い様でしょう」
此方の精一杯の皮肉も、向こうには全く効いた様子は無い。
涼しげな顔でそう言い返しながら、彼女は一歩、二歩と玉座の間の中に踏み込んでくる。
「魔物は命乞いを無視してヒトを殺す。なのに貴方は、私が彼等を殺す事を非難するの?」
「そのような問答はするだけ無駄であろう。立場が変われば視点が変わる。優先すべきものもな。貴様は我が領内に押し入り、無辜の民まで殺した。妾にとっては、それ以上に重要な事は無い」
「無辜の民を殺したと言うなら、そっちも同じ。ヒトビトは魔物に被害に苦しんで、遂に私を喚ぶまでに至った。自分達は良いのに、私達にはダメだと言うの? 幾ら何でも勝手過ぎない?」
「味噌と糞の区別も付かん貴様等と有益な話が出来るとは思っておらぬ。その勇気を持てない臆病さ自体を非難はせんが、貴様等はよりによって妾が保護していた者達を殺して回った。断じて、赦されるものではあるまいよ」
「……意味が分からない」
「ああ、分かるまい。分かってくれと頼む気も、もう無い」
どうしよう。背後のエマが完全に固まってしまって、動いてくれる気配が無い。せめて玉座の裏に回ってくれれば、そこにある隠し通路に逃げ込む事も出来るだろうが、残念ながらエマがそうしてくれる気配は一切無い。
「……それはそうと」
不意に白の少女は、此方に向かって手を伸ばして来た。
「その子、こっちに渡してくれる気、無い?」
「……は?」
予想の斜め上過ぎる彼女の提案に、思わず目を瞬かせる。
「貴様、まさか気でも狂っておるのか?」
「それが、その子の為。他はダメだったけど、せめてその子だけは助けてあげたい」
「は――」
ざわ、と。
空気がザワついた。
他はダメだった。”ダメだった”。具体的に何がどうダメだったのかは明言されていなかったが、嫌な予感を抱かせるには十分だ。そして予感というモノは、嫌なものに限って良く当たるのだ。
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