古城の隠者の変わらぬ午後①

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 夢見が悪いと、寝覚めも悪い。


 まるで高所から落下するような、心臓に悪い目覚めだった。


「──んが……っ!?」


 目を開いて、真っ先に見えたのは、ここ五年ですっかり見慣れた自分の研究机だ。否、今は研究机と言うよりは、“崩落跡”と言った方が正しいだろうか。


 机の上で組んでいた足が、寝ている間に粗相をかましてしまったのか、はたまた別の要因か。普段は限界を超えた高さまで積み上げ、この世の奇跡を体現してのけたと自負していた古書の塔の数々が、一つ残らず倒壊して今や跡形も無くなっている。崩壊した奇跡の残骸は机の上にブチ撒けられて、そればかりか床の上にまで雪崩れ落ちていた。


 本当に、一言で言うなら、惨状だ。直ぐに片付ける気にもなれなくて、無明は一先ず、自らが座っていた椅子の背もたれに、身体を預け直した。


「……はぁ」


 どうやら、昨夜は本を読んでいる途中で寝落ちしてしまったらしい。


 状況からそう判断を下しつつ、無明むみょうは机の上で組んでいた足をそっと自らの身体に引き戻し、椅子の上で胡座を掻く格好になった。途端に、その横着な体勢の所為で傾いていた椅子が、ガクンとほんの少しだけ元に戻る。が、飽くまでほんの少しだけだ。恐らく、机から雪崩れ落ちた古書の内の一冊が挟まって、椅子の足が床に着くのを邪魔しているのだろう。


「……やりおるわ」


 なんとなく、芝居がかった古めかしい口調で一言呟いてみる。硝子張りの天井から降り注ぐ陽光はやや眩しいくらいで、あちこちから聞こえてくる鳥の声は耳に心地良い。


 一般的な学校の体育館程もある硝子で出来たドームは、この建物全体の中で最も空に近い位置にあり、太陽の光をこれでもかとふんだんに取り込んでいる。そのお陰で、城の中であるにも関わらず、木々や芝生や花の茂み、果ては用水路や溜め池まで完備しているこの場所は、と言うよりは空中庭園と言った方が正しいような有様だった。実際、今まさに無明が座っている研究机や、木々や茂みの中に紛れるようにして様々な場所に設置されている本棚が無ければ、此処は本当に只の空中庭園だ。此処を元々作ったヤツがどんな者だったのか無明には判別が付かないが、相当な趣味人だった事に間違いは無いだろう。わざわざ全ての本に劣化除けのまじないを掛けるくらいなら、最初から適切な環境に保管してやればそれで済む話だろうに。


 「……」


 日光は目覚めに良いらしい。その話の真偽はともかく、取り敢えず活動する気分にはなってきた。具体的には、自身の眠気やら怠さよりも、この机周りの惨状をどうにかしないといけない気分になってきた。


 、周囲の状況をザッと確認。把握し、思い描いた頭の中の光景をそのまま


 想像するのは、机の上や床の上に散らばった大量の古書がふわりと浮き上がって所定の位置へ戻っていく、というファンタジーな光景だ。無明が座っている椅子もふわりと浮き上がり、下に敷いてしまっていた古書も自らの元々の場所に戻るべく、パタパタと羽ばたいてその場から飛び立っていく。机の上の空間では、積み上げられる順番を待っている古書達が周囲を飛び回り、ちょっとした渋滞状態を起こしている。が、それでも古書達の統制は大したもので、さながら吸い込まれていくような滑らかさで、次々と積み重なっては“塔”を幾つも形成していく。


 やがて古書達は、無明が重ねた通りにやや乱雑で、絶妙なバランスを保った所定の位置への帰還を終えた。それに呼応するように、無明が座っていた椅子は水底に着地するように柔らかく元の位置に戻っていき――


「!」


 カタン、と木の足が石畳に触れる音がして、無明は閉じていた目を開ける。


 目の前には、山と積み上げられている大量の古書に、無明の目の前に確保されている小さなスペース。いつもなら完全な空白だが、今はそこに本が一冊、ページが開かれた状態で鎮座している。


「く……~~ッ」


 湧いてきた欠伸を噛み殺しつつ、無明は椅子の上で胡座を掻いたまま伸びをした。寝てしまった所為で集中力が切れたのか、それとも集中力が切れたから寝てしまったのかは定かではないが、少なくとも今は、このまま読書に戻る気になれないのは確かだった。


 コーヒーでも淹れようかと、無明は組んでいた足を解いて椅子から下ろし、立ち上がる。


 否、立ち上がろうとする。


 中途半端に膝に力を込めた所で動きを止めてしまったのは、まさにその瞬間、横合いから勢い良く飛んできた何かが積み上がった本の山に突っ込み、せっかく片付けたそれらを突き崩してしまったからだった。


「……!?」


 茫然とする無明に対し、突然の闖入者は無頓着だ。自らが突き崩した本の山の下から這い出してくると、無明をその真っ黒な瞳で見つめて、がぁ、と一声鳴いた。一応、自らが壊した本の山の下敷きになった筈なのだが、本人は全く気にしている様子は無い。


「……いや、飯くれじゃねーよお前。もっと言うことあるだろ。たった今片付けたばっかりだったんだぞ?」


「がぁ!」


「……ったく」


 太い嘴に、真っ黒で艶やかな羽毛。ドスが利いているようにも聞こえる濁声は、彼がそれなりの年月を生きている事の証だ。


 恐らく、換気の為にあちこち空けているドームの窓の一つから入ってきたのだろう。通常の個体より二回りは大きいその鴉は、無明の苦言など意に介さず、わざわざ翼を広げて、全身で“報酬”を要求してくる。一応文句は言ってみたものの、コイツがこういうヤツだと分かっている無明は、それ以上何かを言う気力も湧いてこなかった。


 握り拳を作り、開く。


 そこに現われていた青くて大きな木の実を放ってやると、鴉は器用にそれを嘴で受け止め、流れるように呑み込んでしまう。どうやら、それで満足してくれたらしい。彼は一旦振り返って、自らが這い出してきた本の山に頭を突っ込むと、そこからズルリと何かを引っ張り出した。


 四つ折りに畳まれた、文字がびっしり並んでいる紙の束。一言で言うなら新聞である。大陸の中央にある人間の国で発行されたもので、世界の情勢を知る為には中々役に立つ代物だ。生憎此処から人間の国までは相当な距離があるから“最新”とまではいかないが、それでもこんな“ド”が付くような辺境の地においてはあまり問題は感じない。強いて言うなら、毎回この鴉に相当な長距離飛行をお願いしている事くらいだろう。


「ほら、もう一個持ってけ。来週も宜しくな」


「がぁ!」


 青い木の実をもう一つ生成して投げて寄越すと、鴉はそれを再びそれを嘴で受け止め、無明の研究机から飛び立っていった。無明は無明で、さっきと同じ片付けをもう一度始めつつ、鴉から受け取った新聞を小脇に抱えてその場で踵を返す。さっきは出鼻を挫かれたが、今度こそコーヒーだ。背後でバサバサと古書達が宙を舞う音を聞きながら庭園を抜け、無明は唯一の出入り口である扉を潜る。


 無明が勝手に棲み着いているこの古城は、今となっては謂われも何も分からないくらい遠い昔に建てられたものらしい。崖の中腹に建てられ、背後には小山を背負い、眼下には美しい森と湖を臨んでいる。湖の脇には街の跡があるから、嘗ては一つの領土として栄えていたのかも知れないが、詳細は不明だ。無明が今まで居た図書館には見事に魔法関連の書物しか残ってなくて、この城の歴史を探ることは出来なかった。


 或いはこそが、城や街が廃れた原因なのかも知れないが、まぁどちらにせよ、今は無明にとって居心地の良い住居である事に変わりはない。人気ひとけが無い石造りの廊下を抜け、幾つもの階段を降り、城の下層にある厨房へ。なにしろ城だから距離もそれなりにあるが、しばらく図書室に籠もりきりだったから気分転換には丁度良かった。


 嘗ては大勢の使用人が働いていたのであろう厨房は、今は廃墟に相応しく、ひっそりとした雰囲気を漂わせている。冷え切った窯に、静まり返った空気。窓から差し込んでくる陽光の光の中には埃がキラキラと静かに舞っていて、廃墟特有の奇妙な美しさがあった。


 水を入れた私物の銀製のポットを窯の上に乗せ、火に掛ける。湯が沸くまで時間が少し掛かるから、その間に無明は、嘗ては使用人達が休憩や食事の為に使っていたのであろう大テーブルに腰掛けて、小脇に抱えていた新聞を広げた。


 真っ先に飛び込んできたのは、


「!」


『勇者、魔王城へ』と書かれた大見出しだった。大陸の北側、エルフ領である“不帰の樹海”を抜けた先には、“魔王”が統べる領土が広がっている。一ヶ月前、勇者とその一行が魔王討伐の為にその領土に入ったという記事を読んだ覚えはあるが、まさかもうその戦いに決着が付くのだろうか。


「……」


 獰猛で、残忍。多種族を喰らい、傷付け、そもそも他種族と共存する意志を持たない種族をこの世界では魔物と呼び、恐れている。一週間に一度、人間の国から届けられるこの新聞にも、必ず魔物による被害の事が多数取り上げられているくらいだ。そして、そんな中でも特に恐れられているのが、それら魔物を統べる存在である“魔王”である。


 ある時突然この世界に降臨した“魔王”は、全ての魔者達の王を名乗り、この世界に暮らす全ての生命に対して戦線布告。世界各地で様々な種族を襲い、殺し、破壊と絶望を撒き散らしたと言う。この世界に暮らす種族達は人間族を中心に連合を組み、力を合わせてこの脅威と戦った。多くの犠牲を出す事になったが、遂に魔王はその連合の力を前に押される事になり、北の地に追いやられる事になった。今はその北の地に作った魔王城から世界各地に散らばる魔物達に力を与えつつ、傷を癒やして力を蓄えているという。“魔王”を完全に討伐しようにも決定打に欠け、困った種族連合はやがて古の文献から一つの方法に行き着いた。


 それが“勇者召喚”。異世界より魔王を斃すに足る神の遣いを喚び出して、魔王を討伐して貰うという方法である。種族連合は各国から古い文献と知恵者、魔法に精通している者を集め、を乗り越えながら、遂に三年前、勇者の召喚に成功した。


 ……少なくとも、そういう事になっている。


「“彼女”はだった訳か」


 一度席を立ち、無明は火に掛けたポットの様子を見に行った。グラグラいっていたので、自己流でコーヒー豆の抽出液を乾燥させて粉末状に加工した物と、砂糖を一緒にカップに投入し、湯を注ぐ。同じく自己流で作った冷蔵庫擬きから保冷していた牛乳を取り出し、これも同じカップに投入。熱い牛乳に冷たい牛乳を注ぐ訳だからぬるくなってちっとも美味くないが、長いことこれを飲み続けてきた無明にとっては、もうこれが一番落ち着くものである。


 一口啜って、一拍間を置いてからもう一口。


 全然上達しない自らの腕前に少し笑って、無明は新聞を残してきたテーブルに戻ろうとする。


「……む」


 そうしなかったのは、来客に気付いたからだ。


 踵を返す方向を変更し、無明は城の内部ではなく、簡単な野菜や薬草を栽培している裏庭へと続く勝手口へ向かう。外の様子を窺う事が出来ない木製の扉の前に立ち、タイミングを合わせる為に一秒、二秒。


「こらぁ!!」


「「「!!?」」」


 大声を出しながら勢い良く扉を開けると、途端に緑色の小さな人影が三つ、小さく跳び上がるのが見えた。三人共、此方に背を向けてしゃがみ込んでいたが、なるほど、どうやら無明が育てている薬草の花壇に悪戯しようとしていたらしい。


 豚のように潰れた鼻に、下顎から生えた二本の牙。ナリは小さくても、例えば同年代の人間族に比べれば遙かに立派な体格。


 泥鬼オークは嘗て、エルフが自らの戦奴として泥から生み出した種族である。今も彼等はエルフ達を自らの主人と定め、普段は狩りや農耕を、非常時はエルフの為に戦う戦士となって生活している。戦具に身を固め、主人の敵を撃滅せんと戦場に向かうその姿を無明も一度見た事があるが、戦う為に生み出された者特有の迫力と言うか、有無を言わせない凄みのようなモノがあって、感銘を受けた。


 とは言え、無明の花壇にしゃがみ込んでいた三人組は、まだまだそんな勇壮な戦士の姿からは程遠い近所の悪ガキ共だった。近所と言っても無明の城から彼等の村までは一日掛かる距離があるのだが、いつもの如く狩りの訓練の為に遠出をしてきたのだろう。別に珍しい事では無い。生まれながらの戦士達であるオークは、幼少の頃から親元を離れ、集団生活や狩り、戦士としてのいろはを叩き込まれる。そもそも無明が彼等に出会ったのも、この近くで彼等の内の一人が怪我をして困っていた所を、たまたま無明が見つけて手当した事がキッカケだった。


「またお前らか! 薬草に悪戯すんなって毎回言ってるだろ!」


「悪戯じゃねーし! 大きく育つよう肥料やろうとしてただけだし! な!?」


「ごめんなさい! ごめんなさい! ボクは止めようって言ったんですけど!!」


「あ!? オメー自分だけ媚びやがってずりーぞ!」


 辺境の廃城でひっそりと暮らす無明の事を知っている存在は殆ど居ない。騒がしいながらも空気が明るくなる雰囲気を持つ三人組の子供オーク達は、数少ない例外だ。


 いつもの怒鳴り合うような会話を一通り楽しんだ後は、適当な挨拶へ。訊いてもいない近況報告を聞きながら、無明は三人の為に冷たく甘いコーヒー牛乳――本当はカフェオレとか言いたいのだが、自分が作ったものは間違い無くそんなお洒落なものじゃない――を大きな木のジョッキに淹れてやる。それを、今や三人は一切驚かないで受け取ってくれる。最初の内は三人とも悲鳴を上げて逃げ回るくらいだったのに、子供の順応は早いものだ。

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