番外編 第7話
七 遥かなる約束
桜の花びらが舞い散る春。優しい桃色の季節。
少年は忘れられない不思議な体験をした。
***
眩しい太陽の暖かい陽射しが少年を包み込み、寒い冬から身を守っていた植物や生物も、春の到来に喜びを隠せずひょっこり顔を出す。
少年は季節の中で、春が一番好きだった。
父親は暖かくて仕事中眠くなるだとか、母親は毛虫やミミズが嫌だとか言うけれど、暖かい事も、寝る事もとても大好きで、虫だってへっちゃらな少年にとっては、何の不都合もなかった。
とある日曜日の事だ。
少年は父親と母親と五つ上の兄と一緒に、弁当を持って地元にあるお城の公園に満開の桜を見に来ていた。
兄が屋台の焼きトウモロコシが食べたいと言うので、母親からトウモロコシ二つ分の金を貰い、二人で一緒に並んでいると、少し遠くにある、長い石の階段を登る変な人物を見つけた。
真っ白な長い髪に、真っ白な着物。
兄に『変な人がいるよ?』と声をかけてみたけれど、兄は『あそこには誰もいないぞ?』と言うではないか。
少年は『おかしいなぁ、確かにいるのに』と首を傾けた。
「変なやつ~」
兄は再び前を向き、焼きトウモロコシの順番が来るのを、今か今かと待ちわびている。少年はその間も階段からずっと目を離せずにいた。
すると白い着物の人物はそっと振り返り、こちらを見た。
あっ……目が合ってしまった。
少年は目を逸らそうとしたが、何故か逸らす事が出来ず……少年と着物の人物は、互いが互いを見つめ合う形となった。
着物の人物は女性のようで、にっこりと笑うと少年に手招きをした。
――オイデ。
ここからだと声自体は聞こえないけれど、何故か少年にはそう聞こえた気がした。
少年はその声に誘われるように、ゆっくりと列から離れる。
ちょうど順番が来て、焼きトウモロコシを受け取っているところだった兄の、少年を呼ぶ声が聞こえたけれど……少年は沢山の人の中を掻い潜って、その階段を目指した。
少年が階段の下に辿り着くと、階段の一番上で待っている白い着物の女性……
女性は少年の姿を見つけると、またにっこりと笑い、手招きをする。
そして、少年に背を向けると、再び歩き始めた。
少年は急いで石の階段を駆け上がった。階段には少年以外にも人がいたが、やはりあの女性の姿は少年以外には見えていないようだった。
――どうしてだろう?
階段を登り終えると、少年はすぐに女性の姿を探した。
…………いた!
女性は奥に見える大きな樹の後ろに隠れて、こちらを覗き込んでいた。
ひょいっと白い手が伸びる。
白い手はユラユラと揺れていた。『こちらにおいで』と、呼んでいるようにも見えた。
その頃になると少年は、『あの人、もしかして幽霊なんじゃないか?』と、少しだけ怖くなった。
しかし、まだ小学一年生の少年は、未知なるものに対する恐怖よりも、好奇心の方が遥かに勝っていた。
もしもあれが、本当に幽霊だとしたら凄い事だ。
明日クラスの皆に『幽霊を見たぞ!』なんて自慢し
てやる!
と、少年は臆する事なく、張り切って進む事にした。
ゆっくりゆっくりと近づいていくと、白い手がフッと樹の後ろに隠れる。
そしてそこから、聞き取りにくいくらい小さな声で『ま~だだよ~』と、確かに聞こえた。
これじゃまるで、かくれんぼだ。
少年は思った。残念だけど、俺は隠れるのも見つけるのも得意なんだ! 幽霊だって人間の子供だって一緒さ。俺があいつを捕まえてやる!
……あれ? でも、幽霊って触れるんだっけ?
「ま、いっか!」
樹の前に立った少年はそれに捕まると、そっと裏側を覗き込んだ。
あれ? ……誰もいない。
少年は恐る恐る樹の後ろ側に回ってみた。
けれど、やはり誰もいない。
「ここは一番奥の樹だし、他に隠れる場所なんてないんだけど……おかしいなぁ」
樹の周辺の土の上をゆっくり歩くと、端の方でおかしな違和感を感じた。近付いてみると、すぐにその違和感に気が付いた。
――穴だ。 大きな穴が開いている。
少年はその穴を覗き込んでみたが、かなり深いのか暗くてよく見えない。
もしかして、幽霊はこの穴の中に隠れているのかなぁ?
そんな事を思いながら、少年は辺りを隈なく調べてみるが、やはりこの穴以外に他に怪しい箇所は見当たらない。
そして唐突に『そうだ!』と叫ぶと、少年は何か閃いたかのようにニヤリと笑う。少年は、穴に向かって大きな声で叫んだ。
「も~い~か~い!?」
穴からは何の返答もない。スンと静まり返っている。
「……あれぇ? やっぱり穴の中にはいないのかなぁ?」
「も~いいよ」
突然真後ろから聞こえてきたその声に驚き、少年は急いで振り返る。
「見~つけた」
白い着物の女性は、にっこり笑ってそう言うと、少年の胸のあたりをトンッと軽く押した。
少年は、そのまま背後にある穴の中に転がり落ちた。
――穴はかなり深くて、狭い。
身体中が土によって作られた壁にぶつかり、所々擦り切れ痛むが、スピードに乗って転がり続ける自分を止める事など到底出来ない。
しかし、そのような惨事に対面しながらも、何故か冷静な少年は、納得が出来ない。
『見~つけた』は、鬼である俺のセリフなのに!
そんな事を思いながら、少年はまるで不思議の国のアリスのように、ゆっくりと深い穴の中に飲み込まれていった。
***
「――んっ、……あれ? 幽霊……は……?」
少年は気を失っていたのか、それとも、少し眠ってしまっていたのだろうか。ズキンと痛む頭に手を添える。
半袖のシャツから剥き出しになっているその華奢な腕には、軽い擦り傷と切り傷が目立った。
しかし、普段からよく怪我をして家に帰るわんぱくな少年だ。たいして気にもせず、立ち上がり、服に付いた土を払った。
「……う、わぁ!」
目の前に広がる景色に、少年は驚いた。一面に広がる緑に一瞬にして目を奪われる。
ここは、どこかの山の頂上のようだ。新鮮な空気がおいしくて気持ちいい。思わず、大きく深呼吸をしてみる。
ピ~ヒョロヒョロ~と、鳶が飛んでいた。
「うわぁ! かっこいい!」
こんなに近くで見るのは初めてだ。
生き物が大好きな少年は、目を輝かせながら鳶を眺めていた。
「あ……っ」
その声に少年は振り返ると、少年と同じ年頃の少女が怯えたような目で少年を見つめていた。
肩までの長さのサラッとした黒髪に、先程の女性が着ていたような白い着物姿。大きく真ん丸とした目は、うるうると涙を溜めていた。
両手で大きな白い箱をしっかりと抱えながら震えるその姿は、まるで小動物を連想させる。
少年は、『何だかリスみたいな女の子だなぁ』と思いながら少女を見つめ返した。
「お前誰? 俺、気がついたらここにいたんだけど……お前ここがどこだかわかるか?」
少年は少女に問いかけるが、少女はただ震えているだけで何も答えようとはしない。
少女のウジウジした態度に腹を立てた少年は、強い口調で言い放った。
「おい! リス子!」
「え、……え? り、リス子って……もしかして私の事……?」
「お前以外、ここには誰もいないじゃないか!」
そう言って、少年は少女に近付く。少女はビクッと身体を揺らした。
「俺はお城にいたんだ。そこで白い幽霊を追いかけていたら、いきなりそいつにおっきな穴に落っことされて、気が付いたらこの山にいた。答えろ、リス子! あの幽霊はどこだ!」
少年にリス子と呼ばれたその少女は、どうしたらいいのかわからずオロオロする。その態度が、ますます少年の心を苛立たせた。
「おい! 聞いてるのかよ⁉ ちゃんと返事くらいしろよな!」
少年は少女に詰め寄り、ドンッと肩を押す。少女はその拍子に持っていた白い箱を落としてしまい、中身を思いっきりばら撒いてしまった。
「あっ……!」
「……これって」
少年は思わず目を見開く。
そして、その後……少年は何とも言えない複雑な気持ちになった。
何故なら、少女が持っていた大きな箱の中身が救急箱だったからだ。
伸縮性の包帯、絆創膏、傷薬、減菌ガーゼなど、沢山の救急用品が土の上に散らばっていた。少女は無言でそれらを集め、箱に戻す。
「これ……もしかして俺の為に?」
少女は伏し目がちに、小さく頭を下げた。
「……だったら最初からそう言えよな!」
『大体俺は怪我なんてへっちゃらなんだよ!』などとブツブツ呟きながら、少年は土を払い、落ちている物を拾い始めた。
「ご、ごめんなさい……」
少女は静かに、そして申し訳なさそうに少年に謝る。そんな少女の姿を見て、少年は『あ~、もう!』と、自身の髪を掻き毟りながら……
「俺も……ごめんな」
とぶっきらぼうに、少し照れ臭そうに謝罪した。
かなり大きな救急箱だったので、勿論、中身も沢山詰め込まれていたようだ。
全て集めるのにも、蓋が閉まるように、拾ったそれらを上手くまとめて中にしまうのにも、それなりに時間がかかった。
少年は落ちている体温計を拾い、渡すと、少女はゆっくりと白い箱の蓋を閉める。どうやら全て回収出来たようだ。
「はー疲れたぁ。やっと終わったぁ」
「あ、ありがとう……拾うの、手伝ってくれて……」
「……お前さぁ、いつもそんな話し方なの?」
「ひ、人と話す事……あまりなれてなくて」
「ふーん。お前、どこの小学校行ってんの?」
「ショウ……ガッコウ……?」
少女はまるで初めて聞く単語のように、目を丸くした。
「小学校だよ! 遊んだり勉強する場所だよ」
「……ごめんなさい。ショウガッコウ、わからない。勉強は母様が教えてくれているから」
「えー⁉ お前小学校に行ってないの⁉」
少年はとても驚いた。少年にとって小学校とは、その年齢に達したら誰もが必ず通うものだと思っていたからだ。
「じゃあ……お前、友達は?」
「トモダチ……?」
「いつも一緒に遊んだりするやつの事だよ」
少女は少し考える素振りを見せてから、ポツリと答えた。
「……母様」
「母様……って、お母さんはお母さんだろ? 友達とはまた別物だろ?」
少女は悲しそうな顔をしながら黙り込む。少年の言っている事がよくわからないのだ。
少年は、友がいない少女の事を少し不憫に思った。
「……ま、いーや。俺は森野一人! お前、名前はなんて言うんだ?」
少年は、このしんみりとした空気を吹き飛ばすかの如く、元気に自己紹介を始めた。
「……わ、私はスズ。……世白……鈴」
「スズ? リスの方がぴったりなのにな」
少年が笑いながらそんな事を言うと、少女は再び目を丸くする。
「そんな事、初めて言われた……ありがとう」
「いや、褒めてないんだけどな」
「あ、そうなんだ……ごめんなさい」
少し抜けてる少女の独特なテンポに合わせるのは結構大変だ。しかし、ここは男である俺が引っ張ってやらないと。
変なところでかっこつけな少年は、少し考える素振りを見せながら、少女の姿を上から下までじっくり観察をし始めた。
「あ、あの……何……?」
少女は少年の行動の真意を窺い知れず、あたふたとうろたえる。
「ん~……やっぱりリス子の方がピンとくる。よし、今日からお前の名前はリス子だ! わかったか、リス子⁉ 返事!」
「え……?」
「返事!」
少女は少年の大きな声に驚き、思わず自分が出せる精一杯の声で返事をした。
「は、はい!」
「よし、リス子! 俺がお前を俺の子分にしてやる! これからは俺の事はボスと呼べ! 幽霊を一緒に探すぞ!」
そう言って少年は拳を作ると、腕を高く上げた。
「……ふふ、何とも威勢の良い少年であろう」
いきなり背後から聞こえた声に驚き、少年は急いで後ろを振り返った。
「母様!」
目の前にいる小動物のような少女は、パッと目を輝かせ、その『母様』と口にした白い着物の【幽霊】に飛びついた。
「お前……そいつは幽霊だぞ⁉ 離れろ、リス子!」
「母様は幽霊じゃないよ? 母様だもの……」
少年は、自分の指示に従わない少女に対し怒りを感じ、思わず声を張り上げた。
「ボスの言う事が聞けないのか⁉」
「聞けない! ボスの言う事……聞けない!」
少女は、そんな少年に対して必死に反論をする。
そんな二人の姿を見ていた白い着物の女は、ケラケラと大声を出して笑った。
「スズ、お前はいつからリス子という名前になったんだい? なかなかのネーミングセンスではないか! 森に住む栗鼠達も、お前が仲間に加わり、さぞかし喜ぶ事であろうよ。……そして、そこの少年。私は幽霊などではない。そのような低俗なものと、私を一緒にするでないぞ」
「じゃあ何だよ⁉ 皆に見えてなかったんだぞ、お前の姿! それって、お前が幽霊だからじゃないか!」
「私は、この世界の神だよ」
「かみ?」
「……見よ、少年。あの山のてっぺんに咲く見事な桜を」
女が指をさす方向には、目を見張るくらいに大きく、それでいて儚くも美しい桜の樹が見える。少年は、思わず感銘を覚えた。
「あれは山桜。その名の通り、山に咲く桜の事じゃ。私の分身でもある。……どうだ? 美しいであろう。お前は今まで、あれ以上に美しい桜を見た事があるか?」
少年は、気付くと無意識に口を動かしていた。
「――見た事ないよ。俺は今まで、あんなに大きくて綺麗な桜を見た事がなかった」
「ふっ、素直な子じゃ。見たものを見たままに感じられる美しい心。大きくなっても忘れるでないぞ?」
「――うん。忘れない。……あっ! でもお前、何で俺をこんなところに連れてきたんだよ⁉ 俺、穴に落っこちて怪我したんだぞ⁉」
我に返った少年は、女に抗議した。女は呆れたように溜息を吐いた。
「その程度の擦り傷でゴチャゴチャ言うな。女々しい男だ、まったく」
少年は女の意見に納得がいかなかったが、女々しいと言われた事に対し、少しばかり恥ずかしさを覚え、言葉を詰まらせた。
女々しいという意味はちゃんとわかっている。普段から兄によく言われ、意味を尋ねた事があったからだ。
「私がお前をここに寄こした理由か。それは、このスズに友達というものを作ってやりたいと思ったからだよ。お前はきっと、スズの良き友になれよう」
「おい、勝手に決めるなよな! それにこいつは、俺の子分になったんだよ!」
「子分? この山桜の娘が、か?」
「ああ!」
それを聞いた女は、下品なくらいに大口を開けて笑った。
「良い、良い! やはりお前は良いわ! 私が見込んだ通りの男じゃ! 子分とは、何とも愉快な話ではないか。良いだろう、スズや。お前、今日からこやつの子分になるが良いぞ!」
「だから、もうこいつはとっくに俺の子分なんだから、お前が指図するなよな⁉ 子分は親分の言う事だけ聞いとけばいいの!」
少年は、偉そうにふんぞり返って見せた。
「……のう、少年。この子は確かに学校へも行ってはおらぬし、友もいない。けど、出来る事もある。この子は本当に利発な子じゃからな。お前には、この山の声が、空を飛ぶ鳶の声が、森に住む生き物達の声が聞こえるかな?」
「そんなの聞こえるわけがないだろ? って、リス子! お前、そんな事が出来るの⁉」
少年に追求された少女は、恥ずかしそうに顔を赤らめながら小さく頷いた。
「リス子すげぇ! 魔法使いみたいだ!」
多少生意気と言えど、少年はまだ小学一年生。そんな、真実かどうかもわからないような女の言葉を簡単に信用すると、爛々と目を輝かせ、尊敬の眼差しで少女を見つめた。
「そんな、有能な子を子分にしたお前じゃ。親分として子分を何があっても守ってやらねばのう?」
女は優しく微笑む。
「それに……お前の未来に暗雲が立ち込めている。きっと、うちのスズがお前の助けになろう」
「暗雲? 何だそれ? お前の言う事、難しすぎてよくわかんねぇけど……わかったよ! 俺がリス子の初めての友達になってやる!」
少女はパァッと目を輝かせて、少年を見た。
「ありがとう、ボス!」
「いや……もうボスじゃなくてもいいから、ちゃんと名前で呼べよ」
「えっと……じゃあ……かーくん!」
「か、かーくん?」
「うん! モリノカズトだから、かーくん!」
そう言ってニッコリと笑う少女の笑顔は、まるで愛らしい花のように、一瞬にして周りを幸せな気分にさせた。少年は何だか照れ臭くなり、顔を赤らめた。
――これが、俺達の出会いだっだ。
俺と、スズと、山桜の……一生忘れられる筈のない、出逢い。
子供の頃の俺は、今とは違ってやんちゃで、人の気持ちなんて考えられない人間だった。
そんな俺は勿論、友の反感を買い、虐められた。
しかしそれは、小学生特有の流行りのゲームみたいなものだ。暫くするとすぐに標的はかわり、少し前まで俺に攻撃的な態度をとっていた奴らは、まるで何もなかったように俺に話しかけてきた。
――俺は、子供ながらに思った。
自分以外の人間に攻撃的な言葉を突きつけられる度、または無力な相手を目の前にし、マシンガンをぶっ放すように、手を休む事もなく責め続ける同級生達。
そんな彼らに感情というものがあるとは、幼い俺には到底思えなくて……急に恐ろしくなった。
そして、気付いたんだ。
この世で一番恐ろしいのは、人間なのだと。
『もしかして、自分以外の人間は無感情のロボットなのではないか?』などと、真剣に思い込んでいた時期もあった。まったく、馬鹿な話だ。
――けど思わないか?
何故そこまで言えるのか? 本当に感情とやらがあるのなら、そこまでするか? そこまでやれるか?
……何で、笑っていられるんだ。
俺には、どうしても理解が出来なかった。
今にして思えば、俺はかなり自己中心的な考えをしていた。勿論、他の人間にも自分と同じように感情はある。人間の姿で生きているロボットなんて、いる筈がないんだ。
感情を持った上でのあの行動……俺はますます、人間そのものに恐怖を感じ始めていた。
勿論、そういう俺だって同じ人間だ。
だけど俺は、あの世界に行った事により……どこかで自分は『他の人間とは違う、特別な人間なんだ』って思っていた。思い込んでいた。
だから、俺は笑顔の仮面をつけ、人気者になる仕草や会話術を学んだに過ぎない。
揉め事や口論は嫌いだ。寧ろ人間が嫌いだ。
俺は、スズ……君に、人間の醜さなんて見せたくなかった。
今でもふと、頭によぎるんだ。
君が俺にしてくれたように、俺は君に何かしてあげられただろうか?
君の世界に、何らかの色をつけてあげる事が出来たのだろうか?
――君と交わした沢山の約束。
果たされたものと果たされなかったものの比率はどのくらいだろうか?
君は約束がとても好きで、何かある度に『じゃあ、約束ね』なんて言って、笑って小指を絡めたっけ。
そんな君の笑顔が、愛しくてたまらなかった。
純真無垢な君は、この世界の何よりも美しかった。
時に幼い赤子のように愛らしく、そして淑女のように気高く美しい。
そんな君を愛さないでいられる者などいるのだろうか? ……きっと、いないであろう。
それはあの世界が証明している。
君に優しく愛でられた花は、君に喜んでもらう為だけに早く成長し、美しく咲き誇る。自ら寿命を短くしてしまう事に何の抵抗もないのだろう。
――君はとても自然に愛されていた。
君が触れると、水は更に透明度を増し、やがて宝石が散らばったかのように、キラキラと輝き始めるだろう。
木登りが好きな君を、優しい大樹がしっかりと支える。
美しい君の歌声は風に乗り、山にいる動物達の子守唄となる。
そして、そんな君は日に日に美しくなり、俺の心を激しくときめかせた。
触れてしまえば簡単に壊れてしまうほど繊細な君の心を、『自分だけのものに出来たら』と……そんな事を思った俺は罪だろうか?
けど、思うくらいは自由だろう? 俺なんかが君を手に入れるだなんて……出来るわけがない。そんな事は嫌ってくらいに理解していたのだから。
山桜の神は彼女を見守り、深く愛していた。
人間でも神でもない君は、とても不安定な存在だったけれど一際輝いて見えた。健気に強く咲き誇る桜のような君は……間違いなく、この世界の姫。山桜の姫だったよ。
そんな君に、俺は相応しくない。……そう思っていたのに。
彼女は、こんなどうしようもない俺の事を……誰よりも深く、愛してくれたんだ。
今日も慌ただしい雑踏の中を、俺はまるで透明人間のようにすり抜ける。
勿論、通りすがりに声をかけられる事もしばしばある。そして、それが誰であろうと、偽りの仮面をつけて笑顔を振りまくんだ。
人は俺の事を親切だの、要領がいいだの言うけれど……そうじゃない。
俺は前にも言った通り、人間が嫌いだし、ただ面倒な事が苦手なだけだ。
ただ笑ってさえいれば、いざこざに巻き込まれないで済む。
だから……無駄に愛想よく、無駄に優しく、偽りの自分を演じ続ける。
本当の俺を知っているのは、君だけで良かったから。
けれど、その君がいなくなって……屍のように、この一年を生きてきたけれど……もう疲れたんだ。
無理に笑う事も、我慢する事も。
今日は兄さんに、夜まで帰ってこないように言っておいた。
兄さんなら大丈夫。きっとあの子が……兄を暗闇の中から救い出してくれる筈だ。
「あいあい、兄さんの事……頼むね。君ならきっと――」
兄さんの、光の道標となる筈だから。
今度生まれ変わる時は、人間や生き物なんかじゃなく、自然の一部になりたい。
本当に、人間だけはお断りだ。あの世で閻魔大王や神に抗議してやる。
まぁ、そんな存在がいればの話だけど。
――君との最後の約束は、やっぱり果たせないみ
たいだ。……ごめんな、スズ。
遠く、遥か先で約束が果たされる日をただ待ち続ける君を想うと……胸が苦しい。
温情深い風よ。どうか、この想いを……俺を待つ彼女の元へと届けてくれないか?
「……いつまでもずっと、俺の心は君のものだ」
君に出会えて、本当に良かった。
「さようなら……リス子」
優しい君の笑顔を思い出すと、自然と笑みがこぼれる。
今日、俺はようやく……全てから解放される。
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